左思

 話の着想は『晋書しんじょ左思さしでんより。


「門庭藩溷皆著筆紙,遇得一句,即便疏之」

「家の前から庭先、まがき、廁所に至るまで、どの場所にもすべて筆と紙とを備えておき、たまたま一句を思いつくと、すぐさまその一々を書きつけた」

(訳は興善宏こうぜんひろし編『六朝詩人傳りくちょうしじんでん』左思より)。


 こうして十年かかって書き上げられ、左思さしを一躍時の人とした作品が「三都さんと」です。


 とは文学の一ジャンルを指します。


 中国最古の文学作品であり儒教じゅきょうの経典・五経ごきょうのひとつである『詩経しきょう』にについての記述が見られ、もともとは「ものごとをありのままに描写する表現法」のことでした(引用は伊藤正文いとうまさふみ一海知義いちかいともよし訳『かん六朝りくちょうとうそう散文選』より)。


 その後、前漢ぜんかん武帝ぶていの宮廷にの名手であった司馬相如しばしょうじょなどが招かれたことで宮廷文学の中枢を占めるようになります。


 前漢ぜんかん揚雄ようゆう後漢ごかん班固はんこ張衡ちょうこうといった錚々そうそうたる文人によっての傑作が書かれ続けた結果、詩よりもさらに一段高級な、「一流文学者の文学才能を誇示する文学様式」(引用は中島千秋『新釈かん文大系79 文選もんぜん篇)上』より)という地位を確立させました。


 の作成には文学上の修辞技術、かん字そのものや古典への深い造詣ぞうけい、さらには長編であることもあって長い制作期間を必要としました。左思さしが挑戦したとは文学の王道ともいうべき最難関ジャンルだったのです。


 左思さしの「三都さんと」は張華ちょうか陸機りくきといった当時一級の文学者によって激賞され、後世でも名作として、左思さしの時代から二〇〇年あまり後の南朝なんちょうりょう昭明太子しょうめいたいし蕭統しょうとうが編纂させた『文選もんぜん』にも班固はんこ張衡ちょうこうに続いて三番目に収録されています。


 しかし、それでも発表当初は(作者の左思さしが家柄も低く無名であったため)重んじられなかった、というのはなんとも世知辛い話です。(『晋書しんじょ左思さし伝、『世説新語せせつしんご文学篇ぶんがくへん六八)




 左思さしは家柄が低いという、家柄で出世できるかどうかが決まる当時の貴族社会のなかで致命的なハンデを負っていましたが、加えて見た目が悪い、吃音きつおんであるという三重苦の持ち主でもありました。


 それもあってか、同時代人の文人であり、さらにとてつもないイケメンとして有名だった潘岳はんがくの真似をして痛い目にあった、という話が『世説新語せせつしんご』に見えます(容止篇ようしへん七)。


 それによれば、潘岳はんがくは若い頃弾弓だんきゅう(矢の代わりに弾を射出する弓、いわゆるパチンコ)を携えて洛陽らくようをぶらつくと、女たちはみな手をつないで潘岳はんがくを取り巻いた。左思さし潘岳はんがくを真似して洛陽らくようをぶらついたが、おばさんたちに唾をはきかけられたので逃げ帰った、とのこと。『世説新語せせつしんご』が著されたのは左思さしの時代から約一五〇年後の南朝なんちょうそう劉義慶りゅうぎけいの時代ですが、左思さし存命の当時からこういった話は出回っていたのだろうなと思います。


 ちなみにこの話は『晋書しんじょ潘岳伝はんがくでんにも収められていますが、潘岳はんがくは取り囲まれるだけではなく果物を投げつけられ(『詩経しきょう』にも出てくる求婚方法です)、別に潘岳はんがくを真似したわけではないのですが醜男ぶおとこだったがために外出するたびに子どもに石を投げつけられたのは張載ちょうさいと、左思さしとは別人になっています。


 さらに引かれている『語林ごりん』では張載ちょうさい張協ちょうきょうになりとブレブレなのですが、潘岳はんがくがイケメンであるという点だけは『世説新語せせつしんご』でも『しん書』でも一貫しているのが面白いです。

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