第三話 合流

 さて、そんな風に自分達の大兄が、まさかセックス疲れで寝こけているとは露知らず、『家族』を作っている数少ない一人であるマーティン・プロテスタントは、妻子と義母に、決して家から出るな、誰が来ても扉を開けるな、中に入れて良いのなら自分から入ってこれる、と、きつく言い付けて、町を歩いていた。義母などは心配性だから出てきてしまうかも知れないので、自宅にある信徒名簿に、家族全員で電話を掛けさせておいたのだが、果たして間に合っているだろうか。

 ローマンにはヘドロに見えていた謎の物質だが、マーティンには少し違って見えていた。どぎつい存在感なのは間違いないのだが、なんというか、水に浮かべた石油のような、気味の悪い虹色をしている。触るどころか、近付くこうとする気力を奪われるような、そんな水銀のような物質だ。調べようがない。

 ―――頭が痛い。

 あの水銀のような物質の傍に居るからだろうか。特に臭いも何もしないのに、ガスを吸ったかのように頭が痛い。ものを考えるための回路が、少しずつ薄くなっている気がする。

「ふう………。」

 水銀の見当たらない辺りにまで来たが、身体が重たい。マーティンは電柱に酔っ払いのようにもたれかかり、大きく溜息をついた。

 萎んだ肺が重い。空気が入って膨らんでいかない。息が苦しい。立ち上がろうにも立ち上がれない。

呪象解除ハミッシャー。」

 聞き慣れない声で、少し前に学んだ外国語の言葉が聞こえた。その途端、文字通り閊えがとれたようになり、激しく咳き込んだ。

 一つ咳き込む度に、身体の重さや縛りが解けて弾けて飛んでいく。喘息か肺炎かなにかのように、咳を出し切った時には、身体こそ聖書のページのように薄く軽くなったものの、喉が逆に痛くなった。

「良かった、ワタシの手でも祓えた。」

「…けほっ。」

 この状態で、町に普通の人間がいるとは思えないし、況してや謎の悪魔の力のような症状を祓えるようなエクソシストがいるとも思えない。敵か味方かと言うのなら、あの水銀のようなものの関係者だと思った。キッと睨み付けた男は、少し浅黒い肌に、白いシャツと、左腕と両脚を何故かベルトのようなもので巻いている。動画サイトか何かで見た、アーティストみたいだな、と思った。腰まで隠れる白い頭巾に、黒い布で左目を隠している。現代の白いシャツと黒いズボンに、古からの民族衣装を無理矢理当てはめたかのような、奇妙な印象を持った。

「君は、確かマーティン・プロテスタントじゃなかったかな? ルーテルちゃんとカルヴァンくんのお兄ちゃんの。」

「………。」

「ああ、ごめん。ワタシと直接会ったことはなかったね。」

 鼻下の髭のように、持ち上がった口角は、好意的にも不敵にも見えた。

「ワタシは君達のお父さんの、兄だよ。そうだな、伯父さんと気楽に呼んでくれたまえ。」

「兄? 父の? 父に兄が?」

「あー、まだ認知度低いのか…。矢追町なら分かってるかもって思ったんだけどな。この前ローマンくんならうちに来たんだけど。」

 とりあえず、彼も擬者のようだ。問題は、何の擬者なのかが分からないということだ。マーティンの兄ローマンは、放埒と清貧が、ぐるっと地球を正反対に進んで巡り会ったかのような二面性がある。淫蕩放埒な数百年来の問題児としての知り合いなのか、それとも教会の頭である聖職者としての知り合いなのか分からない。個人的に、目の前の伯父を名乗る男は自分の尻や乳を狙っているようには見えなかった。

「とりあえず、助けてくれたことには礼を言います。ですが、僕は貴方が分かりません。」

「それなら、確かこの町には、ローマンにコニー、アレクスがいたよね? 彼等のうちの誰かに会わせておくれ。彼等なら分かるし、彼等の言葉なら君も信じるだろう?」

「………。」

 擬者というのは面倒くさいもので、確かにマーティンの兄ローマンは五つ子だ。だが、マーティンはローマンの弟であって、それ以外のローマンの弟は、マーティンとは繋がりがない。偏にそれは、人の形をとったばかりに、人の社会や血の繋がり、呼び方や続柄に当てはめられないからなのだが、端的に言うと、マーティンは、ローマンの四人の五つ子の弟達をよく知らないのである。

