#3 妹にあーんされるなんて普通のこと……だよな?
池袋駅から歩くこと約10分のところに、その水族館はある。
「うはぁ。休日だからすげー人だかりだな」
「優先入館チケットを買ってるから、大丈夫」
「なんなんだよその力の入りようは……」
人混みというよりもはや壁のようにしか見えない圧倒的な数の来客たちの後方で、ふんすと得意げに鼻を鳴らす義妹に俺は呆れの言葉を返した。
そもそもどうして紅葉が俺をレンタル彼氏として指名したのかは定かではないが、こいつのことだ、何か考えあってのことだろう。ちなみに、嫌いな義兄に嫌がらせをするため、というのが今の俺の中で最有力候補である。
「早く入ろ。お兄ちゃん」
「あ、ああ」
紅葉に引っ張られるがままに入館処理を済ませ、いざ館内へ。
エアコンが効いているのか、館内は外と違って少々肌寒い。
「くちゅっ」
そんなことを考えていたら、紅葉が可愛らしいくしゃみを零した。
「寒いのか?」
「大丈夫。それよりも、早く見に行こ?」
嫌いな義兄に頼りたくないのか、単に強がっているだけなのか。小刻みに肩を震わせているくせによく言うよ。
……はぁ、しょうがねーな。
俺はその場でジャケットを脱ぎ、紅葉の頭に放り投げた。
「わぷっ」
「ほら、俺の上着貸してやるから、これでも羽織っとけ」
「……子ども扱いしないで」
「あのなぁ。寒がってる妹を兄貴が放っておけるわけねーだろ」
たとえ血が繋がっていないとしても、だ。
妹を大切にしろ、と俺は紅葉が家族になる日に親父から言われている。
だが、それが気にくわなかったのか、紅葉は頬を膨らませた。
「……今だけは、妹じゃなくて……恋人として、見てほしい」
「え」
「今のお兄ちゃんは私のレンタル彼氏。彼氏なんだから、私のことを恋人として見るべき。彼氏が恋人を妹扱いしていたら破局の可能性もある。だからこの時間が終わるまでは少なくともお兄ちゃんは私のことを恋人のように扱うべき」
「なんか圧すごくない?」
こんなに捲し立てるように喋る紅葉は初めて見た。
しかし、確かにこいつの言う通りだ。
今の俺はレンタル彼氏。お金を払ってくれている顧客を蝶のように花のように丁重に扱い、彼氏との時間を楽しんでもらわなければならない。お兄ちゃんと呼ばれているところはある意味ツッコミどころだが、紅葉が俺のことをどう呼ぼうがそれは彼女の勝手なのだからここは触れないでおくべきだろう。実際、彼氏のことをお兄ちゃんと呼ぶ彼女もいるとは聞くし。
覚悟を決めろ、春日部蒼人。彼氏として全力で振舞うのだ! すべてはガチャ代のために!
「分かったよ、紅葉。でも、その上着を返してもらうわけにはいかない。寒がる彼女を放っておくなんて、俺にはできないからな」
「……好き」
好き。
そんな言葉を呟いた直後、紅葉は即座に顔を赤くし、わたわたと両手を振り始めた。
「い、今のは、違っ……つい……」
「何をそんなに慌てているんだ? 彼女が彼氏に好きというのは当然のことじゃあないか。俺も好きだぜ、紅葉」
「……あ、はい。(……別に演技じゃないんだけど……でも、好きって言ってもらえたから、いいや……)」
お、もしかして喜んでくれてる? 俺って意外とこういうの向いているのかもしれないな。あと、紅葉が最後に何か言ってた気がするが、声が小さすぎてあまり聞き取れなかった。まあ気にするようなことでもねーだろう。
紅葉の手を改めて握り直し、展示エリアの一歩を踏み出す。
「よっし、じゃあそろそろ行こうぜハニー。俺、このクラゲコーナーってやつが気になるんだけど」
「さ、流石にハニーはやめて……」
★★★
展示エリアを歩いている間、スマホで少し調べたことがある。
この水族館のクラゲコーナーは国内最大級の大きさを誇るらしく、横幅約14メートルもの水槽で、視界一面にミズクラゲが広がる光景を堪能できるらしい。
国内最大級って……どうせ大げさに言ってるだけだろ――そんなことを思っていた俺だったが、現在、子どものように心がブチ上がっていた。
「うおおおおおおおお! クラゲすげえええええええ!」
見渡す限りのクラゲ、クラゲ、クラゲ。
これがサイトに書いてあったクラゲパノラマというやつか。ライトに照らされた無数のミズクラゲが織りなす幻想的な光景は、俺が今まで見てきたどの絶景よりも美しいと言っても過言ではない。いや、そんなに絶景見に行ったことないけど。
