三話 日常の終わり

 昨日のことは忘れよう。

 そうすればまた日常に戻れる。


 昨日のことは夢だったのだ。そうでなくては人の形の化け物に会うことも首を絞められる体験もするはずがない。夢は想像で妄想だ。要するに、自分がどこか心の奥でいつか人の皮を被った化け物に会って死を体験するとでも思っているのだろう。随分と馬鹿げた妄想だ。

 そんな簡単に死を選ぶことはない。



 ・・・・・



 司陰の部屋のデジタル時計は午前五時前を示している。彼の家は学校から遠くはないから徒歩通学で起きる時間もそれ相応に遅い。普段の彼なら二度寝するところだが不思議とその日は二度寝する気にはならなかった。


 彼は二階の寝室から出て一階のリビングに顔を出した。一昨日までいた父親と母親がいなくなっていることを失念していたため怪訝そうな顔をしたがすぐに思い出して平静に戻る。冷蔵庫に食べるものはなかったが横の棚に昨日買ってきたカップ麺があったので、朝からカップラーメンはちょっと、と思いつつもお湯を電気ポットで沸かし始める。


 カップラーメンの三分の間を待つために彼はテレビをつけた。内容は強盗、放火に内戦と朝から物騒なことばかりだがどれも頭には残らなかった。

 最も気になったのは最後のニュース――――司陰の家のある辺りが謎の爆発で吹き飛んだというものだった。


「……なんだこのニュース。テレビでデマ流していいのか」


 彼がそう思うのも無理はなかった。

 彼が今ニュースを見ている家はそのニュースでは跡形もなく消え去っていたのだから。


「……今日は早く出よう」






 登校中の司陰はどこからか視線を浴びているようで落ち着かなかった。さすがに自意識過剰だとして心の中で切り捨てたが、実際に彼に付きまとう人影があった。


「目標を捕捉。立ち入り禁止区域内より南方面に移動を開始。登校中と推測」

『了解。登校中は彼が不審な動きをするまで接触しないように』

「帰宅時に接触を試みますか?」

『いや、君と同じ学校の生徒だ。放課後に学校の先輩として接触しなさい』



 ・・・・・



 たいてい朝の学校の教室は騒がしい。


「おはよう」

「えっ……えっ!」


 司陰が教室に入って入口付近の友達に挨拶するとその友達はきれいな二度見を返してくれた。入学してすぐにふとしたことで気が合って仲良くなった友達だが顔を忘れるほど薄情な人間ではなかったはずだった。


「なんだよその反応」

「いやいや、昨日のニュース見ただろ。司陰、お前の家の近辺吹き飛んだってニュースで言ってたぞ。朝もそのニュースしてたし」

「別に何もなかったよ。もちろん俺も無事。間違いじゃないなら場所違いだろ」

「そうか? まあ、あの辺りに住んでる生徒お前ぐらいだから分からないな」


 司陰の学校はいわゆる進学校というもので通う生徒も地域がさまざまなため、さほど認識の食い違いを追及されることはなかった。ただ、どちらかというと司陰自身の中で疑問の気持ちが強くなっていった。


「なあ、もし俺が昨日死にかけたって言ったら信じるか?」

「あのニュースが本当ってことか?」

「いや……なんでもない。忘れてくれ」


 司陰は始業時間が近づいていることを気にするふりをして話を切り上げ自身の席に着いた。






「――――で、ここがこうなります。今日の授業はここまで。もうチャイムが鳴ってるので解散してください」


 少し長引いた四限目の授業から解放された生徒たちは一斉に騒ぎ始める。「今日の四限目の授業は――」や「学食に行こう」など普通の高校生の会話から「押山、昨日大丈夫か?」と今更な疑問を司陰に尋ねる者もいる。彼も朝にカップラーメンなんて食べてしまったものの思春期の高校生の腹は満たせず、早く学食に行きたいがために適当に答えた。

 司陰がむしろ気になったのは学友の注目でなく、先生たちの奇妙なものを見るかのような微妙な視線だった。そのくせ声掛けも呼びかけもされなかったことが燻る彼の不安を余計に煽っていた。




 司陰が友人たちと楽しく昼食を摂り終えてから教室へ向かう途中のことだった。


「押山くん、ちょっといいかな」

「えっ、はい、なんでしょう」


 司陰は背後から突然呼び止められて足を止めて振り向いた。司陰を呼び止めた女子は身長が司陰と同じほどで彼より多少大人びていた。彼女は長い髪を後ろで結んでいて、その間から覗く顔に司陰は見覚えがなかった。つまり新入生である司陰の同学年ではないことは確かだった。

 友人たちはその人を司陰の知り合いと勝手に判断して先に教室へ行ってしまった。が、司陰にはまだ高校に付き合いのある先輩はいなかった。


「突然で悪いけど、君に少し聞きたいことがあって。放課後に三階の○○教室に来てくれる?」

「いいですが……あの――」

「じゃあ、また放課後に」


 彼女は名前も告げず、長い髪を翻して去っていった。

 用件だけ伝えて去るのは親しい仲ならともかく随分と礼を欠いていた。司陰には無視するという選択肢もあり、また人違いとしてもよかった。

 だが、司陰には昨日のことがある。

 彼は今日このタイミングで突然話しかけてくる人間が昨日のことと無関係とは思えなかった。




 司陰があれこれ考えているうちに放課後はすぐに訪れた。

 周りの同級生の声はいつも騒がしいが、今日はまして先生たちまでもせわしなく動いている。帰り際に先生が教室の前で告げた。


「みなさん、今日は急いで帰ってください。部活も含め放課後の活動はすべて中止です」


 当然不満の声も上がったが、そもそも新入生なのでみんなまだ部活に所属していない。学校側で何かあったのか、そうみな勘ぐったが質問する時間すら取らずに帰らされそうになった。


