048.篭絡


 人は自分より強大な相手と対峙した時、どういった反応を見せるだろう。


 例えば熊。度々ニュースで遭遇したという情報が流れてくる。

 もし俺が熊と遭遇したら一体どんな反応を見せるだろか。

 背を向けて逃げるか、逆に戦いを挑むか、もしかしたら死んだフリをするかもしれない。


 何にせよ、その時にならないとわからないだろう。実際危険すぎて遭遇したいとも思わないが。

 ならば、なら熊と違い人間ならば。危険度が低い相手ならどうだろう。強大な力を持ちつつも理性を持ち、それを闇雲に振るわない相手なら。

 それならばすぐに分かるかもしれない。なんてったって今目の前には――――



 ――――筋骨隆々のガタイのいい男性と対峙しているのだから。



「えっと……はじめまして。大牧 総といいます」

「…………」


 背丈も筋肉量も、俺より遥かに上の相手。

 彼女の家……ならぬボクシングジムに居たのは間違いなく灯の父親らしい。

 腕を組んで仁王立ちする、完全に俺と真逆のタイプの男性。

 緊張とプレッシャーの中なんとか口を開いて挨拶をするも、彼はジッと黙ったまま俺を見続けている。


「ご挨拶が遅くなりすみません」

「…………」

「…………」

「…………」


 …………。

 しかし、俺から声をかけても、一向に待っても、話が進む気配がない。

 さっき俺が挨拶してどれくらい経っただろうか。1分?5分?それ以上?

 時計も見れない中真実は闇の中だが、体感的にこの長さはおかしい。


 もしかして俺、何かやらなければ事やってないとか!?

 でもボクシングでの作法なんてさっぱりわからないし、これ以上何かしようにもモノも知識も無い。

 やはり手土産の1つくらい持ってくるべきだったか。お菓子はダメとか言ってたけど他にタオルとかそういう……


「……キミがマスター君とやらか」

「は、はいっ!!」


 ファーストコンタクトを大失敗したかと、さっきの行動をグルグルと反芻していると、突然そんな言葉が投げ込まれて思わず声が裏返ってしまった。

 ビシッと背筋が伸びて天まで届くんじゃないかと思うくらいの良い姿勢。しかし彼はそんな俺に意を返す事無く、チラリと灯を見て声をかける。


「灯」

「うん、わかった。 ではマスター、私はちょっと離れようと思います」

「えっ!? 居てくれないの!?」


 たった3文字。彼女の名前を呼ぶだけで灯も何を伝えたいのかわかったようでまさかの宣告をしてきた。

 灯離れるの!?ってことは俺と彼の二人きり!?


「すみませんマスター。お父さんがマスターと二人っきりになりたいと言ってまして。 大丈夫です。お父さんはプロボクサーですし分別はわきまえてますから」

「プロ!?」


 やけに体が出来上がってるなとおもったらまさかのプロ!?

 え、本当に大丈夫だよね……?ストレートが挨拶なんてならないよね……?


「頃合いをみてすぐ戻ってきますので。 ちょっとお母さんのところ行ってきます」

「あ……あぁ……わかった……」


 軽い感じで部屋を出ていく灯に、震えながら見送る俺。

 そしてゆっくり。ゆっくりと視線を送った先にはさっきと変わらず仁王立ちをする彼がジッと俺を見つめていた。

 あぁ……灯、俺の無事を祈っていておくれ…………。


「…………」


 もう一度向かい合ってみてもやっぱりしゃべらない。プロか……灯のご両親について何も知らなかったけど、まさかプロボクサーとはなぁ。


「マスター君」

「はい」


 しかし今度は思ったより早く口を開いてくれた。

 彼が俺を呼ぶと同時にスッと手を上げて何かを差し出してくる動作を見せる。


 これは……グローブと手袋?そして靴?

 真っ黒なグローブだ。ボクシングでよく見るようなシンプルなもの。そして手袋も真っ黒。しかし指先が穴開きで明らかに寒さを緩和させるようなものではない。

 それらを恐る恐る受け取ると、彼は何も言わず振り返って背後にある大きなリングへ向かっていく。


「……付けたら、上がってきなさい」

「えっ…………は、はい!」


 もはや何をしにきたかも何をすればいいかもわからず、彼の言葉のまま慌ててそれらを装着していく。

 靴はともかくグローブなんて初めて嵌めるのだが、普通に手を突っ込んでマジックテープで固定するだけでいいのだろうか。


 装着も終わり、リングに上がると思っていた以上の広さに驚愕する。

 これがボクシングの舞台……ロープで囲まれてるから外から見るとそこそこだが、中に入ると思った以上に広い。

 たった2人きりのリング。目の前には彼がグローブ……?なにやら平べったいものを手に装着して構えていた。


「ほら、打ってきなさい」

「えっ……えっ?」

「ジャブからだ。ここに打ってきなさい」


 えっ?打つ?ジャブ?どういうこと?


 わけも分からずとりあえず構えてみるとグッと彼の視線が鋭くなる。

 あ……圧が……。でも打たないとダメなんだよな。ジャブってわからないが、とりあえず殴ればいいのかな?


