003.伶実


 走る――――


 ただひたすらに走る――――


 息が小刻みに早くなり深く吸うこともできずただただ吸って吐くを繰り返す。

 走るのに適切と言われる呼吸を忘れ、目の前の道を一歩一歩踏みしめるように力強く駆けていく。


 あぁ…………身体を動かすとはこういう感覚だったのか。

 久しく忘れていた。高校を卒業して5年と幾つか。体育の授業以来の筋肉の躍動に落ち込んでいた心が沸き立ってくる。

 身体に打ち付ける風が気持ちいい。薄着をしていたおかげでとめどなく出る汗を吹き飛ばしてくれる。

 背中の振動がまるで鼓舞する太鼓のようだ。掛けられる声が声援のようにも感じ、どんどんペースが上がっていく。


 駆ける。住宅街のど真ん中を。

 駆ける。ただ1つの目的地、自身の店に向かって。


 軽い。走る上で背中にハンデを背負っているというのに。

 さっきまで感じていた疲れが奥の方へ引っ込み、身体の隅々まで力を込められる気がする。

 これがハイというやつか。5年以上ぶりの、マラソンの授業以来に体感したランナーズハイに俺は”走る”という行為が楽しくなり最後の直線を突き進む。


 見慣れた道。あとほんの数歩であの建物にたどり着く。あの扉に手がかかる。

 俺は温存していた体力を解き放ち、力の限り足に力を込めて店の扉ゴールへと手を伸ばす――――



 ―――――――――――――――――

 ―――――――――――

 ―――――――



「あ゛あ゛…………。 ヤバい……あ゛じがジぬ…………」


 カウンターに身体を伏せたまま、濁点が付けたままよくわからない日本語を口にする。

 隠れている脚はまるで生まれたての子鹿のように小刻みに震え、もう一歩も動けない事を主張してくる。

 腕も震え、息も荒い。もはや無事なところが無いレベルまで体力を消費しきった俺は、文字通り倒れていた。


 あれから店の扉を開いた俺は、全てをやり終えたかのように、心残りのない穏やかな顔をしていたことだろう。

 そんな俺を迎えてくれるのは大好きな恋人である伶実ちゃん。彼女は俺の姿を認識して顔を綻ばせるも、すぐに異常を察知して驚きに変わる。


 扉を開けた俺は、その場にぶっ倒れたのだ。

 まるで急にエネルギー切れになったロボットのように。一枚抜き取られたトランプタワーのように。

 なんとか動いた腕でかばうことはできたものの、その場に倒れ込む姿に伶実ちゃんは大慌て。

 背中の遥は持ち前の反射神経で無事着地したが、床に沈んだ俺はなんとか数歩歩ける体力を回復するまで待ち、カウンターまで這ってきたのだ。


「マスタぁ~、だいじょうぶ~?」


 ヒョコッと向かいから顔を出すのはさっきまで背中にいた遥。

 その顔は心配と呆れが混ざった顔で、疲労困憊の俺を気にかけてくれる。


「あぁ、なんとか。 慣れない事して体力無くなっただけ」

「も~、必死に止めてたアタシの声も聞いてよね~。 ずっと止めてたんだから~!」

「ちょっと……うん、ハイになりすぎちゃってた」


 それを言われちゃ弱い。

 さっき走ってた時、背中を叩く感触と声で応援してくれていると思ったが、あれは必死に止めてくれる動作だったようだ。

 走り続ける俺を心配して制止したが、俺が聞く耳持たなくって大変だったらしい。久しぶりの運動にちょっと楽しくなりすぎちゃってた。


「あ~あっ、絶対マスターの明日は筋肉痛だろうな~。 ロクに動けないだろうなぁ~! …………チラッ」

「……たとえ筋肉痛でも、遥にヘルプは頼まないよ?」

「え~! なんで~!?」


 明らかにこれ見よがしの反応に前もって拒否すると驚きと抗議を示して動けない俺を揺らしてくる遥。

 だって明日も学校でしょうに。そんな中たかが筋肉痛程度で人に頼るのは忍びない。


 それにしても筋肉痛か……夏のプール以来だっけ。

 あの時は一緒に風邪も引いて倒れて、色々大変だったな。

 今日は薄着だったし風邪引かないように注意しないと。


「遥さん、そこまでですよ。 あんまりマスターを困らせちゃいけません」

「レミミン…………」


 揺らしてくる遥をそのままにしていると店の奥から現れるのは、さっき俺を出迎えてくれた少女、深浦 伶実ふかうら れみちゃん。

 茶色の髪を1つに纏めて前に下ろした、可愛らしい少女。彼女俺の大好きな恋人だ。

 伶実ちゃんの手にはお手製の氷嚢ひょうのうと固定バンドが握られ、しゃがみ込みながら俺の脚を冷やしてくれる。


