テーブルクロス

パンケーキに相応しいシロップはハチミツ。

テーブルクロス

まだおむつが外れていなかった頃の娘は好きだった。健気で、素直で、鰹節のおにぎりが好きな一人娘だった。

家計簿を付ける妻の膝の上で歌う理穂を見守る日曜の晴れた午後、至福のときとは正にこの瞬間を言うんだなぁとしみじみ思った程だ。


テーブルクロスなど、衝動買いすべきじゃなかった。


平日の残業疲れも取れず、折角の休暇も半分が終わろうとしている。天気と感染症防止のせいで二日間家に籠らないといけないのは最悪だ。

「りほちゃん。いつも言ってるでしょ。」

「皿の上のもの、全部食べなさい。」

今日は娘の食べ具合がいつも以上に酷い。ポークソテーが載っていたその皿には添え野菜のグリーンピースと人参のグラッセ、ブロッコリーが残る。理穂は泥臭い右腕を人参に近づける。

「そんな持ち方じゃないって何度言ったら分かるんだ、この出来損ないが!」

涙目の彼女からフォークを奪って半開きの口に野菜を詰め込んだ。

「ほらよく噛め!9歳になってモグモグすることすら出来ねぇのか⁈」

「んぐんぐぐぐ!」

こうして憂鬱な晩飯を終えるのが茶飯事になってから5年を迎えようとしている。

ふと目が合った熊のアップリケが悲しそうな顔をしていた。


理穂は名前に反いてまるで頭の無い子に育った。忘れ物をせずに1週間を終えることが珍しく、部屋はぐちゃぐちゃ。おまけに平均点75点のテストで30点。

俺の何が間違っていたのか?専門書も何冊も読み回したし、悪いことをしたら厳しく叱った。外に閉め出したくなった夜も沢山あった、実行したら役員が来るけど。そして4年生、次の春から塾に入れようと思う。

ここまで躾けて、何で彼女は悪い子のままなんだ。俺らの娘なのに。


今週学校で習ったことをおさらいさせて理穂をベッドに行かせた時には10時半を過ぎていた。週末のテレビは家族向けの教育バラエティや売れっ子主演の刑事ドラマが多いが、そのようなものは一切娘には見せなかった。

テレビに映ったのは、泣き叫ぶ子供を山の中に放り込もうとする2人のいかつい男だった。


「お父さん、お母さん、先生の言うことを聞くと誓うか!!」

「ごめんなさい!ごめんなさい!誓います!いい子になります!」

「次約束を破ったらここの熊の餌になってもらうからな!」

「誓います!もう悪ふざけはしません!」


この山は。確かここから車で1時間ほどで辿り着ける厳矯山げんきょうざんじゃないか。そうか、険しい坂の傾斜とかつて僧侶の修行に利用されたことから、『お仕置き山』とも言われているのに、あそこを使わなかったのが原因だったのか。いや、だったらだ。悪い癖は早く直しておいた方がいい。うん、これだ。




「理穂、お父さんとドライブに行こうか。」

「はーい、行く!」

全くだ。昨日あんだけ叱りつけたのに、娘は晴々とした表情を浮かべる。ちゃんと反省しているのか。睨みたいのを抑えて、テーブルの缶コーヒーを乱暴に掴んだ。またあの熊と目が合った。昨日よりは穏やかな視線だった。


理穂と二人ドライブをして、ここまで気楽に楽しめているのは初めてじゃないのかと思う。怒鳴ったり押さえたりするのは少し辛いけど。

「どこに向かってるの?」と言う理穂には「理穂にとっていいところ」と誤魔化せば、それ以上疑われない。鈍感も長所になるもんだなぁ。

と呑気なことを考えていた時だった。

「熱い!熱い!」

理穂が突然叫んだのだ。不気味な林道に異変を感じたのだろう。

「ごめんなさい!ごめんなさい!」

でもまだ麓だ。そんなに騒いだら突然の車にも対応できないじゃないか。

「熱い!熱い!ごめんなさい!」

「五月蝿い!お父さんを怒らせたいのか…なんだこりゃ!」

理穂の身体から煙が出てきていた。咄嗟に119に通報した。娘の体が突然燃え出した、と。

「熱い!熱い!ごめんなさい!熱い!熱い!ごめんなさい!出来損ないで、ごめんなさい!」

運よくあった缶コーヒーをぶちまげたが火は消えようとしなかった。燃え移り防止のため、積んでいたゴルフクラブでドアから突き出したら、さっき座っていたクッションは無傷だった。そんなことも気にせず、理穂の消火を何度も試みた。

消防団が駆けつけた時にはもう手遅れ。理穂は黒焦げの骸骨に変わり果てていた。

救えなかったことに少しは胸を痛め、その額にハンカチを乗せようとした瞬間、目が合った。

「くっ、熊ぁ⁉︎」

その頭蓋骨は突然デフォルメ化されたクマの顔を見せた。

「人間の子供ですよ。」

唖然とした俺を現実に戻した救急救命師の言葉も信じがたかった。


警察に事情を話して帰宅を許され、戻ってきたら妻は焦点の定まらない目をして呟いた。

「…テーブルクロスのアップリケをうっかり焦がしちゃったの。お母さんとの電話で、アイロンがけを忘れていたわ…。」

「…だから?」

「焦げに気づいたときに、貴方から電話が来たの。」

アップリケは白い眼をしていた。


念の為の裁判の結果、俺は無罪判決を下された。

理穂がどんなに出来損ないでも、体罰をなんとか堪えた自分を褒めてやりたい。

住宅街から離れた一軒家を購入して良かった。

だが、せっかくの第一子がダメ女で躾も効果を見せなかったことがとても悔しい。

出来れば彼女が赤ん坊だった頃からやり直したい。

帰宅後、妻にそのようなことを吐いた。いくら悪い子でも、失うと悲しみが残るものだ。

目を泳がせながらも、彼女は微笑んだ。

「でも、過ぎたことは過ぎたことね。次はもっと良い子を育てましょう。」

「そうだな」

そうだ、そもそもあれは事故だったんだ。子供は何度でも産み直せるし、ちゃんと躾ければあんな出来損ないには育たないはずだ。ベッドの準備は出来ている。

黒焦げになったアップリケは、もう睨みつけてこなかった。


「えー、今日のニュースです。県内にあります、厳矯山にてまた奇妙な変死事件が起きました。死亡したのは地元の小学生2名で、今回の件で厳矯山での死者は今月に入って子供が10名になっております_。」

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テーブルクロス パンケーキに相応しいシロップはハチミツ。 @panketsu

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