 マーティンが黙っていると、伯父だという男は言った。

「………。君、もしかしてマーティンくんじゃなかった? いつもスーツを着てる子っていったら、マーティンくんだって、ローマンが言っていたんだけど…。」

「すみません、兄とはどこでお知り合いに?」

 すると、伯父だという男は口を開いた。

「この前、イスラエルに彼の教皇せんせいと一緒に嘆きの壁に来てくれたんだよ。」

 その言葉を聞いて、やっとピンときた。

「あ、貴方! 確かに! 確かに伯父ですね! あはは、すみません。何分兄弟の後始末で、父の兄弟については何も!」

「ハハハ、分かるよ、その気持ち。ワタシももう引退して君達のお父さんと同じ身の上なんだけど、まあ、陰謀論者達が寄ってきてしまってねェ。いつも泣き疲れているよ。」

僕らクリスチャンが言うのも何ですけれども、伯父さんはどちらかというと世界に牛耳られている方が多かったんじゃないですか?」

「そうだね、ワタシの弟達もなんだかんだと世界の半分以上を手に入れたけど、だからといって、思い通りになった訳じゃないからね。」

「はー………。わかりました、信用します。貴方の仰るとおり、僕がマーティン・プロテスタントです。父なら多分、兄の家にいますので、ご案内します。」

 マーティンが手を差し出すと、伯父はその手に眼を落とし、ああ、と、言った。

「下手に瞳を開くと、視えすぎてしまうんだ。だからこのままで大丈夫だよ、ありがとう。」

 そんな言い伝えがあるのか、と、マーティンはさらっと受け流した。

 道々、あの水銀のような物質は何なのか、色々と質問をしてみたが、伯父にも分からないようだった。ただ、伯父はあの水銀に触れるらしい。どころか、ベルトの巻き付いた方の左手で触れると、石油色の水銀は、ぷるぷる震えるわらび餅のようになった。食べようとは思わないが、無毒化されたことは分かる。少しでも減らした方が良いから、と、伯父が生真面目に無毒化していくのを、マーティンは燃えるような思いで見ていた。

 遅い、早く、遅い、早く………。

 そんなことを考えていると、突然、一軒の教会から大地震の音がした。家具が割れ、悲鳴が飛び出し、教会の中がよく見えるように設計された、透明な扉に罅が入る。

 この家は、マーティンの遠い妹の一人、荒井の家だ。荒井は、日本に帰化しているので、生まれ故郷アメリカとは別の名前を今は名乗っているのである。ただ、彼女は一人暮らしだった筈なのに、明らかに中から言い争う、ヒステリックな声がしている。それも、一人二人ではない。かなりの大人数だ。まさか、避難している信徒と喧嘩でもしているのだろうか。

アハットシュタインシャロプシュアルバ、…。結構いるね。」

「分かるんですか?」

「ちょっと大人しくしてもらおうか。」

 そういうと、伯父はうっすらと閉じていた左目を開けた。すると、途端に悲鳴が止み、かたん、ぱりん、という小さな余韻の音だけが聞こえてくるほどに静かになった。

「あの。」

「ん?」

「僕を助けてくれた時も、あの水銀のようなものを無毒化する時も、何か不思議な業を使っているようですが…。」

「ああ、大丈夫大丈夫、魔術の類でも、ましてや悪魔サタンの力でもない。君のお父さんも出来ることだよ。」

 見たことないな、と、思ったが、それより謎の力で大人しくさせられている妹と、その他のことの方が心配だった。自分の身長ほどもある木製の柵をすり抜けて、中に入る。伯父は『招かれて』いないからか、入れないようだった。見てきますね、と、だけ言って、マーティンは中へ走った。

「荒井! 荒井! 僕だよ、マーティンだ。入るよ?」

「マーティンお兄様!」

 ところが、中から泣きながら飛び出してきたのは、荒井ではなかった。同じローマンの妹で、兄と仲違いをするといつも仲裁に入って間を取り持ってくれる頼もしい妹、カンタベリー・カトリックだ。

