第二話 最初の脱落者

 エルサレムが消滅したと聞いて、思い浮かぶのは、核兵器による破壊だ。何とは言わないが、あの辺りは核保有国に囲まれているし、人の敷地で喧嘩してくるやからの、武器の潤沢なことといったらない。だが、テレビに映っている光景は、それとは全く違う光景だった。

 人の行いでは無い、と、すぐに分かる。火と酸による破壊であれば、必ずその残骸が健気に残っているものだ。ローマンも、自分で自分に核兵器を落としたことがあるから分かる。あれから八十年近くも経てば、もっと跡形もなく町を消し去る核兵器を作ることは出来るだろう。しかし、そうではなかった。テレビに映された『エルサレム』は、全くの暗黒がぽっかりと広がり、まるでそこだけが、地球というテクスチャーを切り取られ、その下にある宇宙が覗いているかのようだった。地球を抉ったなら、まずマントルが出てくるはずだ。だからこそ、この光景は有り得ない。

「タチわりぃな…。」

 カレンダーを見て、ハァと溜息をつく。日付は四月一日。ネットではパロディやオマージュのネタが溢れかえり、巷ではいたずらやドッキリが流行る日だ。最近は、『昼休みが終わるまでが午前中』と言う、如何にも日本らしい投稿も見かける。アメリカに拠点を構えている、甥であり弟でもあるバプテストの所に行ったときには、公共の電波が揃ってフェイクニュースを流していた。そんなことだから、アダムスキー型円盤が世界に溢れかえるのだ。ハイパーディメンションパワーだとか、最近は香ばしい方向に発展している。大方このニュースもそうだろう、と、思ったローマンは、すぐにチャンネルを切り替えた。

『速報です、イスラム横町から三分の一以上の人が、忽然といなくなりました!』

ピッ。

『ご覧ください、これは、ムスリムの方がつける、さ、サリー? でしょうか? それと服か残っておりません!』

「違う、ヘジャブだ、マヌケ」

 思わず民放に突っ込みを入れてしまった。調子を狂わせながらも、次のチャンネルに回す。

『国際ジャーナル・アジア支部です。全く信じられませんことに、突如として、国民のほぼ全ての人が消えました! 残されたのは僅かな外国人留学生のみです、では取材してみましょう。』

 まともな情報が得られそうだ、と、リモコンを置く。場所はどうやらアフガニスタンのようだ。あそこも、叔父と従弟達が列強に挟まれて苦労している地域だ。あの地域からの難民が、各国でヘイトクライムに遭遇しているというのは、ローマンの実家であるバチカンでも、人権問題として話題になっている。…だからといって、特に何もやっていないと言われたらそれまでなのだが。

『今日、ぼくは、ホームステイ先の人に、初めてモスクに連れて行ってもらう予定だったんだ。それなのに、はぐれないように手を繋いでいた子どもの手の温もりがまだあるのに、何が起きたんだ! まるでこの世の終わりじゃないか! 突然人が霧のように消えるなんて!』

『落ち着いてください、霧のようにとは、具体的にどういう感じですか?』

『なんてことだ! あんなに信心深い家族を、神さまアンタは酷い人だ!』

『申し訳ありません、現場からは以上になります。』

 『この世の終わり』という表現に、つい昨日、懲りずにやってきた、遠い妹を思い出す。二〇〇年程前にアメリカで生まれたくせに、『真の後継者』と自負して憚らない、まあ、ローマンに言わせれば千番煎じの妹だ。日本に来て大分経つが、毎週毎週、この世が終わる、この世が終わる、と、触れ回っている。自分も一〇〇〇年ほど前に通った道なので、恥ずかしくて見ていられないのが本音だ。

