004.奈々未
騒がしかった時を越え、いつもどおりの時間がやって来る。
明るく楽しく騒いでいた伶実ちゃんと遥はテーブルに向かってそれぞれノートに向かっている。
走った影響である疲労も休んだお陰で幾分かマシになり、きちんと2本の足で立つことができるようになった俺といえば、いつもどおりコーヒーを淹れるためお湯を沸かす。
さっき飲んだお茶もいいが、やっぱりコーヒーも飲みたい。できればコーヒー風呂に浸かって一生を過ごしたいほど。
さすがに冗談だ。飲み物の風呂なんて衛生的にもアレだし、絶対飽きる。
そんなこんなで訪れる毎日の決まったような光景。
いつもどおりの、幸せな時間。穏やかでゆっくりとした、リラックスできる時間帯。
後は予め挽いておいた豆にお湯を落とせば完了だ。
挽きたての豆から漂ってくる心地よい香りを堪能しながら丁度いい温度になったお湯を丁寧かつ慎重に、数度に分けて落としていく。
「できた……」
落としきった先のカップに見えるのは、一点の明るさをも通さないような真っ黒な液体。
何の捻りもないただのコーヒーだ。苦みの強くて深い味わいの俺好みのコーヒー。うん、今日も自信作。
それじゃあ早速、いただきま……あ、そうだ。飲む前にお茶菓子的なものをがほしい。
本永家で貰ってきたフィナンシェでいいかな。バッグは……そこか。
「……あれ?」
目的の物はカウンターの後ろ。キッチンを正面に向いて背にあたるの位置にあった。
体力の回復した俺にとって後ろを向くことなぞ他愛もない。いつもどおり後ろを向き、さっき貰ってきたフィナンシェを3つを手にして向き直ったその時だった。
さっきまで置いていたコーヒーカップが……ない。
おかしい。
俺が目を離したのはせいぜい5秒ほど。
向こうに座っている伶実ちゃんや遥が取りに来ようとしても椅子やテーブルが邪魔で間に合わないだろう。つまり2人は犯人ではない。
もしかして、コーヒー中毒が行き過ぎて淹れている幻覚を見てしまった?いや、シンクには使ったコーヒー粉が置かれている。つまり幻覚ではない。
じゃあ、俺の認識より早くコーヒーを飲んでしまった?……ありえない話ではないけど、淹れたての熱々コーヒーなんて一瞬で飲んだら今頃口の中が燃え盛っていることだろう。
となると…………
「…………やっぱり、奈々未ちゃんか」
「……ん。 ただいま、マスターさん」
向かいの客用カウンター席。今の俺の位置から死角になるその席には小さな女の子、奈々未ちゃんが座っていた。
白い髪に白い肌。そして吸い込まれるほど澄んだ蒼い瞳を向けて、冷静に返事をするのはこれまた俺の大切な恋人である少女、
髪などの特徴的な色はアルビノという珍しい症状から来るもので、彼女はその得意性を武器にアイドル活動を、そしてトップクラスにまで上り詰めた今をときめく人物だ。
ホントは店に寄るような時間なんて無いはずなのに、予定をキャンセルしてでも時間を作って訪ねて来てくれている。
それができるのは彼女の人気の高さの故か。何にせよ、大切な人だ。
そして彼女は大のコーヒー好き。
コーヒーを飲めるのは俺の親しい面々の中で彼女しかいないから予測も容易だ。
でも、いつの間に来たのだろう。ゆったりとした時間だったとはいえ入り口の鈴が鳴れば確実に気づくのに。
「いつの間に来てたの?」
「さっき裏口から。知らなかった? 私が座った途端コーヒー作り出したから、気づいてるものかと」
「なんで裏口……」
静かに、そして透き通るように聞こえるのは誰しもを魅了するような声。
容姿ももちろんだが、ソロライブをするほどの実力を持つ彼女はもちろん歌声も素晴らしい。天から二物を与えられたと思うほどの才能を持つ彼女はその声からして美しものだ。
しかし、裏口からはさすがに盲点だった。
そりゃ入り口の鈴も鳴らないはずだよ。
「最近、誰かにつけられてる気がして。 念の為」
何だそりゃ。
……って言いたいところだが、人気のアイドルで目を惹く容姿を持つ彼女のことだ。きっとそういう被害もあるものだろう。
そんな中出歩いていて大丈夫なのだろうか。そんな視線を込めて彼女を見ていると、フッと軽く口角を上げてみせる。
「マスターさん、心配しなくても大丈夫。 悪い気配もないし、イザとなったら遥ママに泣きつくから」
「あぁ……お手柔らかにね」
