二話 変わる現実
想像力が豊かな人間はそうでない人間と脳内で見える世界が違う。知覚するものさえもあるいは。
だから、知覚の元にある現実そのものが違っても不思議ではない。
・・・・・
曇り空の下を慣れない足取りの高校生が歩いていた。
その高校生の名前は押山(おしやま)司陰(しいん)という。
ピシッと張った制服はあまり使い込まれていないことを主張するが、曇天の下では周りの薄暗さに紛れている。
冬の寒さが和らぎ春が近づいてきたその日、天気予報では快晴だったが正午を過ぎるとあっという間に空を雲が覆ってしまった。空に蓋をした雲にも所々切れ目があるが、風に押された雲がすぐに埋めてしまう。
それにしてもその高校生の足取りは重く、それは新入生が感じる不安から来るものではないのが明らかなほどだった。
その高校生が足を突然止めた。
呆然と見つめる先にあるのは引っ越し業者のマスコットキャラクターが描かれたトラックだった。
その高校生はしばらく硬直したのち、往来の真ん中であるにも関わらず、堪えていたものが噴出するように叫んだ。
「あの馬鹿親父、本当に引っ越した!!!」
叫び声は付近の住民と引っ越し業者を驚かせたが、肝心の馬鹿親父なるものには届かなかった。
引っ越し業者は荷物を既に積み終えていたのかすぐに行ってしまい、残されたのは彼と荷物の減った彼の家だけだった。
「エアコン、テレビ、冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機、必要なものはあるのか。……まあ肝心なものがないが」
彼は昨日の会話を追想した。
「は? 引っ越す?」
「そうだ。もちろんお前は家に残っていい」
「いや……その……ご飯とかはどうすれば……」
「頑張って作れ! お前ももう高校生だからな!」
「え、本当に引っ越すの? 酔ってる?」
「酒は一滴も飲んでないからな。ちなみに明日の昼には引っ越し終わってるはずだ」
「……もういいや、明日の朝に続きを聞くよ」
そして朝、二度寝して聞く機会を失って今日に至る。
「そうか……本当にするか……。冷蔵庫ほぼ空っぽだし」
十数年、この歳になっても彼は、両親が普通の人間じゃないのではないかという思いが拭いきれない。
彼の父の仕事は一日に十か国以上飛び回る仕事だそうだ。だが、家には毎日早く帰ってくる。どう考えても辻褄が合わない。
彼の母の仕事に至っては何も教えてくれない。怪しいどころの話ではない。もはやどこかのスパイをしていても驚かない。だが、きちんと父と同じぐらいの時間には帰ってくる。
要するに両親ともども変なのだ。
だからいきなり引っ越したところで驚かない。
「……カップ麺でもまとめ買いしよう」
学生が毎日食事を作るのは大変だと思っただけなはずだ。
決して、動揺したわけではない、彼はそう信じて家を出た。
「うん? 今なにか爆発音が……」
結果から言うと彼が家に帰るのはすっかり空が暗くなった頃だった。
彼は徒歩で買い物に向かったが、その日に限って道路が工事、通行止め、挙句の果てには近所のスーパーマーケットが臨時休業とほとほと運がついていなかった。
おまけに帰り道はなおさら時間を取られた。
それが良くも悪くも彼の運命を左右することになる
「…………なにこれ」
彼の家だった場所にあったのは大きなクレーターだった。
周辺の何軒も巻き込んで大きな爆発でも起こったようで、クレーター内部には家の瓦礫が散乱している。千切れた水道管から漏れたのか底には水が溜まっている。
彼の家はガスを使っていないし、それはほかの家も同様だったはずだったので、クレーターの原因は隕石ぐらいしか考えられなかった。
「とりあえず通報を……圏外か……圏外?」
彼の家は海の孤島にも陸の孤島にもない。だから携帯電話が使えない道理はない、はずだった。だが現状彼の携帯電話、スマートフォンはその機能の一部を失っている。
「……なんだこれ、緊急エリアメール?」
彼がスマートフォン上のメールのマークに触れるとそれはすぐに開かれた。内容は彼の家を含む半径300メートルの地域への避難命令と立ち入り禁止の通達。どうやら近所で大きなガス漏れがあったそうだ。ガスがどこから漏れたかはどこにも記述がない。
メールの受信は1時間前。
ともかく彼はメールに気づかずに立ち入り禁止区域に進入してしまっていた。
「……まずい」
彼は気が動転していた。
自分の家がクレーターになった上に自身に命の危険があると知ったためだが、それでも彼にはある程度の冷静さが残っていた。もっとも、この状況を自身の力で打開しようという考えはある意味では無謀ともとれるのだが。
彼はその冷静さゆえに目に映ったものに足を止められた。
「人?」
爆発の衝撃で吹き飛んだのであろう瓦屋根が彼の右斜め前方の人らしきものを押し潰していた。しかも、下敷きになったそれはまだ動いている。
