第1話 異世界転生も楽じゃない

 ───さて、次は君だね


 真っ暗な視界の中、微睡む俺の頭の中に誰かの声が聞こえてきた。自分が今立っているのか仰向けに寝ているのか。何も情報が入ってこない状況で、その声は鮮明に流れ込んでくる。


 何だかとても懐かしいような気がする。どこかで聞いたことのあるような…



 ───君には期待しているよ。如月君。



 …なんだかこの声を聞いていると…だんだん眠くなって来る…



 ───いや、カレン・・・ ジアパルト ・・・・・


 カレン…?何言ってるんだ。俺は……


 俺は……



「如月…優也…だ………」


 やっと動いた口は、そんな当たり前のことを口にした。これまで暗黒を移していた視界がピンク色にぼやけていく。


 背中をトン、と押される感覚がして、俺は…


 また、意識を失った。




 ────────────────────────


 眩しい。



 俺は…寝てたのか?



 ああ、今日も嫌な夢だったな。

 …まさか登校中、上空に突然現れた飛行機がこちらを目掛けて突っ込んできて、友人諸共消し飛ぶ夢だなんて。今どき小学生でももっとマトモな妄想をするだろう。


 他人にこの夢の話をしても笑いを取るどころか、「絶対に盛ったろ」と後ろ指を刺されるレベルのぶっ飛び具合だ。



 その前も確か、すごく嫌な夢を…あれ、どんな夢だっけ。




 目を刺激する光にゆっくりと目を開けると、そこには木張りの天井が拡がっていた。


 鼻をスっとぬける綺麗な空気、思わず腹の虫が騒ぎ出しそうになる芳醇なパンの香り。


 すごく心地いい。


 ここはどこだ…と思い、起き上がろうとしたが、体に力が入らない。


 手をついてなんとか起き上がろうとするが、白いベッドについた手は驚く程に非力だった。


 不思議に思い手を見つめると…そこにはブヨブヨのちんまい手があった。



「何だこのクリームパンの出来損ないは…」



 と、口に出した瞬間、全身に鳥肌が立った。発音こそ問題なく出来てはいるが、声のトーンはまさに赤ん坊の発するそれであった。


 これって……もしかして………ッ!



「………なーんだ、まだ夢か。……寝よ。」


 ごろん、と寝返りを打ち、俺は惰眠を貪ることにした。夢の中で寝るとか、これまた新鮮だなぁ、なんてことを考えながら。


 部屋を隔てた扉の向こう側からは、小さく男女の談笑が聞こえてくる。…ああ、羨ましいなぁ。こんないい夢なら…



 もう、醒めなくてもいいかもしれない。





 ◇─◇─◇─◇─◇─◇─◇─◇─◇─◇─◇─◇






 俺、如月優也は今。猛烈に焦っている。


 ── 一向に夢が覚める気配がない。


 冷や汗でぐっしょりと濡れたシーツを乾かそうと、定期的に腰を浮かせること数分。全く現状は変わらない。


 意識はあるし、こうやって自身を知覚することも出来ている。これが明晰夢と言うやつなのだろうか?


 しかし、ぷよぷよの肉塊と成り果てたこの四肢では歩くことは愚か、ほっぺをつねることすらもままならない。


 なにこれ、新しい怪奇現象か何か? 金縛りとか、猿夢とかと似たタイプの?


 …おいおい、もう悪夢は沢山だぞ?

 俺はこの夢を見る前になかなかにロックな夢を見たばかりなのだ。

 もうお腹いっぱいだから、そろそろ心臓に優しい夢を見せてくれよ…


 ほぼ動けない状況でそんなことを考えていると、ギィ、という年季の入った扉の音が部屋の入口から聞こえてきた。


「おや、カレン。起きていたのかい?」


 優しそうな声が聞こえ、声の主の方に目をやると、哺乳瓶を手に抱えた中年の男性が立っていた。


 ボサボサの金髪、フチなしの丸眼鏡に無精髭。物腰柔らかな顔立ちに、青く、綺麗な目が特徴的な男性だった。…まさか外国人が登場するとは思わなかった。


 しかも、今名前を呼んだ「カレン」って言うのは、俺に向けて言ってたよな…?もしかして俺、女の子の赤ん坊になってるのか?


