002.遥
「はぁ…………」
大きなため息とともに出てくる白い吐息が、風に流され消えていく。
それは寒空に揺らめく心の写し身。一定のリズムで現れるそれは、どこからともなく吹きつける冷たい風に連れ去られて俺の体温を奪っていく。
寒い寒い、12月に入った曇り空の下。
俺は最寄り駅で降りてから店までの帰り道を身を丸めながら帰っていた。
太陽が出ていた事もあって暖かく、今日の気候を舐めてかかった帰り道。
太陽の光が遮られた上に気温低下に見舞われるという、自然界相手に返り討ちに遭った俺は薄い上着を深く被りながら寒さで鈍る身体を動かしていく。
くそう……向かう頃は太陽も出て暖かかったのに、帰りは曇りになるなんて聞いてない。
しかも迫ってくる冬至に向けて太陽も低く、もう天辺をすぎて山へと降りていっている。
そんな急激に寒くなっていく気候に無駄な恨みを抱きつつ、ビュウッと吹く冷風に身を震わせながら白い息を吐き出していく。
息を吐くたび思い出されるは、新たに加わった懸案事項。先程、本永家にて提示されたとある提案。
それは空き家となっていた隣家の土地を使って建物を増改築していくというもの。
確かに2人以上だと手狭になる俺の部屋。今のままだと大変なことになるというのは理解した。移転や増改築という選択肢も理解はできる。
しかし、それを提案する時点でわざわざキャッシュを用意するのは無いだろう。
紀久代さんが入ってきた際に運んできた3つのアタッシュケース。あの中はどれもお金がキッチリ所狭しと並べられていた。
キリよく100枚づつで帯封にまとめられ、それがカバンいっぱいに入っているという、映画などでしか見ることの無かった光景。
まさにザブトン。そしてそれが3つ。
会社の社長かつ名士であるあの家にしかできない芸当に、俺はただただ驚くことしかできなかった。
もちろんその後に起こるのは必死に断る俺と、決して引き下がろうとはしない2人の攻防。
なんとか話は保留にし、ケース自体も預けるという形で落ち着いたものの、新たな心労にため息しか出なかった。
いやね、たしかにアレくらいの額は俺の口座にもある。大昔にあの家から貰い、そして増やしたお金ではあるが。
しかし実際に目にしてみるとその大きさに圧倒されるばっかりだ。さすがやることの予想がつかないあの人だ。初発のインパクトが違う。
でも、いずれは考えねばならないことに気付かされたのは本当だ。さて、どうするべきか…………
「っ…………! さむっ……!」
最寄り駅前の栄えた地域を抜けて住宅街に入ったところで、これまで以上の突風が身体を打ち付けてきて自然と自らの身体を抱いて震えてしまう。
電車内もそうだったが、特にあの家……薪ストーブが暖かすぎた。寒暖差のお陰で更に寒さを加速させている気がする。
暖かかったからって油断せずに厚着してくればよかった。せめてカイロが欲しい。
まだ店まで10分は歩かなきゃならないよ……この付近に店もないし暖まる事もできない。もう明日の筋肉痛覚悟でダッシュするしか…………
「ま~す~た~…………やほっ!!」
「っ……! これは……遥か?」
突然の呼び声と背中からの衝撃に一瞬肺の中の空気が漏れ出たが、その声と動作には覚えがある。
見積もりを立ててその名を呼ぶと、肩から顔を出したその表情が「にへへ……」と楽しそうに笑みを見せつけてくる。
「アタリっ! マスターが外に出るなんて珍しいね?ついにダイエットで走り出した?」
背中にギュッと抱きついているのはさっきまで訪問していた家の娘、
長い髪をサイドで纏めた笑顔あふれる少女。彼女はその持ち前の明るさと人懐っこさで、外だというのにも関わらず甘えるよう耳元へ顔を押し付けてくる。
走るだなんて、今の格好でわかるでしょうに。店の制服では走りにくすぎる。
「ううん、ちょっと出掛けた帰り。 にしても寒いね……遥は寒くない?」
「アタシは着込んでるからそこそこだけど……マスターってば薄い上着一枚じゃん!そりゃ寒いよ~!」
チラリと見えた彼女は、真冬でも立派に働いてくれる厚手のチェスターコート。チラリと見える足元の隙間からはスカートが見え隠れし、下には制服を来ていることがわかる。