「アフガニスタンと言えば、確かに叔父さん達のホームグラウンドだな…。」

 人口の九九パーセント以上が、叔父の一族の仲間だ。しかし、あそこの近くにも実は、ローマンの弟がいる。彼ならば何か知っているだろうか。

『…ローマンにぃ?』

 少し疲れたような声だが、とりあえず無事らしい。エルサレムの時も思ったが、不気味なほど背後が静かだ。

「よう、ケイ。久しぶり。」

『丁度良かった……電話しようと思ってたんだ。』

「おん? そうなのか? そっちの用事からでいいぞ。」

『聖書を…ヨハネ、―――プツッ、ツー、ツー、ツー………。』

「ケイ? ケイ? ……アンティオキア? おい、アンティオキア!」

 それからどんなに呼んでも、三弟は答えなかった。否、電話そのものが、繋がらないようだった。

 一七〇〇年伊達に戦争を経験してきたからよく分かっているのだが、自分のようなもの『そのもの』が攻撃されることはない。そもそも人間を模倣しているだけなのだから、人間には攻撃しようがないからだ。治安の悪い外国に住んでいる二人の弟が、ほぼ同時に助けを求めてきて、そして連絡が途絶えた。残る二人の弟の安否が気になり、すぐに電話をかけようとしたところで―――。

「ローマン、残念だが多分、電話はもう繋がらない。」

「親父、遅かったな?」

 入り口から大した距離のない移動なのに、父は随分とつかれているようだった。否や、初めから疲れていたのだろうか。

「事情を説明したいんだが、とりあえず、身形を整えさせてくれないか。風呂ある?」

「え? シャワーなら出るけど……。着替えは?」

「ない。ぱぱっと洗濯機にかけて、乾燥機にかけておいてくれ。」

 父は基本的に、自分達が独立してからは、服を取り替えない。どころか、自分が首に提げている『ペテロの鍵』も触らせない。人間の子どもや動物がそれに触れることは許しても、大人になった自分達がそれを触ることは許さなかった。服飾品でそうなのだから、自分が着ているローブを洗わせるなんてとんでもない。…というより、父は既に隠居していて、この世のつみとが憂いの類には無縁である。自ら汚れることがないのだ。泥水を引っかけられた、なんてことがあっても、気がつくと渇いて綺麗に輝いている。

 じゃあよろしく、と、ローブと肌着を渡され、疑問に思いながらもローブを腕に抱いた。

 父の匂いがする。少しヘドロ臭いような気がするのは、そんな父のローブでさえも浄化仕切れないほどのものに遭遇したのだろうか? そんな汚れが洗濯機で取れるとは思えないが……。

「ローマン、ボディーソープ使っちった。」

「あ、うん。賄いさんに頼んであるよ。使う?」

「いや、いい。ローブ渇いた?」

「まだ洗濯機の中だよ。」

 そうか、と、父は返事をした。春先とはいえ、この時期にシャワーで雀の行水なんぞしたら、寒かろう、と、何か飲み物を淹れに行こうという時だった。

「ローマン。」

 もう一度名前を呼ばれた。今度は、風呂場から顔を出している。振り向くと、おいでおいで、と、手招きされた。その表情は、何かに怯えているような、おどおどしているような、そんな気もする。

「親父、どうかしたのか? なんか変―――うわっ!」

 近付いて行ったローマンを、父は風呂場に引き込んで抱きしめた。身体が震えているのは、寒さの故にではないだろう。血肉を五人の息子に分け与え、必要最低限の肉しか付いていない父の全裸は、二十年程前、兄弟の和解の記念にと温泉旅行に連れて行ってもらった時と変わらない。

 父の身体は心地よい香りがしたけれども、服の臭いが少し移ってしまっているようだった。

「親父、どうしたんだ?」

「よかった…。本当にお前が無事で、良かった………。」

「…親父、泣いてるの?」

 シャワーの音で、父の啜り泣く声は聞こえないが、身体は震えている。寒いのだろう。面倒くさくて着替えていない自分のストラを外し、父の肩甲骨と二の腕のラインにかける。あまりにも心許ないが、ないよりマシだろう。父のローブのように初めは白かった、祝福と喜びの為のストラも、裾の汚れが目立ってきている。父のくすんだ白熱球のように白い身体に掛けると、尚のことストラが汚らしく思えた。

「おや――むっ。」

 抱きしめる腕の力が強くなり、唇を塞がれた。深く口付けようとしてくるのに、舌は絡ませてこない。歯の隙間をこじ開けようとはしてこないのだ。

 ―――気を使っているのか?