「あー、えっと…お父、さん?」


 こんな状況に慣れていないせいで─いや、慣れているわけが無いのだが─あとから思えばこの時、凄くトンチンカンな回答をしていた。この不正解甚だしい回答を聞いたその男性は、驚きの表情で持っていた哺乳瓶を落とした。


「あ…え?……か、かかかっか……」


「……?………あっ」


 俺が自分のミスに気づいた時には全てが遅すぎた。

 木張りの床に転がる哺乳瓶を拾うことも無く、金髪の優男は入ってきたドアに大慌てで戻って行った。


「ユ、ユズハ!…カ、カレンが!カレンが言葉を流暢にっ」


 やべぇ…

 とんでもない勘違いをさせてしまったことと、言葉を喋る瞬間の感動を奪ってしまったことに罪悪感を感じてしまう。


 ……いやいや、何言ってるんだ。これは所詮夢じゃないか。イヤにリアルで感覚があって、ちょっと長めの普通の夢……





 ──そのラノベは、『異世界転生』っていうジャンルですぞ!──




 そう自分に言い聞かせていた時、頭の中に高校の同級生、「小田」という男の声がこだまとなって鳴り響いた。


 俺がおだっちと呼んでいるその男に、ラノベという本をよく借りていた思い出が蘇る。その中にあった、異世界転生というジャンル─この状況に、嫌というほど当てはまるのだ。


 とっくに引いていた冷や汗が、まだじわじわと背中を濡らしていく。


 その本ではトラックに轢かれた主人子が死後、異世界で第2の人生を送るという内容だった。トラックが飛行機だったり、その主人公はとんでもない能力に目覚めていたりと多少の差異はあるが…


 さっき見た夢は…飛行機の墜落で死んじまった夢はまさか、現実ってことか……?

 んで、この夢みたいな状況も現実…?


 …はは、まさか、な。


 バカバカしいと一笑しながら再度、自身の手を天井に掲げてみる。

 それは夢として片付けるには無理があるほどに、精巧で、きめ細かで、ぷにぷにしていた。


 見れば見るほど、俺の顔から笑みが消えていく。


 ス─っと俺の顔から完全に笑顔が消えた頃、再度入口のドアが空いた。


 入ってきたのは、赤く、長い髪の毛を黄色のカチューシャで纏めあげた、若々しい中背の女性だった。─正直、息を飲むほどに美しい。先程、父親と思わしき男性がユズハと呼んでいた女性だろう。



「─カレン!もう1回、おしゃべりしてみて!」



 目を輝かせたその女性はすぐに駆け寄ってきて、俺の顔をのぞき込むようにしてそう言った。その興奮は荒い鼻息と共に俺に伝わってくる。



「──だぁだぁ、きゃう〜♪」



 …久しぶりに恥ずかしさで消えたいと願った。


 咄嗟の作り笑いと同時に、よく知りもしない赤子の言語を模倣し、口に出す。



 ──確かに、非現実的だ。

 この状況は間違いなく夢だろうと本心で思っているし、そうであって欲しい。

 しかし……仮に、仮にもし。これが異世界転生というものであったのなら。

 その可能性がほんの少しでも存在するなら。


 俺は、その日その時の俺を演じなければならない。…演じるべきだ。

 年に似合わぬ言動をして、家族に捨てられたらどうする?

 捨てられた後も目が覚めず、飢餓や病気で死に、そのまま終わりだったらどうする?



