第七話 アブラハムの系図
朗らかに笑って、まあ入れよ、と、父は言った。ジャネットが意気揚々と入ろうとしたが、何も見えていないはずの伯父がそれを止め、尋ねた。
「お前は誰だ? ワタシの弟はどこにやった!」
「マーティン、兄貴に何があった? 錯乱しているようだが。」
大切な兄に傷を負わせた事を怒っているのだろうか。ルーテルは恐る恐るマーティンの顔色を伺う。マーティンは冷静に、じっと父を見つめていた。
「…『父さん』。」
「なんだい?」
その寒気がするほどの優しい笑みに、ルーテルはやっと、目の前の存在に『足りない』ものがあることに気付いた。
「『鍵』はどうしたの?」
「鍵? ああ、天国の鍵のこと?」
そう言って、父は胸元を空しく撫でた。
「それがね―――そこのニセモノに、奪われてしまったんだよ。アレは、ペテロがイエスから授かった天国の鍵なのに。…兄貴、ハルマゲドンごっこを今からでも止めるのなら、オレはお前を赦そう。何も、主に裁きは望まない。寧ろお前の赦しを取り次ぐよ」
「やっぱりサタンだったじゃない!!」
伯父が何か言う前に、そう叫んだローラとジャネットが教会の敷地内に入る。そしてそれぞれ、キッと敵意を向けてきた。ふふ、と、満足そうに、父は笑う。
「どうした、兄さん姉さん達は。いつも小馬鹿にしている、末の妹達の方が聡いようだぞ?」
「…『父さん』らしくないことを言うね。」
「マーティン、あんまり親を困らせるな。そっちにいると―――。」
そう言って、父は右手を後ろに回した。腰帯すらついていないローブの後ろに、何かあるようには思えない。しかし、父はその何もない空間から、天使が持つような、神々しく重量感のある大剣を取り出し、ゆっくりとその切っ先を伯父に向けた。その切っ先はあまりにも大きく、傍に居るマーティンとルーテルまで、自分に刃が向けられているような錯覚を覚える。
「―――『一緒に』殺しちゃうぞ?」
ルーテルはその言葉に、はっきりとこの『父』が偽物だと確信した。誰よりも多く仲間を殺され、誰よりも多く殺し返した。そんな父が、後を継がせて心穏やかに
「ローラちゃん、ジャネットちゃん。コレが本当にお父さんだと思っているんだね?」
伯父は冷静に問いかける。身を竦ませている姪と甥をより半歩前に出て、血に染まったベリーのストラを巻いたまま睨み付けた。
「おい、お前。今、ここに、お前の子どもは何人いるか、もう一度、名前を挙げてみろ。」
はあ、と、溜息をついて、父は一人一人、指を差して言った。ローラ、ジャネット、ルーテル、マーティン。
伯父は、しょんぼりとしている『彼女』の手を取り、高々と掲げて見せた。父はいぶかしげに『彼女』―――否、伯父の腕を見ていた。
「何してるんだ? 兄貴。旧いアンタの武器じゃ―――。」
「お前が娘として認めると言ったこの娘の名前を言ってみろ!!!」
「………? 何言ってるんだ、兄貴。この町に住んでいるオレの一番下の娘は、ジャネットだぞ。」
すると、『彼女』は、泣き出した。マーティンは腰帯を解き、何も持っていない腕を構える。ルーテルも、背中のギターを構えて臨戦態勢に入る。
「そうよ、そうよね! お父様! 私の信者が一番清らかで正しいんだもの、私の次なんていないわ!」
ジャネットが興奮気味に言う。しかし、『彼女』は、しくしくと泣き出し、チマチョゴリを濡らして言った。
「ひっく、ひっく……
「サタンの長女が、何をえばってんのよ!」
ジャネットが言い返すと、父は怪訝な顔をした。
「ジャネット? 何を言っている? 誰に言っている?」
「ホラ聞いた? アンタなんか目にも入らないって! アハハ! 貴方の実家は世界中のものを盗むけれど、アブラハムの系図は盗めないのよ!」
すっかり自分の言っていることに心酔してしまい、ジャネットは今の会話のおかしさに全く気付いていなかった。ローラはローラで、顔を背けているが、アレは絶対に笑っている。
嘲笑うジャネットとローラ、大して泣いているチマチョゴリの少女。父は、眉一つ動かさず、ただ、警戒心を少し強めただけだった。伯父は溜息をついて、少し角度が違う方に、少女を手渡した。
「ルーテルちゃん、
「わ、私だってこの偽物を―――!!」