「べ、ベリー? なんでここに?」

「バプテストが、私達の息子が…!」

「私達って…、カルヴァンもいるのか? 何があったの、説明して!」

 しかし、ベリーは泣きすがるばかりで、何があったのか言えそうにない。とにかく落ち着けようと、肩を抱いて、中へと入る。彼女が飛び出してきた部屋は、開け放たれていたのですぐに分かった。どうやら事務所にいたらしい。入ろうとすると、眼鏡を持ち上げて擦りながら、黒いローブを着た男が、ベリーの手を取って引き寄せた。

「うう……何なんですか、今日という日は…! ハルマゲドンでも来るって言うんですか全く…。」

「カルヴァン、何があった? …やあ、ツヴィンクリ、君のご主人のために、帽子の上から退く気はないかな。」

「うにゃ。」

 カルヴァンの灰色の帽子の上に乗っかる、宇宙のように黒い猫は、擬者たちの体調不良など、どこ吹く風で欠伸をしている。確かにこの猫は、帽子を被っていようと寝間着だろうと、何なら風呂に入っていようと、カルヴァンの頭から意地でも退かない猫である。つまり、この猫もまた、普通の猫ではなかった。

「あなた、大丈夫?」

「ぼくは大丈夫です。それより娘達は?」

 そうは言いつつも、カルヴァンはぐったりとしたまま、事務室の小さな椅子に座り込んだ。しんどい、と、全身が垂れ流している。ベリーは寧ろ何故元気なのか、と、思っていたが、すぐに、事務所の一番大きなテーブルの陰にいた三人を見て分かった。

 三人のうちのの一人は荒井だった。この教会の主なのに、いつも整えている髪は乱れていて、北米風の花柄のワンピースにも皺が寄っている。眉間は激しい頭痛を訴えて波打ち、それは余程酷いらしく、唇も震えていた。その隣には、原宿でも今日日見ないような、まるで芸能人のように太股とへそ、というより、腹部を出しているツインテールが仰向けに倒れており、その更に隣では、キャメルのコートとブーツを着熟した女性が丸くなっている。事務の一番奥には、春物の黒いコートを着た白人男性に見える擬者が、白い水仙の花を差した大きめのシルクハットを胸において横になっている。

 その胸は、動いていなかった。

 どうやら、あの大声はこの三人が喧嘩をし、熱くなったカルヴァンが仲裁をしつつ喧嘩に参加していた音らしい。

「荒井、南海、朝生。具合が悪いところ申し訳ないんだけど、何があったのか説明できる?」

 すると、朝生と呼びかけられたキャメルコートの女性が、視線だけ寄越した。一言だけ、雄弁に、『サタンの使い、下がれ』と、言っている。彼女は自分の妹であるのに、何故か父の妹を自称している変わり者なので、とりあえず彼女から事情を聞くのは止めておこう。

「南海、どうして喧嘩したの?」

「………。」

「今日の体験、信仰体験デボーションの内容に使うなら、どうする?」

 すると、何かのスイッチが切り替わったかのように、南海は眼を開き、むっくりと上半身を起こした。

「うぃ~、マーティンぃちっす…。」

「はいはい、ちっすちっす。ノリは戻さなくて良いから、何があったのか説明して。」

「ええと………。とりあえず、コレ撮っといたっす…。」

 そう言って、南海はスマホを持ち上げた。受け取ると、ばったりと腕が床にたたきつけられる。

 ベリーとカルヴァンは、お互いで何か話し合っていて、一緒に見るようには思えなかった。座る椅子もないので、仕方なく立ちん坊のまま、スマホの一番新しい動画を再生する。

 動画は、あの石油色の水銀を、何故か南海がリポートしているものだった。場所は、恐らく南海の教会の近くだから、結構ここからは遠い。大方本当に、日曜日の説教の題材にしようと思っていたのだろう。液晶の向こうの南海は、自撮り棒を使って、小麦色ではなく土色をした顔を写しながら、石油色の水銀の周りをぐるぐると回っていた。

『南海! 何してる!』

 叫び声がして、画面が空を写したまま回転し、地面をもう一度映した。かなり遠くに飛ばされたのか、水銀のすぐ近くで、黒い帽子と黒いスプリングコートの男が、南海を水銀から離そうと、画面の外へ押しやろうとしている。バプテストだ。日本に帰化したこの三人の姉妹の兄で、ベリーとカルヴァンの息子でもある。そしてマーティンから見ると、弟でもある。

