054.言質


「――――ふうっ、やっと終わった~!」


 大晦日の恒例行事。

 世間一般的に多くの人がやっている家の掃除を始めて随分と経過した。

 常日頃から暇で……もとい綺麗好きが高じてやっていたお店や、実家の掃除を終えていた俺は、アレよコレよという間に奈々未ちゃんの家へ初潜入してここでも大掃除を行っていた。


 リビングの換気扇から始まり、トイレの換気扇、お風呂場の換気扇と換気扇祭りをも越えて排水溝や窓の冊子など、大掃除における強敵を次々となぎ倒す俺。

 経験というのは案外バカにできないもので、昨日実家をやって今日だ。必要なものや手順はスラスラと身体が動いて日が暮れる直前でこの家全ての掃除を完了することができた。

 幸いだったのは元々家全体が綺麗だったことだろう。普段から大まかな掃除をやってくれていたからか、強敵以外で俺の出番は殆どと言っていいほどなかったのは僥倖でしかない。


「お疲れ様。 お茶持ってきた」

「ありがと……。奈々未ちゃんもお疲れ様」


 あぁ…………。冷たいお茶が身に沁みる!

 どうやら掃除しているうちに自分でも気づかないほど熱を帯びてしまっていたようだ。

 冬にも関わらず冷えたお茶が喉を通るたびに身体の隅々から冷却されてくような気がしてコップの中身をどんどん減らしていく。


「私も久しぶりに……疲れた、かも」

「そうなの?普段踊ったり歌ったりしてるから余裕かと思ってた」

「アレはお仕事として慣れてるから平気。 今日は慣れないことしたから」


 もちろん、俺だけじゃなく隣でチビチビとお茶を口にしてくれている奈々未ちゃんも頑張ってくれた。

 実働は俺としても道具の準備やその清掃、汗拭きにいたるまで数々のフォローをしてくれたのが奈々未ちゃんだ。

 彼女が居なければここまでスムーズに掃除を終えることはできなかっただろう。だから俺の汗を拭いたハンカチを大事そうにポケットへ閉まったのは見なかったことにする。


 ちなみに家の隅々まで掃除したが、奈々未ちゃんの部屋だけは別だ。

 入る時左奥に見えたチョコンと飛び出た2階の存在。あそこが奈々未ちゃんの部屋らしいが一歩も足を踏み入れてはいない。もちろん彼女にはお願いされたが丁重に断っておいた。

 何のために昨日の実家大掃除で優佳の部屋の掃除を拒否ったと思ってるんだ。トラップまみれの自室にネギ背負って行くほど俺はバカではない。


「……それと、マスターがお家に居るからずっとドキドキ……してる」

「…………」


 ポスリとソファーの真隣でお茶を飲んでいた奈々未ちゃんがこちらに倒れ込んできて、何も言えなくなった俺は頬を掻く。

 そうだった。今ここは奈々未ちゃんの家。そして誰の邪魔も入らない2人きりだ。

 これまで遥や灯の家にお邪魔してきたが、ひとつ屋根の下で二人きりという状況は一度もなかった。この家は奥まったところにあり、声を上げてもそうそう外には漏れやしない。そして全幅の信頼を置いてくれている美少女の存在に、思わず俺も背筋が伸びてしまう。