いいなぁコート。出不精すぎて天気予報すら見る癖が無くなった俺とは違って、ちゃんと寒さ対策万全だ。
「ほらみて。もう寒すぎて手がこんなに」
「ちべたっ!! も~!マスターったら冬を舐め過ぎだよ~!もう11月も終わってるんだからね~!」
それを言われちゃぐうの音も出ない。
俺が肩から出てくる顔に手を触れさせるとその冷たさに彼女は顔を震えさせる。
手の冷たさに驚いて背中から降りてくれるかと思ったがそうはいかず、すぐさま俺の冷たい手を取って彼女の温かい手が包み込んでいく。
ニギニギ、サワサワ、チョンチョンと。
俺の手を握ったり触ったりつついたり。冷たいだろうに好き勝手に触りながらも決して離す気配を見せない。
「やっぱりマスターの手おっきぃ~! えへへ……どぉ?ちょっとは暖かくなったぁ?」
「暖かいけど……遥が風邪引くぞ?」
「いいの~! アタシが風邪引いたらマスターに看病してもらうんだから! ほら、ギュー!!」
後ろから首に腕を回す形で抱きついてくる、大好きな彼女である遥。
耳元に触れる暖かな吐息と背中ごしにつたわる高い体温。そして彼女の胸部にある一際大きなその感触が、背中で圧迫されてコート越しではあるものの伝わってくる。
人通りも少ないがここは外。住宅街のど真ん中だ。そんなところでこんな状態だと人目を引くことは間違いない。
本来ならば無理矢理にでも引き剥がすのだろうが……
「まぁ、離れろって言ったところで聞くわけもないか。 ありがとう遥。寒くなくなってきたよ」
「そ~お? よかったぁ~」
どうせ言ったところで離れないのは、ここしばらくの経験からよく分かっている。ならば早々に諦めてしまったほうがいいというものだ。
俺としても恥ずかしい反面、甘えてくれる嬉しさに後ろ手で彼女の頭を撫でると、遥は目を細めながら気持ちよさそうに手へ頭を押し付けてくる。
あふれる大好きを体いっぱいで表現してくれる彼女。
でも、これだと歩けないんだよなぁ…………。
「でもこれじゃあマスターが歩けないね……」
心の声が聞こえたのか、彼女も気づいたように足元へ目を向けて来る。
今の状態といえば進行方向へ向かう俺に彼女が後ろから抱きついた状態。彼女を引きずる体制になってこれでは歩くことはできやしない。さて、どうするべきか……。
「そうだ! マスター、ちゃんと受け止めてねっ!」
「へ? 受け止めるって何を…………わっ!?」
そんな俺の疑問は、彼女の突然の行動によって解消された。
遥は掛け声とともに俺の肩へ力を込めると、同時にジャンプしたのかフワリと肩へ掛かっていた体重が消え去っていく。
その浮いた一瞬で何を考えているのか理解ができた。殆ど反射で両手を自らの腰回りに下ろすと、吸い込まれるように入ってくる彼女の健康的な脚。
柔らかな彼女の足を掴みつつ重心を整えると、さっきまで両肩に触れていた手が巻き付くように回って再度俺に抱きついてくる。
……そう。俗に言うおんぶだ。
おぶってもらう為に背中に飛び込んだ彼女は楽しそうにこちらに身体を預けながら、ピッと人差し指を立てて進行方向へ真っ直ぐ示す。
「マスター! このままお店までお願いっ!」
それは間違いなくおんぶのまま店まで行けという合図。
彼女と暖かさを分け合いながら帰る、唯一の方法。
「しょうがないな。 走っていくからバランス気をつけるようにっ!!」
「うん! ……ひゃ!」
動き出した振動で小さく悲鳴を上げるも、すぐに慣れたのか背後から楽しげな笑い声が聞こえてくる。
俺はさっきまでのため息なんてすっかり忘れ、そして筋肉痛への恐怖もどこかにいったまま遥を伴って店まで全力ダッシュするのであった。
「ちなみにマスター、これくらいの厚着だとどぉ? 背中に胸の感触伝わってる?」
「っ――――!! さ、さぁ……。全然わからないなぁ……」
「……ふぅ~ん……そうなんだぁ……。ふぅ~ん……」
聞こえてくるのは何やら含みのあるような笑い声。
…………気づかれてないよね?
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