『あ、何すんだし! 離してよ、今週末の礼拝の素材にするし、礼拝の配信にも使うんだから!』

『良いから離れろ、こいつはサタンだ!!!』

「………。」

 マーティンはその言葉から、バプテストは何かに気付いていると感じた。

 バプテストは、カルヴァンが生まれ故郷を追いやられ、アメリカ大陸に逃れてから生まれた擬者である。新天地で信者なかまを増やし、常に正邪を見極め、白黒をはっきりさせてきた子だから、バプテストの親戚は『自分にとってのサタン』というものを明確に持っている。その解釈が異なると、さっさと世話になった兄や姉の元を去り、独立する。アメリカ大陸で、バプテストはそうやって弟妹を増やした。二万以上いると言われているアメリカの弟妹たちの中で、北米で栄えた一族の女頭が荒井であり、南米で栄えた一族の女頭が南海である。南海はバプテストに最も近しい三姉妹の中では、好奇心が強く、何でも外に関わりたがろうとする。その性格は、バプテスト自身がよく分かっている筈だ。南海は自分がサタンに人々が誘惑されないように、危険な場所や危険なものにひょいひょい近付いて、発信する。それが彼女の在り方だからだ。

 そのようにして増えた彼等だから、お互いの『サタン論』には基本的に口を出さない。出せば三日三晩口論することになるからだ。…時々、そんなことを楽しみにしている暇な信者なかまもいるのだが。

 暫く画面の中で口論をしていた二人だったが、不意に水銀のような物質が震えたかと思うと、その物質が触手のようなものを伸ばし始めた。狙っているのは、南海の頭のようで、激しくもみくちゃになっている後頭部に狙いを定める。それに気付いたバプテストが、南海をなりふり構わず画面の外に突き飛ばすと、細く尖った触手は、勢いよくバプテストの胸の中央を突き刺した。

『う…っ、かは…っ!』

 衝撃で頽れたバプテストの手足を、何か栄養でも見つけたかのように、触手が増えて縛る。バプテストは呼吸を乱しながら、無事らしい画面外の南海に叫んだ。

『集められるだけ集めて、一番遠い教会に立てこもれ!!』

 足音が近くまで寄ってきて、遠のく。どうやらスマホを取るのを忘れるほど慌てていたらしい。実際、画面の中で、過去のことだとは言え、日本人好みの『白人』の肌が、見る見る内にアルビノを通り越して青くなっていくのは見ていて恐ろしかった。四肢を拘束され四つん這いになった弟の口に、触手が突っ込まれ、何かを飲まされているかのように小さな喉仏が上下した辺りで、マーティンは目をそらした。

 マーティンは、触れていなくても動けなくなった。この動画の尺を考えると、恐らくバプテストが解放されたかどうかは別にして、助けが入ったのは、二十分は先だろう。それだけの長い時間、あの水銀のような物質に触れられて、更に何か身体の中に入れたのだ。

 ということは、中の悪いこの三姉妹のことだ。恐らく南海の行動が軽率だの何だと責め立て、言い合いをしているうちに、取っ組み合いの喧嘩になったのだろう。事務室の中はそれほど荒れていないから、恐らく乱闘していたのは隣のキッチンかどこかだ。それが、あの伯父の謎の能力で急な停戦となり、ガラスや陶器の海から担ぎ出されたか、避難したかしたのだろう。そんな状況に、自分の息子の妹が突然陥ったら、確かに誰でも泣くだろう。マーティンも人間の妻子がいるから分かる。

「大体理由は分かった。南海の教会からこの教会が一番遠くて、途中にある姉さんとカルヴァンもついでに拾ったんだろう。」

「うぃ~………。」

 南海はぐったりと答えた。マーティンは動けなくなったところを伯父に助けて貰えた。丁度外に伯父がいる。彼の力を借りれば、バプテストは目を冷ますだろうか。

「荒井、外に伯父さんがいる。父さんの兄さんだ。彼を招いてやってくれないか、多分バプテストを治せる。」

「伯父さん?」

 荒井は暫く考え込んだ。自分が言えた義理ではないが、自分の父親のことは知っていても、その父親の兄弟については無頓着すぎる。この騒動が終わったら、伯父の存在をきちんと認識させるべきだろう。―――終わった時、全員が生き残っていることを、文字通り神に祈るしかない。

