第四話 開戦

 悲鳴で我に返ったマーティンが、白いワイシャツを真っ赤に染めて、蹲る伯父に駆け寄る。

「め、めが! ワタシのめが…っ! 『天使』に!!」

「お、伯父さん! 大丈夫ですか、すぐ傷を―――。」

「違う! そうじゃない!! 君達、今すぐ建物の中に隠れなさい!! ワタシの目は―――!!」

 黒い布で覆われた左目と、不自然なまでに丸く凹んだ右目から流れる血など気にも留めず、伯父はマーティン達を教会の中に押し込もうとした。ふふふ、と、それを聞いて、朝生が狂ったように笑い出す。

「あははは!!! 神の民を誑かした罪を、神さまが裁いたのよ! 信じる者は救われる、信じる者は守られる、信じない者は冒涜者、一人残らず地獄に堕ちる!!! 良かったじゃない、目だけで済んで! 全身を滅ぼされることの出来る方に、その罪深い舌も腕も残して貰えたんだから!!」

「朝生お前―――!!」

 まるで人の不幸や苦しみを利用するかのような笑い声に、マーティンは怒鳴りつけようとした。彼女を直に然るべきバプテストが、怒れる状態ではないからだ。しかし伯父は、手探りでマーティンの腕を掴み、あさっての方向をきょろきょろさせながら言った。

「カルヴァンくん、ベリーちゃん! ワタシはいいから、とにかく皆、建物の中に! 少しでも空から離れなさい!」

「お、伯父さまも一緒に………。」

「急いで! ワタシの眼が、『邪視アイン・ハー=ラーア』が両方開かれたら、それが直撃したら君達では耐えられない!」

 とにかく自分達が動かないと、傷の手当てもさせてくれそうになかったので、カルヴァンがバプテストを抱き、ベリーとマーティンで肩を貸す。教会の中に伯父達を押し込み、マーティンはもう一度外に出た。

「誰だ、今外に出たのは!? 戻りなさい、戻りなさい!!」

「伯父さまいけません! 動かないで、座って下さい!!」

 そんな声を後ろに聞きながら、マーティンは空をうっとりと見上げ、賛美歌を歌っている朝生に駆け寄り、腕を掴んだ。外は先ほどの怖気とは全く違う意味で不気味だが、確かに不思議な高揚感ももたらしてくる。

 それは、まるで擬者しんこうの在り方そのものが阿片中毒だと言われているかのような錯覚すら覚える程だった。

「な、なによ! マーティン兄さんだって異教徒に誑かされてたくせに!」

「そんなことはどうでもいい! とにかく逃げろと仰るんだから言うことを―――。」

 その時、天から歌が響いてきた。


 その歌は、教会の中にいて、暗闇と激痛に耐えていた伯父を、酷く焦らせた。古い古い、自分が若い時の子守歌だ。

「伯父さま、動かないで下さい。酷い傷です、人間にはつけられません! もし本当にサタンがつけた傷なら、処置を―――。」

「良いんだ! それより、さっき外に出て行った子は!? カルヴァンくんか? マーティンくんか?」

「マーティンお兄様ですわ。カルヴァンならここにおります。」

「伯父さん、落ち着いて下さい、何をそんなに焦っているんですか?」

 カルヴァンが、顔を覆って俯く伯父の肩を摩り、話をさせて落ち着けようと促す。伯父は、暫くの間、マーティンを止められなかったことに酷い罪悪感を覚えていたが、とにかく、あの『瞳』のことを教えて、次の危機に備えさせねば、と、自分を奮い立たせた。

「今、歌が聞こえてくるね?」

「はい、凄く悲しそうな……どんどん集まっているような。」

「当然だ。あれは『哀歌』。それも、ワタシが若い頃、バビロン捕囚時代、つまりは紀元前六世紀に、預言者エレミヤが書いてくれたものだ。ワタシが一族で住んでいたエルサレムが破壊されたときの歌だ。今はもう、メロディは失われている。」

「今も旧約聖書に残されていて、伯父さまの家で大切にされている五つの書ハメシュ・メギロットの一つの、あの哀歌ですか?」

 ベリーが自分の緑色のストラを引き裂きながら言う。カルヴァンには今の説明でも分からなかったが、どうやらベリーは、自分の兄であるローマンとマーティンの和解を取り持つ時、父を育てた伯父にまで遡って調べたらしい。

「ああ、そうだ。あの歌声は、天使のものだ。それも、芸術にあるような美しい天使ではない。黙示録に書かれているようなおどろおどろしいものでもない。もっと原初の、天使という概念がまだ殆ど確立されていなかった時から、ワタシの揺籃期からある天使だ。」