「いいだろ? ローマン…。…まだ、身体が落ち着かないんだ」

「………。ん。」

 舌を差し出し、父の歯の隙間から、引っ込み思案な父の不安感を探り出して引っ張り込む。すると、それまで遠慮がちだった猫は、突然皮を脱ぎ捨て虎になった。磨りガラスが、アルバの下から覗く、日本人に好まれやすい肌をモザイクで隠す。その内モザイクは、遠くの肌と押しつけられたアルバではなく、押しつけられた両手と力比べを始める。最後には意地の張り合いになって、両手ではなく肘まで押しつけてくる始末であったが、磨りガラスは見事耐え抜いて見せた。

 人間であれば、やれ不義だ不徳だ不道徳だと大騒ぎになるところだが、所詮は人の模倣をしているだけのローマン達にとって、セックスの相手との続柄は大して意味を持たない。『自分を産んだもの』を親と定義するのならば、今裸で、ローマンに楔を打ち込んでいる擬者は、人間で言うところの『父』と呼ばれるだけであって、そしてローマン達の『母』とは、信仰を抱いた人々だった。支配や征服、服従や隷属を示すために、暴力的にセックスが行われることもあれば、人間の情愛を真似するかのように、不毛な行為に勤しむこともある。どこまで行っても人にはなれず、しかし天使でもない彼等には、結局恋だの愛だのは、一時の情熱に過ぎない。彼等は基本的に、神の花嫁だ。花嫁同士が睦まじく交わっていても、その主人である夫たる神は叱らない。ただそれだけである。

 汗で冷えた身体を狭い浴槽で温め、残り湯で汚れたアルバを洗い、父のローブと一緒に乾燥機にかけて、また風呂場に戻った。大の男が二人入るには、かなり狭いが、交代で湯船に浸かるのはもっと効率が悪い。追い炊きを繰り返しながら、ローマンは重たくなった腹を撫でた。

「…悪ィ。」

「なんか、今回の、いつもと違ったな、親父。…けほっ。」

 湿度をしっかり保たれた空間で声を枯らしたローマンは、溜息をついて、父の肩にもたれかかった。決して逆上せたわけではないのだが、ぐったりしているのは確かだ。何がとは言わないが、色々と多かったので、久しぶりにローマンも酷い怠さを覚えていた。父は、というと、少し気分は落ち着いたようで、何だか雰囲気が柔らかい。再会したときの奇妙な違和感も、なくなっていた。

 父は何を悩んでいるのか、話そうとこちらを見て、自分が見つめ返すと、額にキスをしたり、頭を撫でたりと、間をやたらと持たせた。急ぎの用事のはずなのに、久しぶりの情事で完全にペースを乱されていた。もしかしたら本当に逆上せていたのかもしれないが。

「ええと、端的に言うと。」

「うん。」

 やっと口を開いたのは、七度目の追い炊きをしようとした時だった。

「ジー―――いや、オレの弟の一族が全滅した。その煽りを喰らって、イェールとケイも消えた。」

「………。」

 ニュースと、ケイこと、アンティオキアからの電話の内容から、そうなんだろうということは理解していた。しかし理解していると言っても、その理由は分からない。

「俺、どうしたらいいの。」

「あのヘドロの奴を覚えているか?」

「ああ、あの変なの? アレ、何?」

「この町の人間が好みそうな言い方をすると、『恐怖の大王』だな。その欠片だ。」

「ノストラダムスの詩集に載ってた奴?」

「サタンと言うべきか、苦よもぎと言うべきか、でもいずれにしても、この世界を三分の一ずつ滅ぼそうとしている存在だ。それで奴は、世界三大宗教の一つである弟一族を狙ったんだ。」

「ということは、残る二つである、俺達一族と、俺のダチの一族がヤバいんだな。」

 ピー、ピー、と、警告のように乾燥機の音が鳴る。

「イェールとケイと叔父さんの一族は、どうなったの?」

「消えたは消えたが、それは『信じる者』がいなくなったから、存在を保てなくなっただけだ。記録や教えが残っていれば、いずれこの世界にまた復活する。潜伏切支丹みたいに変質しているかもしれないがな。その為にも、最後の三分の一を守れ。その三分の一すら消えたら、お前はそこで終わりだ。」