「嫌ですの。」

「え?」

「だって、異教徒でしょう? 本当は南海はともかくとして、朝生とだって入れるとき揉めたの。だから嫌。」

 でも、と、言い返したいのは山々だったが、今ここで、マーティンは伯父に助けられた事を知らない方がいいだろう。それを始めたら、それぞれの教義かんがえかたで揉めることになる。マーティンがバプテストに近付いて抱き上げると、成人男性を模している割に、余りにも軽かった。ただ、同時に奇妙な重みも感じる。飲まされたものの重みだろうか。

「マーティンお兄様! 息子をどうするんですか!?」

 カルヴァンを励ましていたベリーが顔を上げて通せんぼをした。肩は震え、今にも弱音を吐きたいと感情が荒れ狂っているのが分かる。

「外に、治療してくれる人がいるから、診せてくる。」

「私も行きます。いいですね?」

「勿論。」

 ベリーが不信感を露わにするので、カルヴァンも腰をあげようとしたが、ベリーは三姉妹を見ているようにと頼んだ。

 外に出ると、門のところで、心配そうに伯父が中を覗き込んでいた。ベリーの顔つきが険しくなるが、すぐに誰か気付いたようで、駆け寄っていって頭を下げた。

「息子を助けて下さい、お願いいたします。」

「君がベリーちゃんか、ローマンから話は聞いているよ。いつもご苦労様だね、ワタシに出来ることなら全力を尽くすとも。」

「伯父さん、この子です。今外に行きますね。」

 両手が塞がっているマーティンの代わりに、ベリーが門を開ける。伯父はそれでも中に入ろうとはせず、マーティンの腕の中で、死んだように眠っているバプテストに顔を向けた。左手を翳し、何か調べるように手を往復させる。

「む…? 彼は、『一つ』ではないね。」

「はい、息子は三人の女頭の兄です。」

「なるほど。マーティンくんに在り方が似ているんだね。」

「あの、それが………?」

 伯父は、片方だけ見えている眉を顰めて言った。

「存在感、とでも言うべきかな。彼が存在―――意識を維持しているのに、信仰が足りてない。身体の異物を下手に取り除いたら、それこそ容れ物の意味もなくなってしまうかも知れない。」

「そんな…。」

 息子を不憫に思った母が泣いている。

「つまり彼は、マーティンくんのように、一つの教会ではなくて、一つの家族の頭なんだろう? なら、少し乱暴だけど、全員実家に帰ってもらえば、少なくとも家は保たれるだろう。…ベリーちゃんには酷な選択だけど、一番近い息子の存在と、その下の……ええと、教会にいるのは三人かな? その三人の存在、どちらを取る?」

「! ………。」

 答えは決まっていたのだろう。ベリーから見れば、近代に入ってから成し遂げ、また成し遂げ続けている偉業の一つである超教派運動エキュメニカルを邪魔している一人が、朝生だ。だが、恐らく朝生を『還す』だけでは、補えない。還すのなら、三人同時でなければならない。

「他では補えませんか?」

「ベリーちゃんからは独立しているだろう? 彼は。多分カルヴァンくんでもダメだ。この子から離れている子が戻らないと。」

「………。三分ください。」

 ベリーはそう言って、悲しみながら教会の中に戻っていった。三分間で説得できるようには思えない。だが、ベリーの性格からして、力尽くとも思えなかった。

「どうするんですか?」

「多分、どうにかなるよ。今の自分がいなくなるより、一度実家に戻って、まだ独立した方が良いことは、分かっているさ。」

「………。随分、僕達プロテスタントの家族関係に詳しいんですね?」

 そういうと、ああ、と、伯父はどこからか石版を取り出した。…本当にどこに持っていたのだろう。

「君達の系図を持っているんだよ。と言っても、―――ええと、この町ではジャネット・ウィリアムズで通っているんだっけ? 彼女までだけどね。」

「ということは、兄たちのことも?」

「ローマンたちの事かい? ワタシが現役の時、彼等は赤ちゃんだったから、ワタシの方は彼等を知っているとも。」

 それもそうだな、と、マーティンは自分がまれる以前の西洋史を思い出す。

「あの、今教会に、カルヴァンという僕の半分がいるんですが。」

「うん。」

「もし、その、僕がバプテスト―――この子のようになったら、カルヴァンともう一人に、還ってきてもらわないといけないんでしょうか?」

「どうかな……。君の場合は、初めから独立していたところを、ローマンが無理矢理一つにまとめた形になっているだろう。分かれていったのではなく、初めから分かれていて、世界が存在を認めた方が後だったんだ。だから少し、勝手が違うと思う。」