「その天使が来るのは、どうしてまずいのですか?」

「天使が来るのがまずいのではない。ワタシの眼―――『邪視アイン・ハー=ラーア』を、両方とも奪われた。あの眼が、誰か一人でも天使の眼に使われたら、矢追町の人間達はひとたまりもないだろうし、君達も直接浴びればただでは済まないだろう。」

「どうして……?」

 這いずるように身体を引き摺って、バプテストが伯父の膝に手をかけて覗き上げる。伯父は止まらない血を涙にして答えた。

「天使は沢山の眼を持っている。ワタシの眼は―――『邪視アイン・ハー=ラーア』は、見つめた者に不幸を呼び寄せる。ワタシは先ほど、外から君達の喧嘩を諫めるために、見せている方の瞳を、睫毛の長さの分だけ開いた。それで、君達の悪意は削がれ、体調を崩したはずだ。」

 今いる中で、その対象になっていたのはカルヴァンだけだったので、身震いした。そして、まさか、と、尋ねる。

「まさか、うっかり開いてしまっても良い方の瞳を、睫毛の長さの分だけ開いただけで『アレ』なのだから、隠している方の瞳を奪われたら……」

「その眼が、一体に何十個もの眼を持つ天使に奪われ、一斉に開かれたら、どうなる?」

 死、という大きな言葉が、カルヴァンの身体を駆け巡った。人成らざる者であれだけの力を持つのだから、人間であれば、『最大の不幸』が起きてもおかしくない。つまりは、ただ死ぬだけでは済まされない、阿鼻叫喚の地獄絵図が巻き起こるのだ。宛ら、ヨハネの黙示録の著者も、福音書家マルコのように全裸で逃げ出すような。

「それは、どうすれば防げますか?」

 バプテストが尋ねる。何か考えがあるようだ。

「天使達が、瞳を開く前に、一斉に潰すしかない。瞼が開かれたその一瞬を突いて目を潰すしか………。」

「でもそんなことをしたら、大伯父さまの視力は―――。」

「所詮ワタシは民間信仰の残滓隠居した身だ。今更眼がなくなろうと耳がなくなろうと、大したことはない。」

「………。大伯父様、天使の数―――いえ、瞳はどれくらい増えていると思いますか?」

「分からない。若い頃のワタシには、数字を順番に数えて正確に把握出来る者はいなかった。いつも何かしらの暗号を込めて、記録に残した。」

「………。」

 何か考えているバプテスト。ベリーは嫌な胸騒ぎがしたが、もう独り立ちした息子が意見を提案するまで何とか堪える。不可能な解決策しか思い浮かばない自分が、不甲斐なくて情けなくてたまらない。こんなことになってしまって、まだ何も分かっていることもないし、ある日突然、日常に謎の異物が入り込んできた、無垢な人々を守ることすら出来ないのだ、自分という骨董品は。もはや『父の兄』でしかない隠居の身で、出来ることも能力も、殆ど息子達に譲ってしまった。だが、人々に無用な争いを残すかもしれない『瞳』だけは、自分が持っていた。世俗を離れ、神に近しい、擬者の枠組みからも外れつつある自分ならば、正しい使い方と制御が出来る、と、他ならぬ神に言われたのだ。それについて日々、節制のための知恵を祈っていた筈なのに、今回のことで、自分が使える解呪と魔除けの力に慢心してしまった。

「マーティンお兄様! 大丈夫ですか、酷い顔色!」

「この、この、馬鹿女、全部終わったらしばく…。」

 バプテストと伯父が思考の海に沈んでいる間に、どうにかこうにかマーティンが朝生を抱えて戻ってきた。朝生は伯父の読み通り、中てられたらしく、気を失っている。マーティンは今の説明を聞いていなかったので知る由もないが、そんな恐ろしい天使に向かって両手を掲げ、顔を上げていたのだ。マーティンよりも強い影響力があったのだろう。

「よかった、これなら出来ます。」

「バプテストくん…? 何かあるのかい?」

 神は見捨てていなかった、と、少し伯父は顔を上げた。バプテストはマーティンを手招きし、気を失っている朝生に手を伸ばした。

「ごめんね、朝生姉妹。君の意見は聞けないけれど、矢追町の人々を護る為なんだ。」

 そう言って、バプテストは精神を集中させ、宣言した。

「ぼくらを慈しみ、愛してくれている父なる神よ、ローマへの手紙に基づき申し奉ります。For as we 我らは神より迷い出でしhave many members百匹目の子羊の群れ in one body我らは有象無象の烏合の衆, butなれど all members我らは全て神の花嫁にして do not have神の婢なれば the same function志は皆、頭たるキリストイエスと共に在り。. So故に、we are being many我ら千差万別十人十色の愛を持ってして, are one body in御身に尽くし捧げて仕えます。 Chirist全ての我らの全てたる愛する人の為. ―――少しだけ、ぼくの揺り籠の中にお戻り、朝生アソシエーション。」