 ──いつ、何が起きるかなど誰にもわからない──



 …ああ、相馬お前 ならきっと、こうするだろうな。


 俺の脳裏に、いつも一緒にいた2人の親友の顔が過ぎる。

 いつもあの二人には大切な事を教えられてきた。


 …なら、恥ずかしがっている場合じゃない。生きるために、できることをする─



「あ、あれ…カレン、もう1回!『お父さん』って」



 目に見えて2人の表情が期待から困惑に変わる。最も、ユズハと思わしき女性の困惑は、その男性に対してだが。



「…え? 『パパ』、じゃなくて『お父さん』、って言ったの…?」


 困惑の表情は、みるみるうちに心配の表情へと変わる。

 お父さん(らしき人)、ごめんなさい…



「ジェイムス、あなた、きっと疲れてるのよ…また明日から研究所勤めなんでしょう?」


 心配そうな顔でジェイムスと呼んだ男の顔をのぞき込むユズハ。あれ…でも…と煮え切らない様子のジェイムスに、ユズハがそっと口付けをする。


「…今日はゆっくり休みましょう?たまの休日なんだから。」


「…ああ、君は本当に優しいね、ユズハ。」



 またね、カレン。と部屋を後にする2人。


 ──ユズハとジェイムス。この2人が俺の新たな両親ということで間違いなさそうだ。





 ◇─◇─◇─◇─◇─◇─◇─◇─◇─◇─◇─◇





 …あれから数日がたったが、俺の目は覚めることはなかった。いや、正しくいえば、これは夢なんかじゃなかったのだ。


 正式に、俺の異世界生活が始まってしまった。


 正直、おだっちに借りた異世界転生の本で得た知識をフル活用すればなんとかなるかと楽観視していたが…


 当日から、俺はこの世界の残酷さに打ちのめされることになる。



「よーしよし!ご飯でちゅよー♡」


 ─俺は今、ジェイムスの腕の中で、哺乳瓶を咥えている。まさか、物心着いてから哺乳瓶で食事をとることになるとは───

 後、ジェイムスが赤ちゃん言葉を使うのもなかなか精神的に来るものがある。スリスリしてくる度に、中年男性の肌が擦れ合う感触、髭がジョリジョリするのも苦痛である。

 …出来ればユズハにお世話してもらいたいと思ってしまう自分が嫌いだ。


「よく飲めまちたねー、はい、ゲップしましょうね〜」


 言われるがままに胃の中の空気を吐き出す。初日はこれをしなかったせいで大変な事になった。


「ゲップ出来てえらい!」


 満面の笑みで笑う父をよそに、俺の顔はおそらく絶望しきっていただろう。


 あー、死にてぇ。




 ◇─◇─◇─◇─◇─◇─◇─◇─◇─◇─◇─◇




 そんな中でも、幼児期で俺がぶっちぎりで1番嫌いなイベントがある。─排泄である。


 目が覚めた時に発声できたように、この体は一般的な幼児とは異なるらしい。排泄に関しても、我慢できないということもない。

 しかし、自分でトイレに行くどころか、歩くことが出来ない以上、オムツ交換からは逃れられないのである。


 それだけでも最悪なのだが、「オムツ交換が必要です」なんて喋るわけにも行かない。ではどうやって赤ん坊はそれを伝えるのか?──泣き声である。



 漏らした挙句に、赤ん坊の泣き声を真似しなければならない。齢18の高校生が、だ。


 その後のオムツ交換に関しては、ユズハにされる方がダメージが大きい。

 自分の痴態を、せいぜい2〜7歳しか変わらない美しい女性に見られるのだ。これはジェイムスにならされても無傷、という訳にも行かないが…


 この時ばかりは心の底から「殺してくれ」と思う。



 …まあおだっちなら少し喜びそうだな。



 友人に対して偏見にまみれた最低な想像をする程度に、俺の精神は摩耗していたと思う。いや、冗談じゃなく。



 そんなこんなで俺の『異世界生活』は、最悪のスタートを切ったである。




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