彼のその時の冷静さではそれは助けるべき人に見えた。
だが、平時の人間であれば、血も流さず声一つ上げない冷たい肌のそれを人間だとは思わなかっただろう。それがまだ動いているならなおさら。
「大丈夫ですか? 生きてるなら返事してください」
下敷きのそれは善意の声掛けにもほとんど反応を示さなかった。正確には、彼にはそう見えただけで少し動いていたが。
生憎彼は相手が助かるかどうか分からなくても見捨てることはできなかった。人間としては当たり前だが、それもまた無謀さが動かすものであり、現状を把握できていない証だった。
彼が近づいたとき、そいつはいきなり足に力をこめると瓦礫を押し崩しながら立ち上がった。
見た目は三十代ほどの女性だが、目に生気はなく動きもぎこちない。まるで何か体の重要な機能が失われたようだった。そして実際、その右腕はなかった。
「なんなんだあの化け物!」
化け物が瓦礫の下から出てきたから逃げたはいいものの、その化け物は逃げる司陰へ今にも捕まえて殺さんとばかりに追いかけてきた。彼の足は決して速くはないが負傷者にすら負けるほど遅くはない。全力で走っても両者の間が広がらずむしろ差が埋まってきているという事実が彼から徐々に冷静さを奪っていった。
気づけば彼の周囲の景色は普通の住宅街のそれになっていた。逃げる間にあの破壊の跡を抜け出したようだ。それなのにいつまで経っても人の気配を感じない。
気配はないが、人の痕跡は見つかった。蹴られて転がったのか、ひび割れ土が零れた植木鉢が道端に転がっていた。彼はそれを掴んで、追ってくる化け物に投げつけた。
顔面にもろに植木鉢の破片を受けた化け物は態勢を崩して派手に全身を地面に打ちつけた。
「今のうちに!」
相手の生死を確かめるより逃げることを選択した彼は角を曲がり、道を直進し、路地裏で息を潜めた。追いすがる化け物から十分離れた場所。見つかる可能性は考えられなかった。
安心した彼を襲ったのは背後から現れた手だった。
「あがぁぁ、助け……」
その手は透き通った水色をしており掴めども掴めず、だが万力のように彼の首を絞め上げた。
とうとうパニック状態に陥った彼は首を絞める手を引き剝がそうともがくが結果は自分の肌を引っ掻いただけだった。手との接触面からは何か大事なものが吸われるのが分かったがどうにもできなかった。
(死ぬ……)
気づけば彼の目の前には女性の姿の化け物が佇んでいた。表情は無い、けれど彼にはあたかも消えようとする命を嘲笑うように見えた。体温が急降下するように感じられた。
その時だった、彼の中で何かが芽生えた。まるで今まで眠っていたかのような、死の間際で目覚めたような、死の強烈な感覚がもたらしたような、言わば覚醒だった。
特段力が上がったわけではなく現在彼の首を絞める無色の手を引き剥がすには至らない。
だが透き通った手が霞んだかと思うとそのまま空気に溶けるように消え去った。
「何が……」
何が起きたのか。それは彼にも目の前の化け物にも分からなかったが、化け物は事実その理解不能な出来事に硬直し、彼は拘束するものがなくなって地面に崩れ落ちた。
その硬直も束の間、次の瞬間には立ち尽くしていた化け物は空から降ってきた拳によって地面に沈められた。断末魔はない。やがてその体から激しく軋む音がして全身が引きつったかと思うとぐったりと地面に伏せた。
とどめを刺した男は明らかに弱っていた彼に声をかけた。
「おい。大丈夫か君?」
目の前の焦げたマントを背負う男は彼へ安否を問うた。どう見ても大丈夫には見えないが、これは安否ではなく素質を確かめる質問だった。
「はい、大丈夫です」
「そうか? まあ、今はケガしてても分からんだろうから今すぐ病院に連れて行ってやろう」
「いえ、本当に大丈夫です」
たいていの怪我人はよほど重傷を負っていないと自分の怪我に気づかない。それを心配されているのは彼には分かっていたが頑なに断った。
「ちっ、めんどくせえなぁ。無理矢理にでもついてきて……あれ? どこに行きやがった?」
振り返った男の視界には足元の死体以外に人がいる様子はなかった。
男は自らの不手際を悟って舌打ちし、また、その奇妙な現象の原因を探った。
「やっぱり魔装使いの素質があったか。この短い時間でこうも使いこなすとはな……いや、違うか。死に際でちょっとばかし冴えてるといったところか。がっつり目撃されたし当事者だから逃すわけにもいかないな」
男は情報端末を取り出して開いた。圏外表示にはなっていない。
部下の二人への連絡と支部への応援要請を手短に送ると本部へも連絡する。
内容は目撃者の確保だった。
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