「胡」匈奴(3)

 前回は後漢ごかん光武帝こうぶていによる中華統一をきっかけにして、匈奴きょうどが南北に分裂するまでを解説しました。


 後漢ごかんに従属した南匈奴みなみきょうどが「塞内さいない」(万里の長城の「内側」、中華王朝の国内)で暮らし北方騎馬民族としての特徴を失っていく一方、分裂した北匈奴きたきょうどは……というのが今回の話です。


 ひとことで言ってしまうと、北匈奴きたきょうどは北方騎馬民族の性質を維持しました。


 北方騎馬民族の性質とは、交易と掠奪です。


 北匈奴きたきょうど後漢ごかんとの交易を求め、後漢ごかんもこれを了承します。


 後漢ごかん匈奴きょうどの国境では、北匈奴きたきょうど後漢ごかんが交易するための合市が各地にもうけられました。後漢ごかん北匈奴きたきょうどがもたらす交易品を手に入れるため、来訪した北匈奴きたきょうどをもてなす官邸も設置するなど、交易を積極的に進めます。


 こうして平和に交易しながらも、非平和的な交易、つまり掠奪をおこなうのが北方騎馬民族、遊牧民の特徴です。


 北匈奴きたきょうどは西暦六二年と六五年に大きな掠奪をおこなっています。


 こうして以前と変わらない強さを誇っているかに見えた北匈奴きたきょうどですが、時代はすでに匈奴きょうどのものではありませんでした。


 このころ北匈奴きたきょうどの勢力圏で中核地域にあたるモンゴル平原に、より東方から新しい遊牧民が進出します。この遊牧民の名前を鮮卑せんぴといいます。


 鮮卑せんぴは各地で北匈奴きたきょうどを破り、北匈奴きたきょうどをだんだんとモンゴル平原から追い出していきます。また東方の鮮卑せんぴだけでなく北方の丁零ていれい匈奴きょうどを侵略しました。


 こうしてモンゴル平原から追い出されてしまった北匈奴きたきょうどは、新たな土地を求め遠くへ移動を始めます。


 北匈奴きたきょうどの一部は南匈奴みなみきょうどに合流しましたが、遠方の移動に耐えられた人々はより西へ、「西域さいいき」へ移動しました。


西域さいいき」とは中華王朝の西方地域を指す言葉です。かつて中央アジア全域を横断し、ローマ帝国から中華王朝までをつないだシルクロードの東の端にあたります。


 西域さいいきはさまざまな文化と民族が交流し衝突する重要地点です。ここに勢力を維持すること(歴史学の用語では「西域さいいき経営」といいます)はハイリスクハイリターンであり、歴代の中華王朝の悩みの種でした。


 鮮卑せんぴ丁零ていれいによってモンゴル高原から追い出され、西への移動をよぎなくされた北匈奴きたきょうどが攻撃を加えたのが、この西域さいいきでした。


 この時代の中華王朝・後漢ごかん西域さいいき経営のため、竇固とうこ班彪はんひょう班超はんちょう親子といった将軍を西域さいいきへ派遣します。


 後漢ごかんの将軍たちは匈奴きょうどよりもさきに西域さいいきの人々と彼らが住む重要地点(車師しゃし于寘うてん鄯善ぜんぜん鄯善ぜんぜん楼蘭ろうらんとも呼ばれます)を制圧することに成功しました。


 このころのできごとを描いた小説に、井上靖の『異域の人』があります。


 主人公の班超はんちょうは七三年に北匈奴きたきょうどが支配していた鄯善ぜんぜんへ遠征し、わずか三十六名で攻略した、という伝説的なできごとを題材にしています。


 ちなみにこの後漢ごかんの将軍たちのひとりである班超はんちょうの兄は、前漢ぜんかんの歴史書『漢書かんじょ』をあらわした班固はんこです。直接このトピックスとは関係ありませんが、班固はんこは中国史上の重要人物なのでついでに覚えてくださるとうれしいです。


 閑話休題。話を北匈奴きたきょうどにもどします。


 北匈奴きたきょうど鮮卑せんぴ後漢ごかん、そして後漢ごかんと結んだ南匈奴みなみきょうどによって度重なる攻撃をうけました。


 そして九一年、北匈奴きたきょうどはついに完全にモンゴル平原から去ります。


 このとき北匈奴きたきょうどはひとりの単于ぜんう匈奴きょうどの王)によって支配される国としての体裁も失い、諸部族にわかれバラバラになりました。


 モンゴル平原から完全に追放されたもと北匈奴きたきょうどの人々は、ますます西域さいいきへ活路をもとめるようになります。


 特に北匈奴きたきょうどの貴族階級である呼衍こえん氏とその王である呼衍こえん王は、西域さいいき諸国と西方遊牧民である烏孫うそんを従属させ、後漢ごかんと対峙しました。


 呼衍こえん王は現在の中国国内の新疆しんきょうウイグル自治区にあるバルクル・ノール(中国語名は蒲類といいます)から黒海にいたるカザフスタン一帯までを支配しました。


 この呼衍こえん王が、五〇〇年にわたって中華王朝の歴史書に記されつづけた北方騎馬民族としての匈奴きょうどの、最後の一人になりました。


 呼衍こえん王についての最後の記述は一五一年のものです。そのあとの呼衍こえん王、つまり北匈奴きたきょうどの人々がどうなったかは、ほとんど何もわかりません。


 一五一年以降の記録をさがすと一六六年の項目に、北匈奴きたきょうどについて触れられているものを発見できます。


 それによると、鮮卑せんぴの最大勢力をきずいた檀石槐だんせきかいによってかつての北匈奴きたきょうど鮮卑せんぴに吸収されたこと、鮮卑せんぴに従わなかった北匈奴きたきょうどの人々は西域さいいきのさらに西へ移ったらしいことがわかります。


 この記述を最後に、北匈奴きたきょうどについての記述は完全にとだえます。


 歴史書という記録から消えてしまった歴史、忽然と歴史から消えてしまった人々や文明をさぐるのは、常に危険で抗いがたい魅力に満ちた行為です。


 北匈奴きたきょうども中国の歴史書から消えてしまったことで、この危険な魅力をおびるようになりました。


 そして北匈奴きたきょうどのその後について学説を提唱したのが、一八世紀フランスの歴史学者ド・ギュニーです。次回はその話をしたいと思います。

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