「そっ……そうだ! おじいさんたち今どんな感じ!? アレから全然音沙汰無いけどっ!」


 掃除終わりに気の抜けた2人が肩を寄せ合う状況。見方を変えれば家デートだ。

 そんな甘酸っぱい空間をごまかすように俺は慌てて声を上げる。


「おじいちゃん……全然返事がない」

「えっ……。それって、事故とか?」

「ううん、それはなさそう。メモに書いてた帰ってくる時間に『少しだけ遅れるかも』って連絡だけは来てるから」


 そっか……よかった。

 出かけて事故とか事件とか、そういうのだけは勘弁してほしい。


 でも『少しだけ』……か。

 今はもう少しすれば日の入りの時間。この家に来たのはお昼前だ。出かける旨のメモを見たのもお昼前。つまり予定の3時間後から倍の6時間ほど経過している。

 『ちょっと』の尺度は3時間もかかるのだろうか。


「奈々未ちゃん、仕事は?」

「今日はおやすみ。おじいちゃんが年の瀬くらいはって」


 それもそうか。いくら忙しい奈々未ちゃんらでも年末すら働くという無茶をおじいさんらが許すとは思えない。

 あれだけ大事にしてるんだ。大晦日くらい家族でゆっくり過ごしたいだろう。


「じゃあ、そろそろ帰ってくるんじゃないかな? もう日も暮れてきてるし」

「……だといいけど」


 二人して中庭に続く窓を見上げればもう空は薄暗く、青くなっている。もうしばらくすれば完全に夜の世界となり空も真っ暗になるだろう。

 さすが冬だ。日の入りが早すぎる。もっとこう……寒くてもいいから日の入りを遅らせることはできないだろうか。


 しかし、あまり俺が家に居続けるのもちょっと問題だろう。

 掃除は終わったし、大晦日という家族で過ごす日でもある。これ以上居続けておじいさんが帰ってきたら団らんの邪魔になるかもしれない。


「まぁ、すぐ帰ってくるよ。俺はそろそろ店に戻――――」

「っ――――!」

「る……奈々未ちゃん?」


 夜も更けるし早いところ退散しようとソファーから立ち上がったものの、服の裾を引っ張られる感覚がして思わず振り返る。

 当然その原因は奈々未ちゃん。彼女は引き止めるように俺の服を両手で掴み、不安そうな表情で俺をジッと見つめていた。


「帰っちゃ……ヤダ。 ここに居てほしい」

「でも、そろそろおじいさんらも帰って来るだろうし……」

「それでも……。せめて、帰ってくるまで」

「奈々未ちゃん……」


 左手を胸元でギュッと握り、すがるような目でこちらを見つめる姿は寂しさの他になにか抱えるものがあるようだった。

 俺はソファーに座り直し、抱かれた左手を優しく握って自らの膝上へ置く。


「一人はイヤ?」

「……私ね、昔、仕事に行くお父さんとお母さんを見送って家で一人待ってたの」


 彼女の口からポツリと漏れる父と母のこと。

 会った当初聞いていたが、彼女の両親ってたしか……。


「でも夜になるまで帰って来なくて、それでも一人で待ってたらおばあちゃんが慌てて家に来て、病院にって…………」


 あぁ……それはもしかして……。


「だから、一人で家にいるのは……怖いの」

「……そっか」


 小さく、簡潔な言葉。彼女の肩をそっと抱き寄せるとそれに抗うこともなく黙って受け入れてくれる。

 それ以上のことは聞く必要も無いだろう。しかし怖いか。なら、俺がやることは1つしか無い。


「じゃあ、2人が帰ってくるまで俺がずっとそばにいるよ」

「いいの?」

「あぁ、これでも彼氏なんだし、ちょっとはカッコつけないとね」


 もしかしたら彼女がアイドルになってもずっとおじいさんらが側にいるのはそこが関係してくれてるかもしれない。

 予測は予測、事実は分からないし聞くこともないが、でも今回は当然俺が一肌脱ぐべきだろう。


「マスターさん……。ん、ありがと……」

「うん……」


 奈々未ちゃんはゆっくり俺の胸元に抱きついていき、俺は抱きとめてそっと髪を撫でる。

 真っ白で美しい髪。身体も細く、肌も雪のように白い。そんな雪のように力を込めれば居なくなってしまいそうな彼女を抱いていると、ふとソファーに放られた彼女のスマホが振動する音が聞こえる。


 薄暗くなった室内。遠目からでもかろうじて画面が見える。あれは……『おじいちゃん』?


「奈々未ちゃん、おじいさんから電話」

「……!! はいっ、おじいちゃん!?」


 よかった。おじいちゃんは無事のようだ。

 耳に当てられている受話器越しから彼の声が微かに聞こえるし、彼女の表情も穏やかなもので俺も一安心する。

 この調子なら本当にそろそろ帰ってくるじゃないか。さ、俺は帰る準備っと……。


「――――うん、わかった。 伝えとく。それじゃあね」

「おわった?」


 電話が終わるのを見計らって俺は立ち上がりコートを取りに行く。

 側にいるって言った直後で格好つかないが、これも約束だ。2人が帰ってくるなら俺はお役御免だろう。


「ん。 おじいちゃん、年越し直前まで帰れないって」

「そっか。よかった。 じゃあ俺は早速帰――――なんだって?」


 さぁ帰ろうと廊下まで足を伸ばしたところで、思わぬ言葉に勢いよく振り返る。


 なんて言った?帰れない?年越し直前まで!?

 さっきの電話ってもうすぐ帰るとかそういうのじゃないの!?


「ん。年越し直前まで帰らないって。 マスターさん、おじいちゃんが帰るまで側に居てくれる……。だよね?」

「っ………! っ…………!!」


 ニヤリと。

 言質を取った彼女が一歩、また一歩と追い詰めてくる様に俺は言葉を無くしてしまう。


 当然俺はついさっき言った言葉を撤回することができず、この家で厄介になることが延長されるのであった。

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