 司陰も友達と帰ろうとするが、教室を出た時点であの一方的な約束を思い出した。彼はしばらく悩んだ後に決心した。


「おい司陰、どこ行くんだ?」

「ちょっとトイレに行ってくるよ。先に帰ってて」


 友達に先に行ってもらったところで彼は靴箱に向かう皆と逆へ歩いた。


 先生たちはよほど慌てていたのか、その後トイレの中が確認されることはなかった。



 ・・・・・



「…………いないか」


 司陰が指定された教室へ入った時、部屋の中には誰もいなかった。だが、周りの他の教室は施錠されており、彼女がおそらくこの教室へ来るだろうと彼は待つことを決めた。


 学校はすっかり静まり返っていた。人の気配はどこからも感じられない。

 司陰は荷物を降ろして待っていたが彼女から何の連絡もないことに我慢できなくなり、荷物を印として残して教室を出た。


 廊下は吹き抜けのため常に風が吹きさして不評だが、この日はいっそ不気味なほどに風がない。右も左も見渡しても誰もいない。まるで非日常に紛れ込んだかのようだ、と司陰は思い、やはり昨日のことが頭に浮かんで離れない。


 その時だった、彼の視界に突如キラキラとガラスのように輝く何かが現れた。それは彼から数メートル離れたところに居り、目は見受けられないがまるで司陰を見つめるようにそこにいた。

 それは司陰が見たときは液状だった。正確には少し粘性がありホウ砂と洗濯糊で作られるごく普通のスライムのような見た目をしていた。


「……っ!」


 そのスライムもどきは重力に引かれるようではなく、確かに彼のほうへ少し移動した。子供にとってスライムはただのおもちゃだが、今彼にとって不気味なものすべてが恐怖の対象だった。


 襲ってくるかは分からないがただ待つよりは、と司陰が逆方向へ走り出そうとした時、彼の足に鋭い痛みが走った。一瞬筋肉が引きつって、おあっ!、と間抜けな声を上げて彼は廊下にすっ転んだ。司陰は顔を上げた自分の足を確認するが服の上からは何も異変は見受けられない。だが、彼の足は彼の思うように動くことはなく、彼は立つことができなくなった。

 そのスライムもどきはその間も司陰へと前進している。


「来るな……!」


 司陰は顔をスライムもどきへ向けたまま尻を引きずって後ろへ下がっていく。スライムもどきはそれより速い速度で彼へ迫る。


「くそっ……! なんでこんな目に遭うんだ!?」


 司陰は誰にともなく恨み言を口にするが何も解決しない。

 彼の目には涙さえにじんでいるがそのスライムもどきは前進を止めない。動かなくなった彼の足は動く力を取り戻さないし、スライムもどきの頭上のコンクリートが崩れ落ちてくることもない。


 世界は彼に容赦しない。




「ねぇ」

「!?」


 司陰の背後から突然手が伸びてきて彼の視界を塞いだ。

 足が動かないこととスライムもどきが迫っていること、細く冷たい指が彼の視界を奪っていることが彼の正常な思考力を完全に奪っていた。


「助けてほしい?」

「………………」


 もはや言葉すら出なくなって彼はただ上下に首を振る。


「すぐに死ぬとしても?」

「……」

「毎日こんなのに襲われても生きていく自信がある? どう?」

「ぁ……」


 人外と戦い続けること。それはこの場で死ぬことより辛いだろうか。

 死に逃げるのも一つの最善策なのではないか。

 でも、もし死ぬ思いをし続けてでも生きられるなら。


 司陰に死を選ぶ度胸はなかった。

 それでも自身の頭で考え、その先を想像して決めた。


「どうするの?」

「俺は――――」






「――分かった。よく見ていなさい」


 司陰の顔から手が離れるとまず目に入ったのは体積が増え、かつ先ほどのスライムのような見た目が嘘だったように思えるほど硬そうに結晶化したなにかだった。ただし、体の正面には刃が黒く艶消しされたナイフが一本刺さり、透明な体にコントラストを生んでいる。

 本質さえ知らなければ宝石と言われても納得しそうなほど美しい結晶だった。


 そして、それ以上に司陰を驚かせたのは彼の顔の左でその結晶に向けられた鈍く輝いて見るもの触れるものに熱を抱かせる濃い朱色の短剣だった。


「ナイフがもったいないし、あんまり壊すと愚痴られるから嫌だけど折角だからこのままやるよ」


 彼女はそう言って黙った。集中し始めたのか辺りを張り詰めた空気が覆う。


「――いくよ」


 短剣の切っ先が少し上がり、勢いよく振り下ろされた。




 瞬間、超新星のように爆発的に広がった光が辺りを白く塗りつぶし、光が拡散した後。


 スライムもどき改め結晶の居た廊下は跡形もなく蒸発し、残されたのは無機物を融解させる熱のみだった。

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