 バプテストに触れられたところから、朝生の姿が少しずつくすんだ光を帯びる。その光は弱々しく、清らかではないが、確かに南海と荒井が消えたときによく似ている。マーティンの身体から朝生の身体の重みだけ、ゆっくり軽くなっていく。そして、バプテストの視線も、徐々に上がっていった。事務所に残されていた帽子とステッキを持ち、畏まって、バプテストはその場の者達に舞台挨拶のようにお辞儀をした。

「母様、父様、マーティン伯父様、そして大伯父様。これにてバプテストは、神の元に参ります。」

 ベリーだけが、悲鳴をあげるようにバプテストに縋った。だが、その口に渦巻いているであろう全ての言葉は、目頭から無音で流れていった。

「マーティン伯父様、一刻を争いますので、ぼくの知っていることを話す時間も惜しいです。ですので、父上を―――全教派ぼくたちの父上をお捜し下さい。ぼくは父上にお会いしたんです。」

「父さんだな、分かった。決意の邪魔はしない。神の花嫁としての責務を果たしてこい。」

 二の腕を掴むベリーを、カルヴァンが引きはがす。バプテストは、帽子の水仙のように美しく笑い、部屋から一歩出た。

 悪意の満ちた空気を吸い込み、恐怖を飲み込みながら、朗々と祈りを捧げる。

「教会の頭たるイエス・キリスト。神の花嫁たるバプテスト・プロテスタントが、第一コリントの手紙に基づき申し奉ります。For by on Spirit我らは無数の we were all神の民にしてbaptized唯一無二の into one body神の民, and have all唯一まことの been made to神へと至る道、 drink into神へと導くいのち one 神へと近付く真理をspirit示す者なり―――『The priesthood万人 of all believers祭司』」

 拡げた両腕の前に、まるで演説を聴く観衆のように、同じ姿をしたバプテストが増えて拡がる。広い教会の庭に所狭しとすし詰めになり、それでも数は増えて、道路にも交差点にも溢れる。増えたバプテストは、元々いたバプテストを見つめている。バプテストはステッキを掲げ、鼓舞するように叫んだ。

我らバプテストよ! 剣を持つ者は皆剣で滅びる。故に我らは剣ではなく、この牧者の杖をもってして、空の眼球を潰そう! 我ら互いの信仰良心を信じて袂を分かち、繁栄ふえた身なれば、隣人を助けずとして何とする! 征け! 信仰によって天を飛び、大空を貫け!」

 密集した中で、数多のバプテストが、杖を掲げて互いを鼓舞する。そして、天を見上げ、次々と浮かび上がり、シュンッっと矢のように飛び立っていく。大本だったバプテストは、両親も伯父も振り返ることなく、やはり同じように浮かび上がり、飛び立とうとした。

 けれども、その双肩に、彼の本音が現れていた。それを見て、ベリーは、アルバの丈を調整するための腰帯チングルムを解き、カルヴァンに渡した。

「ベリー?」

「あなた、アングリカンロザリーの作り方は教えましたね。」

「何だ、突然。」

「あの子が怯えています。行かなくては。私の力なら、あの子だけでなく、あの子が呼び寄せたあの子自身も強めることが出来るはず。」

 自分もあの特攻に加わる、と、暗に告げ、ベリーはカルヴァンを押しのけ、マーティンにお辞儀カーツィをした。

「マーティンお兄様、後はお任せします。あの邪視は、私にお任せください。」

「………。分かった。行っておやり。」

 マーティンが扉の前を退く。ウェディングドレスのようになったアルバの裾を摘まみ、ベリーは外に出た。カルヴァンは―――ただ、妻であり妹であるベリーの決意を、息子であり弟であるバプテストの決意を鈍らせないことだけを考え、ドアに張り付くだけで、決して外には出なかった。ベリーもバプテストも、カルヴァンの視線には気付いているが、決して振り向かなかった。