「じゃあ、俺実家バチカンから先生パパと司令塔した方がいいよな。」

 ローマンが風呂から出ようとすると、父は首を振りつつ、後に続いた。

「いや、多分、矢追町から出られない。あのヘドロ、最後の悪あがきで、矢追町を巨大なバリアみたいなもので覆ったんだ。」

「ああ……。」

納得してしまった。

 信仰のあるところ、遍く彼等は現れる。

 逆に言えば、信者が一人もいないところには、どんなに人が住んでいても、存在することが出来ない。イェールとケイは、矢追町にいない。それは、住んでいないのではなく、信者が一人もいないので、存在することが出来ないのだ。矢追町は主にローマンの一族が密集しているが、それでも『いない』親戚は多いし、ローマンの友人や、伯父一族の従兄達や、叔父一族の従弟達のように、そもそも一人か二人しかいない信者の元には、遊びに来ることはあっても、この町に住んではいない。ある程度の信者がいる所の方が、自分というものをしっかり保つことが出来るからだ。その意味では、矢追町は日本で希有な町である。日本人の人口の数パーセントしかいない信者達の信仰が、人となって集まり、人として家を持って住んでいるからだ。

 しかし、である。だからといって、イェールとケイがここにいられない、ということにはならない。

 『存在することが出来ない』というのは、『存在を保っていられない』ということであって、一人も信者がいなくても、通過したり訪問したりすることそのものは出来るのだ。但しそれは、『招かれる』ということが前提となる。例えば妹のカンタベリー・カトリックは、イギリスが実家だが、矢追町にも住んでいるし、次弟コンスタンティン・カトリックも実家はギリシャだし、その妹のマスクヴァ・コンスタンティンも、実家はロシアである。しかしその二人も、やはり矢追町に住んでいる。四弟のアレキサンドリアは日本に信者がいるので別だが、今挙げた三人は、実家からわざわざ出てきて日本に暮らす理由がない。それでもここに住めるのは、日本の信者が彼等を歓迎しているからだ。神の食卓には、招かれなければ着けないが、招かれれば誰でも着けるのだ。

 そして、イェールとケイは、常に招かれている。ローマンの最も近い四人の弟だからだ。

 つまり、本当に困っているのなら、電話なんてまどろっこしいことをせず、直接ローマンの所に助けを求めることが出来るのである。イェールは実家の都合上、それでもあまり土地を離れたがらないが、ケイは『自分が最も早く一人前になった』という自負が強い。今や一族の中で最も数を増やし、最も罪を重ね、最も聖なる人を出した、長兄ローマンにも物怖じしないし、『長兄のくせに最も遅く一人前になった』と、ローマンを馬鹿にすることもしない。自分に自信があるからこそ、困っているのなら助けを求めに来る事が出来るのだ。

 いずれにしても、二人が『電話』をした。それそのものが、異常なのである。

「さて、服も乾いたことだし、オレは他の子達にも状況を説明しておくよ。お前はそうだな………。町にヘドロが出ているから、住民を家から出すな。人間がアレに触るとどうなるか分からないぞ。お前も相対しているだけで、身の毛がよだっただろ?」

「ああ、分かった。武装の準備をしておけばいいんだよな?」

「物騒な言い方だけどな。そう言うことになる。」

「大丈夫だ。この町の俺の仲間は、全員守る。」

「その意気だ。」

 父は、汚れが落ちきらなかったローブの袖に腕を通し、壁をすり抜けるように教会を出て行った。

 幸いなことに、教会から信徒の家に電話を掛けることは出来た。というより、町に現れた謎のヘドロに皆怯えていて、外に出ていなかった。平日の昼間、突如として世界のどこかで、大量に人間が消えた。それと同時に現れた、あのヘドロ。素人探偵の出る幕もない。警察は呼ばれていないらしく町は静かで、また怪我人も出ていないらしい。信徒名簿の連絡網を駆使して、とにかく家から出るな、とだけ伝えた。酷く長くまぐわった所為か、うまく信徒達の家に移動が出来ない。疲れたのだろうか。

「武装…。あんまりやりたくないけど、仕方ないか…」

 武装のためにはある程度の体力が必要となる。とにかく今は、父と分け合うように奪われた体力を回復させなければ。ローマンはすぐに飛び出せるように、靴を履き、ローマンカラーを首に着けたまま、クロスを胸に掛け、右腕にロザリオを巻き付けて眠りに就いた。

 遠くから、足音が聞こえるような気がする。青ざめた馬ペイルホースだろうか………。


脱落者一覧

 叔父、従弟二名、エルサレム・カトリック、アンティオキア・カトリック。


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