「さっきまでのチンアナゴとか深海魚も凄かったけど、ここは別格だな! クラゲってこんなに綺麗なのか……っ!」
「お、お兄ちゃん。はしゃぎすぎ」
「お、おう、すまんすまん」
ついガキみたいにはしゃいでしまった。落ち着け、今の俺は紅葉の彼氏。彼氏らしく振舞わねば……。
「ここに展示されているクラゲの美しさは、まさに紅葉、お前のようだよ……」
「急に何。気持ち悪い」
心が引き裂かれる思いがした。
「はぁ……そんなに彼女を褒めまくる彼氏なんて不自然。もっと普通に接して」
「はい、すいません……」
「でも、本当に綺麗……ずっと、お兄ちゃんとこれを見に来たい、って思ってたから、嬉しい……」
レンタル彼氏の俺よりも彼女としての振る舞いが堂に入ってるな。一瞬、本心なのかと思ってドキッとしそうになったが、普段の紅葉の言動を考えると、今の言葉が本心なわけがないしな、うん。
「願いが叶ってよかったな。俺も、お前とここに来られて嬉しいよ」
「……そう。ふうん。そうなんだ。ふうん。お兄ちゃんも、嬉しいんだ……」
「ああ。喜ぶ恋人の姿を見られたんだ。嬉しいに決まってるだろ?」
「……………………ソウデスネ」
なんかすごい冷たい声を返された。どうやら不正解だったらしい。
紅葉は俺の手を強引に引っ張ると、
「お腹空いた。ご飯食べに行くよ」
「え? でもカフェがあるのって確か三階なんじゃ……まだ展示とか全然見てないんだけど……」
「三時間しかないから。ほら、早く行く」
「ええぇぇぇぇぇ……せ、せめてアザラシだけでも見せてくれぇぇぇぇぇ……」
★★★
アザラシを見ることすら許されなかった俺は、水族館の三階にあるカフェへと連行されていた。
「アザラシぃぃぃ……」
「ここのご飯、奢ってあげたんだから元気出して」
「……どうでもいいけど、何でお前そんなに金持ってんだ?」
「お兄ちゃんみたいなソシャゲ廃人じゃないから」
「返す言葉もありません」
シュウの言う通り、紅葉から嫌われてるのはソシャゲ廃人ってことが原因なのか。じゃあ当分は嫌われたままだな。ソシャゲをやめるつもりはねーし。
いつまでも落ち込んでいてもしょうがないので、紅葉が買ってきてくれた料理に手を伸ば――そうとしたら、紅葉が皿を自分の方へと移動させた。
「もしもし紅葉さん?」
「私が食べさせる」
「……Repeat please」
「私がお兄ちゃんに食べさせる。……はい、あーん」
ココアクランチドーナツを掴み、俺の口元へと差し出す紅葉。普通に考えてこっぱずかしいだけの行為だが、彼女が絶世の美少女であることもあってか、その姿はかなり様になっている。
「い、いや、自分で食えるって」
「恋人にあーんするのは普通のこと」
「それはそうかもしれないが、流石に人目が……」
「追加コンテンツに含まれていたのは『レンタル彼氏があーんしてくれる権利』だけ。規約を読む限り、客がレンタル彼氏にあーんするのは無料のはず」
「お前規約をすみずみまで読んでんの??????」
「規約なんだから当たり前」
「もう俺、お前が怖いよ……」
規約通りと言われればそこまでなんだが、周りには当然、俺たち以外にも客がいる。隣の席の親子連れなんか興味深そうにこっちを見てきているし、もうなんか俺の心が爆発しそうだ。
「拒否するなら、違約金を――」
「ああっ! なんか無性にあーんしてもらいたくなってきたなーっ! 口の中が寂しくなってきたなーっ!」
「最初から正直になればいいのに」
「今のは脅しって言うんだぞメープルさんや」
しかし、これで退路は断たれた。
固唾をのみ込む俺に、紅葉は再びココアクランチドーナツを差し出した。
「はい、あーん」
「……あ、あーん」
もぎゅ。
柔らかな感触、そして甘くもどこかほろ苦いココアの味が口いっぱいに広がる。
「どう? 美味しい?」
「ふぁい。おいふぃいれふ」
「ふふっ。まだたくさんあるから、どんどん食べて」
俺にドーナツを食べさせることのどこが嬉しいのか、微笑みを零す紅葉。
その後、皿の上のドーナツがなくなるまで、俺は紅葉にあーんされ続けることになるのだった。
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