「母様、お戻りください。父様も伯父様も、母様を必要としているのを視線で感じます。」

「………全く、誰に似たのかしらね、そういうところ。」

 ベリーは、バプテストを背中から抱きしめ、耳元で囁いて歌った。

恐れるなナダーテ・トゥルーベ煩うなナダーテス・パンテ主が共にクィア・ディオス・ティーネー居られるナダーレ・ファールタ満たされるナダーテ・トゥルーベ貴方はナダーテス・パンテ神によってソーローディオース・バースター…。さあ、行きなさい。主の加護を母様が取り次いであげます。」

「………はい、母様! 行って参ります。」

 最早バプテストに迷いはなかった。その証拠に、彼は山を海に飛び込ませられる程の信仰いきおいで、その場から旅立った。地上に、誰も出ていないことを確認し、ベリーは陽の光の下へ歩み出す。

 空には、特に巨大な大きな睫毛のラインと、太陽ほどの大きさの睫毛のラインが、びっしりと浮かび上がっている。集団恐怖症トライポフィリアでなくても逃げ出したくなるように、同じ視線の先にある空の低いところまで、びっしりと。しかしその瞼の前に、何かぽつりと、太陽黒点のような黒いものがある。バプテストだ。

「神よ、貴方の意思ではなく、矢追町の人々の為に歌います。―――『天使よ詠えエキュメニカル調和と一致をテゼ』!」

 ベリーが空へ呼びかけると、睫毛のラインの隙間から、羽が落ちてきた。額が熱い。あの瞼すらない、睫毛のラインに睨まれているのだ。

「もっと、もっとおいでなさい。調和への祈りよ、平和への祈りよ、世界の全ての祈りの翼よ! 二千年の大聖年に涙した、諸々の全ての信仰者たち、今全ての軛を捨て去り、この歌を共に歌え!!」

 すると、更に羽が現れた。そして羽は、黒点の傍に寄り添い、静かに回り始める。まだ心許ないが、息子も立派な教会おとなだ。歌う前から枯れそうな喉を奮い立たせ、ベリーは歌った。

貴方は恐れなくて良いNada te turbe 何も怒ることなどないnada te espante 神の前には何一つquien a Dios tiene 足りないものなどないnada le falta 貴方は恐れなくて良いNada te turbe 何も怒ることなどないnada te espante 神さえあればそれでいいsolo Dios basta

 ベリーが両手を掲げ、すっと上へ動かすと、羽達はふわっふわっと跳ねた。まるでそれは、心臓を我が子に移植する親のようだった。死を受け入れ、死を喜び、最後の最期まで、その幸せに包まれて召されるのだ。

 空に地震が起こる。地面は揺れていない筈なのに、足の裏が歪んで撓み、軋んで伸びる。それでもベリーは歌い続け、指揮を繰り返し、時に特定の方向へ合図を出した。するとその方向にある羽達は、別の言語で同じ歌を歌う。まるで観客のいないソリストのように。

 ずる、と、睫毛のラインが僅かに動き、一列だったラインが二つに分かれる。黒点のいくつかが、たったそれだけで墜落した。だが、いくつかの黒点は寧ろそれを見て奮起し、激しく飛び回る。

 ―――さあ、行け!!!

 教会の中で、カルヴァンとマーティンは、今この状況で自分の出来る最大の活躍が、事務所で立てこもることだと理解している。跪いて祈り、二人の特攻が、せめて一つだけでも―――。

「いいえ、違います、マーティン兄弟。『全て』です。僕の息子と妻が、全ての邪視を潰さなければ意味がない。矢追町の人々を、大兄達を、父上を、護る為に必要な犠牲です。行かなくては。」

「………そうだね、すまない。覚悟を止めないと言ったのは僕のほうだったのに。」

「信仰のあるところ、遍く我らは現れる―――これは一時の、視覚の試練にすぎません。信者なかまがいれば、また会えます。」

 それに同意しようとしたときだった。

「しゃがみなさい!!」

 伯父がそう叫んだ。二人は咄嗟にしゃがみ込む。光の当たっていた机の一部がひび割れ、スポンジを千切るように崩れていく。或いは、スライムのようにとろけて行く。それらに驚く暇もなく、外から形容しがたい音波が襲ってきた。思わず耳を塞ぐ。バプテストが―――否やバプテスト達が、眼球を突き刺した悲鳴だ。失禁してしまうかのような悍ましい音波の中、頭の中に、ベリーの歌声がそれを中和するように響く。掌を姦通して脳を犯す音波に、ベリーの歌声が健気に抗っているようだった。

 ―――そして、静かになった。


脱落者一覧

 叔父、従弟二名、エルサレム・カトリック、アンティオキア・カトリック。

 カンタベリー・カトリック、バプテスト・プロテスタント、荒井、南海、朝生。


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