「女の子を模しているんだ、喧嘩なんてするもんじゃないよ。」
わんわんと少女―――
「ぽうん? 狂ったフリをして逃れる気か?」
それを聞いて、ローラが噴き出した。勿論、愉快に思ってだ。
「フン、お前がワタシから奪ったのは、アブラハムの系図だ。だから、系図から遠く離れた『彼女』のことを、お前は認識出来ないんだろう。でも、ワタシの弟なら、例えアブラハムの系図に連ならない
「………。」
「もう一度言う。ワタシの弟はどこだ。」
「………。ジャネット? ローラ?」
彼はそう言って、冷たく言い放った。
「お前達の力で、いっちょここをメギドの丘に変えてくれ。最初の屠殺場を、最後の屠殺場にしよう。」
「はい、お父様!」
「いよいよ本当に
「いいから。早く。」
最早『父』を装う必要性を感じないのか、偽物は冷たく言い放った。しかしローラもジャネットも、気付かない。
初めにローラが言った。
「
ローラがそう大地に呼びかけると、タイルとアスファルトは、まるでデジタルイラストを、ペンキ塗りするかのように、紅に染まり、荒野へ変わっていった。自分達が今立っていた筈のアスファルトは、遠く遠くに去って行き、この荒野の空間が、まるで水に垂らした絵の具のように拡がっていく。恐らく、地面だけが、拡がっていっている。その証拠に、青い空とは別に、明るさが半分、否や、三分の一以下になった境界線が出来て、それがずっとずっと遠くへ拡がっていく。信仰のある限り
矢追町の景色はすぐに見えなくなり、続けてジャネットが言った。
「
ジャネットが空に手を上げてそう呼びかけると、ジャネットの丁度頭上の辺りの空が、在りもしない雲を掻き分けるようになって、光が差し込んできた。だがそれは、彼女が暗唱した聖書の言葉のような希望に満ちた慈愛のものではなく、例えるならば、干上がった荒野を彷徨う蚯蚓の水分を奪い取るような、粘り気があって酷い不快感を伴う光だった。
ふふ、と、偽物が笑う。
「アブラハムの神は、どうやらオレの味方のようだが、それでも刃向かうかい?」
「―――貴様に示すべき情はない事が分かった。姪二人が巻き込まれたなら不憫だが、弟の跡継ぎ達の涙は少なくしてやりたい。」
そして、強く拳を握りしめ、見えていない筈の眼でしっかりと偽物を睨み、近付いて行った。
「
ふんふん、と、偽物はニヤニヤしながら、炎天下の中凍り付いて行く空気を楽しんでいるようだった。怖がる
二人が顔を突き合わせるほど進んでも、偽物はその大剣を奮わなかった。嘗めている、バカにしている、という感じではない。ただ、面白そうに見ているから、それを中断するような事はしないのだろう。伯父は―――何のひねりもなく、その顔面に右ストレートを突き刺した。そして馬乗りになり、左手で首根を掴んで、繰り返し殴りつける。
「吐け!! ワタシの弟をどこにやった!」
偽物は意表を突かれ、その渾身の力で首が斜め後ろまで回った。助けに出ようとしたローラとジャネットに、伯父は振り上げた右手を叩き込まず、彼女達に向けて、本の僅かに、僅かに拳を開いた。
「
途端に二人は悲鳴も上げられずに昏倒した。マーティンは一瞬、本当に一瞬だけ迷った。が、それよりも先に、ルーテルが
そして恐らく、伯父はそのタイミングを待っていた。即ち、全員の視界から、自分が消えるその瞬間。目の前の偽物が、決して口を割らない―――否や、割ったとしても最早どうしようもないということを、理解していたからかもしれない。マーティンはその可能性について、予め聞いていたので、歯を食いしばり、息の荒いルーテルをきつく抱きしめて耐えた。
「
その瞬間、だった。睨め付けるような太陽から、
そこは、大地の割れ目から小さな炎が、雑草のように生えているだけで、大の男が殴り合っていたような形跡は、その場に飛び散っている血痕くらいしか残っていなかった。衣服一つ、焦げた肉塊一つ、残されてはいなかったのだ。
脱落者一覧
叔父、従弟二名、エルサレム・カトリック、アンティオキア・カトリック。
カンタベリー・カトリック、バプテスト・プロテスタント、荒井、南海、朝生。
伯父、父(?)。
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