「はっ!!」

「違う。それはストレートだ。 右の構えなら左がジャブとなる」

「すっ……すみません……」


 勢いよく伸ばした右腕がまるでハエを落とすかのように叩き落されてしまった。

 左……左ね……。随分とやりにくいけど、こんな感じ?


「ちがう!体を捻らず腕だけを使うんだ!」

「っ……! はいっ!」

「よしっ! 次はストレート!右だ!右で打つんだ!!」

「はいぃっ!」


 打つごとにさっきの寡黙の表情は一変してボルテージの上がっていく彼。

 俺は彼の言葉に従ってただひたすらに打ち込んでいく。

 それは果てしない時間。ただひたすら、時の流れを忘れるほど打ち込むのであった――――



 ―――――――――――――――――

 ―――――――――――

 ―――――――



「ハァ……ハァ……もう動けない…………」


 疲れた……動けない……指の一本も動かせない。


 俺がここに来て何故かボクシングが始まって、かなりの時間が経過した。

 昼過ぎにここにたどり着いたのにもう日は落ちてしまうというほど。ほぼほぼノンストップで彼の言われるがまま身体を動かした。


 どうやら彼はのめり込むと饒舌になるタイプのようだ。

 やっているとかなり怒られたし怒鳴られた。もうどれだけの言葉を喰らったか。中身も覚えていないがめげずに随分と頑張った気がする。

 学生時代から換算しても一番に頑張った。身体を動かした。だからこそもう、動けない。


 俺は動けず床に倒れ込んでいるというのに彼は黙々と片付けを進めている。凄い……これがプロの体力か…………。


「マスター君」

「は。はい」

「動けるか?」

「ちょっと……無理そうです……」


 俺が倒れている間に片付けが終わったのか、彼は俺を見下ろしながら聞いていくる。

 さすがに指さえも動かせないのは比喩だが、それでも腕も脚もむりそうだ。持ち上げる気力が湧いてこない。

 汗もだいぶかいたし早く帰ってシャワー浴びたい。むしろそこらのホテルでもいいからシャワーを………ベタベタして気持ち悪い。


「……そうか」

「はい……………って、えっ?ちょっ……!何を……!?」

「黙っていなさい」


 身体を大の字にしながらもうしばらく休ませて欲しいと言っていると、彼は突然そんな俺を米俵のように担ぎ出した。

 大人になって初めての担がれるというという経験。彼のまさかの行動に驚くも疲れのせいで抵抗することができない。


 一体何するの……って、どこつれてくの!?


 俺を担いだ彼はそのまま裏の扉をくぐって外へ。

 外は随分と寒く、暗くなっていた。吹き付ける風。思わず震えそうになるが、彼は意にも介すことなく隣の建物の中へ。


 そこは昼に灯が言っていた、彼女の家だった。

 シンプルな一軒家。中もシンプルなものの綺麗で掃除が行き届いていることが見受けられる。


「ど……どこに……」

「黙ってなさい」


 また怒られてしまった……。

 もはや問うことも抵抗することもできないまま玄関近くの階段を上がり、2階へ。

 時々足がガンガン壁に当たったが指摘する事もできず上がった先には幾つかの扉があり、そのうちの1つの前で彼は立ち止まった。


 扉を開けた先は真っ暗闇の部屋。

 カーテンも閉められているからかかろうじて見えていた陽の光もここからは確認できず、一寸先は闇の状態。そんな中を彼は迷いなくズンズン進むとともに、目的の場所にたどり着いたのか俺を両手で持ってそのまま投げ捨てられた。


「うわっ!!」


 突然の放り投げに声を上げてしまったが、痛くない。

 何かスプリング的なもので衝撃は緩和され、けがをすること無く着地できたようだ。

 目的は何なのかと彼を見上げてみるも、その時には既に背を向けていて部屋を出ていく寸前だった。


 立ち上がって追いかけようともするも疲労のせいで動くことができない。ついに彼は俺をそのままにし、扉を閉めて一人きりになってしまった。


「なんだったんだ………?」


 初めて会ってから今まで、彼が寡黙すぎてイマイチ要領を得ない。

 リングの上ではかなり饒舌だったが降りてからはまた口数が減ってその意図をも知ることができなかった。


 一体俺はここで何をしろと?っていうかここってベッドだよな?

 そしてこの家は灯の家。つまり、この部屋は…………?


「総さん……」

「あか――――ん~~!!」


 ようやく聞き馴染みのある声に出会えたと暗闇の中声の方向へ振り向けば、突如として襲われる4度目の感覚。

 頭に手を回され、すぐ目の前には何者かの存在。そして唇の感触。もはや考えるまでもない。キスだ。突然俺はキスされたのだ。


「総さん……はぁ……はぁ……」

「灯…………?」


 動けない俺に馬乗りになったのは間違いなく灯。

 それも普通の様子ではない。肩で息をし、その吐息は熱を持っている。


 けれどそれさえも些末なこと。彼女の現在の特異性といえば……


 見下ろしてくる彼女の身につけているのはピョコンと生えた猫耳、そして上下ビキニタイプの水着姿と、明らかに冬として似つかわしくない格好をしていた。


「そっ……!総さんを……篭絡しちゃう……にゃんっ!!」

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