もう少し詳しい略史

しんは三国時代のに仕えた司馬懿しばいに始まる。司馬懿しばいは幼いの三代皇帝・曹芳そうほう(位二三九~二五四)の治世にクーデターを起こし実権を掌握しょうあくする(二四九年)。


司馬懿しばいの長男・司馬師しばし、次男・司馬昭しばしょうによるしょくの滅亡(二六三年)を経て、司馬昭しばしょうの子である司馬炎しばえんが皇帝に即位(しん武帝ぶてい)、しん西晋せいしん)が建国された(二六六年)。


しんを滅ぼし、後漢ごかん以来約一〇〇年ぶりに中華を統一する(二八〇年)。


司馬炎しばえんの息子である司馬衷しばちゅうが二代皇帝に即位(二九〇年、西晋せいしん恵帝けいてい)すると、外戚がいせき・皇族間の内紛である八王はちおうらん(二九一~三〇六)が起こる。


皇后の賈南風かなんぷうは権力を握るため、司馬炎しばえんから後事を託されていた皇太后の一族や王を処刑。賈南風かなんぷうとその甥である賈謐かひつが実権を握るようになる(二九一~三〇〇)。


賈南風かなんぷうは皇太子が実子ではなかったことから謀略によって皇太子を廃位し殺害。趙王ちょうおう司馬倫しばりん賈南風かなんぷうらの排除を大義名分にクーデターを起こし賈南風かなんぷうらを殺害する(三〇〇年)。


ここから八王はちおうらんが本格化し、皇族である諸王の間で謀略と戦乱がくり返される。八王の乱は最終的に新帝・司馬熾しばし西晋せいしん懐帝かいてい)をよう東海王とうかいおう司馬越しばえつを勝者として終結した(三〇七年)。


しかし八王はちおうらんと並行して非漢民族の反乱である永嘉えいからん(三〇四~三一六)が発生しており、しんに従わない多くの非漢民族勢力が蜂起ほうき、都市などを攻撃し時には占拠していた。


なかでも匈奴きょうど劉淵りゅうえんが建国を宣言した(三〇四年)かんは、しんの都・洛陽らくようへ攻め寄せた。しん并州刺史へいしゅうしし劉琨りゅうこん東海王とうかいおう司馬越しばえつらでかん挟撃きょうげきし撃退に成功する。


だが東海王とうかいおう司馬越しばえつが皇帝・司馬熾しばしとの決裂から憤死ふんしすると晋の防衛ラインは瓦解がかい洛陽らくようかんの攻撃で陥落し、皇帝・司馬熾しばし拉致らちされる(三一一年)。


しんは都を長安ちょうあんに移し、司馬熾しばしの甥である司馬鄴しばぎょうを皇帝とし(西晋せいしん愍帝びんてい)、抗戦を続けるも、長安ちょうあん洛陽らくようと同じくかんによって陥落(三一六年)。皇帝・司馬鄴しばぎょうも漢に拉致らちされる。


并州刺史へいしゅうしし劉琨りゅうこんかんの攻勢を受け并州へいしゅうから撤退した後も抗戦を続けたが、殺害される(三一八年)。


しん江南こうなん長江ちょうこうより南の地域)に逃れた琅邪王ろうやおう司馬睿しばえいが皇帝に即位する(東晋とうしん元帝げんてい)ことで存続した(三一七年、東晋とうしんの成立)。


華北かほく黄河こうがの中流・下流域を中心とした地域)ではかん劉聡りゅうそうが没すると、劉聡りゅうそうの親族であった劉曜りゅうよう前趙ぜんちょうかんの有力な配下であった石勒せきろく後趙こうちょうとに分裂。諸勢力が興亡をくり返すことになる(五胡十六国時代ごこじゅうろっこくじだい、三〇四~四三九)。

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