「はい、できましたマスター。 大丈夫ですか?冷たすぎるとかありませんか?」

「ん……大丈夫。いい感じ。 ありがと、伶実ちゃん」

「冷やした後は十分お風呂に入って身体を温めてくださいね。 もちろん、ストレッチやマッサージもです」


 患部で氷嚢を固定し終えた彼女は優しい微笑みをこちらに向けてくれる。

 彼女が着用してるのは今の俺と似た、この店の制服。黒いシャツに黒いパンツの俺と違って彼女のは茶色のロングスカート。


 その服から察せるとおり、彼女はここの従業員だ。

 現状アルバイトという名目だが、もはや実務は殆ど彼女一人でも行けるというレベル。



 そして、この店の鍵を共有する人物の一人でもある。だから今日も俺が外に出ているにも関わらず迎えてくれたということだ。

 ちなみに遥も鍵の持ち主。もしかしたらさっきは迎えに来てくれていたのかもしれない。


「それと、お野菜の配達が来られてましたので処理しておきました。後で確認して貰えますか?」

「野菜って今日だっけ……了解。動けるようになったらすぐ見るよ」


 やっぱり伶実ちゃんは頼りになる。雇って本当によかった。

 彼女はそのまま沸かしてくれていたお湯を使ってお茶を作ってくれる。

 これは店で出すものではない、市販のパック物だ。


「あぁ……温まる……。 コーヒーもいいけどお茶も沁みるね」

「えぇ、本当に。 寒いと暖かい物がとっても美味しくなります」


 いいよね、暖かいもの。鍋とか。

 今度みんなで鍋パーティーするのもアリだな。もちろん夜じゃなくて昼に。

 夜だったら何が起こるかわからない。俺の貞操が危険で危ない。


「……レミミンってさ」

「はい?」


 疲れからかおかしな日本語が頭に浮かんでいると、ジッと俺たちの様子を見ていた遥が言葉を漏らす。

 その目はジト目……。なんだか妙な雰囲気だ。伶実ちゃんもその雰囲気を感じ取ったのか少し後ずさる。


「な、なんでしょう……?」

「レミミンって、なんかマスターのお嫁さんっていうより、お母さんだよね。意図を汲み取るんじゃなくって先回りする感じがなんかこう……」

「なっ――――!?」


 遥から出た思いもよらぬ言葉事実に、伶実ちゃんは目をまんまるにして固まってしまう。

 まぁ……うん。わからないでもない。正直伶実ちゃんは良い母親になると何度も思ったが、もはやなっている感もしないでもない。


「マッ……マスターも……そう思ったりしますか……?」

「え、えっと……」


 固まった首がギギギっと動いてこちらに問われるのを思わず目を逸らしてしまった。

 きっと彼女はそれを肯定だと認識したのだろう。これ以上無いくらい目を一瞬見開いた彼女はすぐに閉じ、次に開いた時は微笑みに変わってしまう。


「マスター」

「はい……」


 なんだろう。なんだか得も言えぬ不安感。

 彼女に限ってするとは思えないがビンタでも飛んでくるんじゃ無かろうか。そんな嫌な予感が頭の中を駆け巡る。


「っ――――! ………あれ?」


 バッと彼女が勢いよく動いたのに合わせ、衝撃に備えるため目を閉じたはいいが、伝わってきたのは柔らかさだった。

 ゆっくり目を開けると真っ白な布。そして顔に触れる優しい感触。

 どうやら俺は彼女に抱きしめられているようだった。その細い腕が俺の後頭部に回されているのが感じ取れる。


「たとえお母さんのようでも、私はマスターのお嫁さん……ですよね?」

「…………伶実ちゃん」


 それは俺を信じてくれる一心。

 彼女の疑う余地のない心に俺もそっと手を回して彼女を抱きとめる。


「もちろん。伶実ちゃんも、大切なお嫁さんだよ」

「マスター……!」


 彼女の回している腕が、一層強くなる。

 彼女から漂ってくるいい香り。俺は伶実ちゃん自身の香りを受け止めつつゆっくり目を開くと、向かい側に頬を膨らませた遥が経っていることに気がついた。


「ムー! レミミンばっかりずるいっ! アタシもマスターをギュッとするもんっ!」

「遥さんはさっきまでずっと一緒にいたじゃ……キャッ!」

「えへへ~! これで3人みんな一緒だね~!」


 目にも留まらぬ早さでカウンターを回ってきた彼女は、俺と伶実ちゃんを包み込むように同時に抱きしめる。

 こうなってはもはや遥の独壇場。俺たちは彼女が満足行くまでその背中に手を回して一緒に抱きしめるのであった。

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