遥ママ……つまり俺がさっきまで話していた紀久代さん。
彼女自身の力は未知数だが、なによりそのバックが怖い。家の規模といい、名家なのだから影響力があって叱るべきだろう。
更に斜め上の発想をする彼女のことだ。泣きつかれたら何が起こるか予測ができない。
「もしマスコミなら……私とマスターの関係がバレちゃうかも?」
「それってかなりまずくない?」
「…………? 何か問題が?」
…………。
ま、まぁ。本人が問題ないって言うのならいいんだけどさ。
俺嫌だよ。週刊誌とかに抜かれて奈々未ちゃんが叩かれるのなんて。
「それよりマスターさん、コーヒー、飲んでいい? 自分用に淹れてたんだよね?」
「あぁ、いいよ。 自分のはまた淹れ直すからさ」
もうその話は終わりかのように見せてくるのはさっき俺が淹れていたコーヒー。
彼女はもともと、俺のコーヒーを気に入ってくれて店を尋ねるようになってくれたのだ。目の前にあったら当然飲みたくもなろう。
「ん、ちょっとまって」
「へ?」
自分用にまた新たに淹れ直そうと豆をに取ったところで彼女から静止の声が飛び出し、手が止まってしまう。
その隙にコーヒー片手でカウンターを回って目の前に来た彼女は、さっきまで座っていた俺の椅子にチョコンと座ってきた。
「奈々未ちゃん?」
「んく……。 はい、マスターさん」
「はいって……」
俺の椅子を占領した彼女は手にしていたカップに一瞬口を付けて俺に手渡してくる
…………どうしろと?
「淹れるのも大変だろうし、一緒にシェアしよ?」
「あぁ、そういうことね」
ようやく意図が理解できた。一緒にコーヒー分けっこしようということか。
まぁ、そのくらいならいいか。
彼女たちと付き合って数ヶ月。キスはまだだが間接くらいは何度かやっている。
今更気にすることなんて……気にすることなんて…………。気にしないように頑張る。
「んっ……。 はい、奈々未ちゃん」
俺は彼女が口をつけた側とは反対側を向くようカップを回してゆっくりと口をつける。
やはりコーヒーはいい。安心する。でも全部飲まないよう少しだけにして……彼女の番だ。
「ありがと。 …………はい、マスターさん」
「…………」
さっきは敢えて反対側に口つけた上で元の方向に戻して返したというのに、奈々未ちゃんたら俺が口つけた場所にわざわざ触れさせて……。
偶然だよね。たまたまカップを回したい気分だけだったよね。
「……これで全部か」
「ん、ごちそうさま。マスターさん」
…………偶然なんかじゃ、なかった。
お互いシェアしあって飲み続ける間中ずっと、俺がカップを回して四苦八苦しながら飲んだというのに、彼女はそれに被せるように口をつけてくる。
わざわざシェアすると言った時点で何かあると思ってたけど、やはりこういうことか。
「あ、お菓子忘れちゃってた」
チラリと彼女が視線を向けた先。そこには袋に入ったままのフィナンシェが。
コーヒーに夢中ですっかり忘れていた。まぁ、人数分あるしみんなに渡してしまおう。
「奈々未ちゃんもどうぞ。 残りはあの2人に渡すから」
「……いいの?」
「もちろん」
向こうで1つは食べてきたし、残りは食べてもらって丁度いい感じだ。
そう思ってカップを洗いにシンクに向かおうとしたものの、奈々未ちゃんは何を考えたのかお菓子の先を口に加えたまま残りを突き出すようにこちらに向けて「ん」と声を発してくる。
「ふぁふふぁー、ふぁん」
「……奈々未ちゃん、一応聞くけど、それって?」
「ん。 ふぉうふぉ」
きっと言いたい言葉は、最初は「マスター、さん」で次は「どうぞ」。
何の意図かと考えるまでもない。ポッキーゲームの如く一緒に食べようというお誘いだ。
わざわざ目を閉じて唇を突き出すその様に、俺は引き寄せられるように唇を――――
「っ――――! いふぁい……」
「ちゃんと一人で食べようね。 俺はあの2人に渡してくるから」
唇を――――近づけるわけもなく、彼女の頭に触れるだけの優しいチョップ。
痛くもないのに何故か頭に手を触れる彼女をよそに、俺は残り2つを握ってテーブル席の方まで歩いていった。
そして歩く途中、口元を抑えながら目を伏せる。
アレは絶対、雰囲気もあれば乗ってしまっていたと。
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