 それを聞いて、マーティンはホッとした。せっかく個性があるのだ。むやみやたらと一つの容れ物にまとめなくても良い。

「伯父さま!」

 教会の中から、ベリーが戻ってきた。少し後ろを、背中に朝生を、右腕に南海を、左腕に荒井を抱えて、カルヴァンが戻ってくる。

「説得は出来ませんでしたが、意識はもうろうとしています。伯父さま、畳みかけるなら今です。」

 母親って恐ろしいな、と、マーティンは思った。所詮人間ではない自分は、恐らくこの先我が子として育てている人間の子どもも、将来己が妻になる人間の子ども時代も、分け隔てなく接するだろうが、人間である妻も、こうするのかもしれない。

 人間を模した者カンタベリー・カトリックがそうするのだから。

「いやいや、同意がなければ戻らないと思うよ?」

「伯父さま、息子の妹が一つずつしか出来ないことでも、息子は三人分の働きが出来ます。どうぞ息子を元に戻して下さい。」

「あのね、ベリーちゃん、気持ちは分からないでもないけど―――。」

 すると、うぃ~、と、南海が呻いた。顔は斜め下を向いているが、恐らくあれは、精一杯上を向いているのだ。

「うちは、異論ないっす………。元はといえば、うちがあのヘンなのに注目してたのがいけなかったんだし………。責任は取るっす。」

「わたくしは出来れば嫌なのです。お兄様とはいえ、わたくしは一人の擬者です。日本の名前を得て、『日本の荒井アライアンス』として研鑽してきました。」

「我儘を言うんじゃありません! この一大事に! 矢追町の貴女方の信者なかまを護る為なのです、少しくらいの犠牲は払いなさい!」

「おばさま、あんまりです! おばさまだって、日本の信者なかまとカンタベリー大聖堂の信者なかまが喧嘩をしたらどうされるんですか!」

「いやいや、ここで喧嘩しても始まらないよ。」

 伯父がそう宥めると、荒井は黙った。カルヴァンがよいしょ、と、門の所に三人を下ろすと、伯父は南海に左手を翳した。

神よエロヒーム我をゆるし給えメヘー・フェシャアイ呪象解除ハミッシャー。」

 すると、パチン、と、ホチキスのような、爪切りのような音がした。南海はそれまでのぐったりとしてゆったりとした動きが芝居だったかのように、バッと顔をあげ、きょろきょろと辺りを見回した。

「あれ? うち今めっちゃ凄くない??」

「少しの間とはいえ、自我を眠らせるからね。君が受けていたその他の悪影響も、外してあげたよ。」

「うぉー! 凄い! 日曜日までノンストップで配信できそう!」

「…南海。」

 じろっとベリーが南海を睨む。すると南海は、戯けて舌を出し、頭を掻いた。

「さーせん、おばさん。でもウソは言わないっす! 神さまは見てますからね、ウソは吐かないっす、ウソは!」

 そう言って、南海は重たい決意をしているとは思えない程の笑顔で伯父の前に跪き、指を組んで見上げた。

「イエスさまの次に凄い方。この危機から、うちんとこの信者なかまだけでなく、荒井っちや朝生っちんところの人々をもお救い下さい。その為に、うちを使って下さいっす。」

「…あー、もうっ。」

 それを聞いて、門に撓垂れかかっていた荒井が身体を引き摺り、南海の隣に平伏した。否、平伏したというより、跪く気力がないらしい。

「南海さんにわたくしの信者を任せるほど、落ちぶれてないのですわ。イエスさまの選ばれた方、貴方の手によって、わたくしと南海さんと朝生さんの信者をもお救い下さい。」

 姉妹だなあ、と、マーティンは少しじんと来た。バプテストの妹達三人は、方針こそ全く異なるが、基本的にはやはり三姉妹なのである。伯父は荒井の頭上にも左手を翳し、同じ言霊を用いて、荒井の身を楽にしてやった。荒井も自分の身体の変化に大きく戸惑っていたが、伯父とは分からずとも、目の前の自分達と同類の存在がその業を行ったことを理解し、深々と頭を下げた。

