045.お魚と来訪者


 真っ暗な部屋に2つの吐息が交じる。

 その息はどちらも熱を持ち、その瞳も潤んでこちらを見つめている。


 ”彼女”の熱の瞳はジッと俺の目を見ていたと思いきや次第に下に向かい、とある一箇所で動きが止まった。

 それは彼女から見て丁度真下。頭が下がり、いつものポニーテールを解いた黒髪が垂れても気にすること無くニヤリと笑う。


「マスター……好き……大好き…………」


 吐息混じりに俺への愛の言葉が囁かれるも、それに返事をすることはなく俺は震える腕を動かして彼女を止めようとする。

 しかし腕は思いもよらぬところで止まってしまった。彼女に触れようと息も絶え絶えながら腕を動かしていたところ、腕が彼女の支えである手に当たって衝撃に従うように弾かれる。


 橋の支柱が倒れれば全体が崩れるように、押し倒す形で支えにしていた腕の片方でもなくなれば、崩れていくのは必然。

 片腕という大事な支柱を崩された彼女は重力に従って頭から、俺が今の今まで露出していた部分へと突っ込んでいった――――



 ―――――――――――――――――

 ―――――――――――

 ―――――――



 時刻は日中へと遡る。


 てんやわんやだったパーティーを終え、帰り際に優佳からファーストキス(?)を受け取って数日。

 あと幾日で正月だということで、早朝の商店街へ出向いてしめ飾りや鏡餅など、正月ならではのグッズを調達し終えた時に彼女はやってくる。

 水回り、玄関への飾り付けを終え、さあお昼ごはんだと今日の昼食作りに取り掛かろうとしたところでその扉は開かれた。


「マスター。 いますか~?」


 チリンチリンといつもの音を奏でながら開かれた扉に現れたのは一人の少女、灯。

 俺の知り合いの中では少し小さめの身長と美しい黒髪を持ち、前髪を揃えて後ろはポニーテールにした可愛らしい少女。

 黒いデニムにボーダーのトップス、そしてニットカーディガンを着た比較的ラフな私服姿の彼女は俺を見てホッと息を吐く。


「あぁ、居たんですね。 よかった」

「どうした? これからお昼ご飯作るところだったが……」

「あ、私も食べていいですか? 今日のお昼ごはんって?」


 俺の姿を認識した途端真っ直ぐ向かってくる灯。

 お昼……お昼ね。なかなか彼女は運がいい。丁度いいものを仕入れたところだったんだ。


「そうだなぁ……街でブリも買っちゃったし、照り焼きなんて考えてたが、どうだ?」

「ブリの照り焼き! いいですね。お願いします」


 よしきた!と思いつつ眼の前のカウンター席に座る彼女を横目に準備に取り掛かる。


 いやぁ、正月前の商店街は魔境だ。もう欲望の塊だ。

 みな書き入れ時なのかどこもかしこも呼び込みに力が入っていて熱もすごい。

 その上年末特価やら大処分祭とかでどれもこれも安くなってるから誘惑の多いこと。

 このブリだってそのうちの1つだ。呼び込みに負けてフラフラと立ち寄ったところであれよあれよと言う間にお買い上げ。いやぁ、まさかあんな簡単に俺も陥落するとは。


 でも彼女が来てくれて助かった。魚売りのオバサマに多くまけてもらったからどうしようかと悩んでたんだよね。これで昼夕と連続ブリにならなさそうだ。


「入り口もそうでしたけど、もうすっかり変わりましたね」

「うん?」

「飾り付けのことですよ。パーティーの日は豪華でしたが、こういうのもまた素朴でいいですね」


 彼女のその視線がシンク近くにある鏡餅を見ていることに気づいて俺も「あぁ」と納得する。


 楽しかったクリスマスパーティー。まだ数日前の出来事だが随分と昔のようだ。

 飾り付けが変わると心も切り替わる。もう気分はすっかり年末年始気分で当時のことを思い出していく。


「あの日はみんながお酒飲んで大変だったな……。 灯は大丈夫だったか?一人倒れてたけど」


 あれは大変だったよ。みんなの吐息にお酒がまじりながら迫ってきて……。一人倒れていた灯は正直救いでもあった。

 みんなが暴れる中1人おとなしいってホント助かるよね。


「えぇ、はい。どうやら私はお酒が入ると寝ちゃうようです。 気づいたら2階で朝を迎えてました」

「じゃあ、あの時起こったことは全然知らない?」

「いえ、伶実先輩を筆頭に皆さん断片的に覚えてたので少しずつ補完し合いました。 マスター……あんなに迫られても手を出さないんですか……」

「………………」


 ため息交じりで正面からジト目で突き刺さる視線を浴びながら、俺は決して目を合わせまいと熱したフライパンに視線を落とす。

 確かにヘタレだといわれるかもだけどさ……でもお酒の勢いで一線をってのはダメでしょっ!


 そして伶実ちゃんはシラフだったから記憶が鮮明なのはよく理解できる。やはりみんなにも詳細は伝わっていたか。

 ならあの朝のことは……あのことも伝わっているのだろうか。


「…………でも、帰る時様子が変だったんですよね。 あれだけは先輩方に聞いても教えてくれなくって……なにかあったんですか?」

「さ、さぁ………」


 …………よかった~~!!

 あの朝の出来事だけは伝わってないことが確定した!そして同時に優佳との一件も伝わってないだろう!


 伶実ちゃんとも遥とも付き合ってるのだから、キスをすること自体は理解できるはずだ。

 しかし同じく付き合ってる2人にそのことをいつ言うべきか。それは未だに迷っている。簡単に言っちゃって言いべきか、はたまたしっかり場を整えて言うべきか。

 みんながどう受け止めるのかさっぱりわからない。こういう時の対処法は……優佳辺りに相談しておけばよかった。


「マスターも知らないんですね。 …………そのお魚、そろそろいいんじゃないでしょうか?」

「えっ? あぁ、ホントだ。ゴメン」


 少し考え事に熱中しすぎてしまった。

 彼女の視線に意識を向ければフライパンの上のブリが両面こんがりとしっかり焼けているのに気づいて、慌ててタレを加えていく。


「――――あつっ!!」

「マスター!?」


 けれどここで予想外。少し慌て過ぎたようだ。

 次の工程に移るため用意していたタレをフライパンに加えていくと、ジュウウ……と焼ける音とともにブリからでた油が跳ねて俺の手の甲へと直撃する。

 突然襲ってきた痛みに思わず声を上げると、向かいの灯も驚いたように立ち上がってこちらに駆け寄ってくる。


「マスター! 大丈夫ですか!?」

「あ、あぁ。全然大丈夫。 ちょっと油が跳ねただけだから」

「ちょっと見せて……確かに、これくらいなら冷やせば大丈夫そうですね。 気をつけてくださいマスター。ボーっとしてたら怪我しますよ」

「あはは……ゴメンゴメン」

「料理は私が見てますのでマスターは冷やしておいてください」


 そう言ってコンロの前を奪い取られた俺は大人しくシンクへ向かって水を当てていく。

 冬の冷たい水道水。その熱を奪う水が俺の手に当たって患部を冷やしてくれる。


「ごめんな灯。迷惑かけるよ」

「いえ、このくらい大したことないです……っていうか、私もマスターの彼女なんですから、これくらいズッシリ構えて頼ってください」


 「まったくマスターは……」と続く彼女を見て思わず笑みが溢れる。

 あぁ、あれだけツンケンしていた子が可愛くなって。それに頼ってか……。一人で全部やろうとし過ぎたかな?


「なんですかこっち見てニヤニヤ笑って」

「い、いや! なんでもない!」

「気をつけてくださいよね。 私はマスターの『彼女』なので気にしませんが、遥先輩あたりに見られたらドン引きされちゃいますよ」


 一応、遥も彼女なんだけどな……。

 でも、『彼女』と強調したり、そう言いながら目を合わせず顔を赤くしたりしてるのを見て、今のツンケン具合は照れ隠しなんだなと実感させられる。

 そんな彼女の可愛さにまたも顔が緩みそうになったが直後に彼女の視線がチラリと飛んできて思わず顔を引き締める。


「あ、あー。 そういえば今日はどうして来たんだ? 普通にお昼食べに?」

「いえ、そうでしたね。 すっかり忘れるところでした」


 またも俺からの視線にツッコミを入れられそうな雰囲気を感じ取って適当に話題を提供してみる。

 そういえば彼女は何しに来たんだろう。来た時は俺が居たことで安心してたみたいだったけど……


 彼女は料理が出来上がったのか火を止めて俺と向かい合う。

 見上げてくる彼女の大きな瞳。その真っ直ぐな視線が俺と交差し、思わず目が揺らいでしまう。


「マスター。今日、ウチに来てくれませんか? その……父が会いたがってますので」


 そんな真っ直ぐの彼女から出た言葉はまさかの台詞。

 俺はこのタイミングでくるまさかの発言に、しばらく放心してしまうのであった。

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