「では、君達二人を、一度バプテストくんの容れ物に戻す。無論、君達が彼の中に戻っても、君達の信者は傷つかない。寧ろバプテストくんがこの危機に立ち向かえる戦力になるはずだ。双方、異論はないね?」

お言葉通りになりますようにエイメン。」

 二人は頭を下げたが、朝生はフンッと顔を背けていた。

 本来なら三人同時の方が良い。だが、今意識がないよりも、二人を還して意識が戻り、自ら説得出来るのならば、それに越したことはない。

讃えよハレルー主をヤハ賛美せよハレルーその御名をエット・シェム・アドナイ聞けシェーマ神の民よイスラエール神は成し遂げられるアドナイ・イグモル。」

仰る通りにございますエイメン。」

 南海と荒井の身体が、淡く光る。その光は、埃を被った白熱球のようだったが、次第に、雪のように白く白く、変わっていった。

「さあ、兄に触れてご覧。君達は暫くの間、兄の盾と剣となって、兄に尽くしなさい。」

「うぃっす!」

「わかりました。」

 二人がマーティンの腕の中に横たわるバプテストに触れると、その身体は手元から、雪が溶けていくように透明に拡がっていった。

「んじゃ、マーティン兄ぃ、お兄ぃの中で動画編集でもしてるから、頑張ってね!」

「業腹ではありますが、矢追町の皆様をよろしくお願いしますわ。」

「………。うん、またね。」

「はい、また。」

「うぃ~! お兄ぃの中にいたころ思い出して、楽しみ………。」

 南海は最後まで明るく軽口を叩きながら、荒井は静々と消えていった。二人の姿がよく見えなくなっていくにつれて、腕の中のバプテストの身体は、成人男性らしい重さを持って行く。そして二人の足先が消えた頃には、もうずっしりと重たくなり、マーティンはバプテストを地面に下ろした。

「マーティンお兄様、どうですか?」

「少なくとも、成人男性並には重くなった。」

「あとはあの子が還れば―――。」

 ベリーがそう言って振り向いた時、転がっていた筈の朝生がいなかった。あれ、と、四人が周囲を見回したとき、もぞり、と、バプテストが動く。ベリーはその事にいち早く気付き、頭から朝生のことなど放り出てしまったようだった。

「バプテスト! 母様よ、分かる?」

「父様もいるぞ。大丈夫か?」

 カルヴァンが抱き上げ、ベリーが手を取ると、バプテストはうっすらとその双眸を開き、髪の毛と同じように、黄色い目を見せた。

「おはよう、バプテストくん。ワタシは君達のお父さんの兄だ。伯父さんだよ。身体の調子は?」

「………立てそうには、ありません。」

 か細く掠れた声だったが、バプテストはきちんと喋ることが出来た。とにかく、これで矢追町に起きている異変を―――。

「ヤーッ!」

 突然、金切り声がした。そして膝をついていた伯父が前に崩れる。バプテストに気を取られて気付かなかった。朝生がいつの間にか移動し、パピルスのように薄く鋭いサーベルで、伯父の背中を辻斬りにしていたのである。

 驚いてマーティンはそのサーベルを持った弱々しく細い手首を掴む。その身体に触れるだけで、伯父が掛けた負の業の悍ましさが伝わってくると言うのに、朝生は目をぎらつかせ、呼吸を荒げながら、吼えた。

「あたしは、あたしは絶対騙されない! 異言いみのわからないことばを使うサタンの手先、バプテスト兄さんから離れろ!! この町を元に戻せ!!!」

「朝生! 止めなさい、この方は僕達の―――。」

 マーティンが説得しようとした時だった。あの石油色の水銀のようなものとは比べものにならないほどの、凄まじい怖気がした。思わずマーティンも朝生もすくみ上がって手を離し、カルヴァンが妻子を抱きしめるほどの。

 そう、つまりは、その瞬間、僅かな刹那、伯父の周りには誰も居なかった。

「ああああァァァァァッ!!!」

 だから、伯父の両眼を抉り出した刺客の姿を、一瞬たりとも見ることは出来なかったのだ。

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