34.5話  そしてふたりは

 自分が主役と言われて、感じるのはどうしてもこそばゆさだ。


 いつもふたりで暮らす広すぎる部屋が、はじめて狭いと感じられていた。

 賑やかな部屋はどうにもやりにくかった。皆は思い思いに歓談しながら、美優に祝辞を述べた。

 その対応に忙しく追われながら、美優は、探すべき人が見当たらないことに気が付いた。


 ベランダにふたつ並んだデッキチェアの片方に、その人の後ろ姿をようやく美優は見つけた。

 そちらに行くべきか、迷ったのはほんの一瞬。

 たまには、自分からノックしていくことも大事だろう。

 美優は、賑わいに紛れて音が聞こえないよう、そっとベランダへのガラス戸を開く。


 のぞみは振り返らなかった。この子のことなので、気づいていないフリかもしれない。

 美優は、ゆっくり背後から近づいて、のぞみの隣りのチェアに、腰を下ろした。


「ひさしぶり」


 隣りに並んで、そう声を掛ける。


「ひさしぶり」


 のぞみの声がそう応じて、


「おめでとう」


 続けてそう伝えた。

 何年か経っていても、変わることのない声だった。


「ありがとう」


 自ずと出た礼は、先ほどから何度も繰り返していたはずなのに、ちょっとひと味違って感じられた。


「元気してた?」


 なんと切り出せば良いかわからなくて、そんな通り一遍の挨拶から美優は始める。


「元気すぎるくらいかな」


 まだ目も合わせられないけれど、無理に明るく振る舞う様子は、昔のままだった。


「美優ちゃんも、変わりないみたいだね?」


 そう言うと、ようやく困ったような笑みを振り向ける。


「相変わらずの、文学少女様だよ」


「でも、本物の文学者になっちゃったよね」


 確かに、もう文学"少女"ではないのかもしれなかった。


「なっちゃったねえ」


 実感のない呟きになったのは、正直途方に暮れているところが大きいからだ。


「また、遠くに行っちゃったなあ……」


 のぞみはあの頃を彷彿とさせるようで、しかしそこに触れられるのは、もうさほど気に病んでいないからでもある。


「それでも今は、隣にいるでしょ?」


「だね。ここまで遠回りしちゃうと思わなかったけどなあ」


 束の間、沈黙が降りた。置いてきてしまった時間を消化するために、そのくらいの沈黙は必要だった。


「でも、全部そのお陰なのかも」


「私の青春が狂っちゃったのも?」


「狂っちゃったんだね?」


「そりゃあもう、ねえ?」


 ふたり揃って笑ってしまう。どうやらこの少女の物語も、波乱に満ちあふれていたものらしい。


「私はずっとひとりだったからな。それで済んだのは幸運だったのかも」


「私の場合、墓穴を掘ってただけだからなあ」


「それはそれで、愉しそうだけど?」


「も~~~、他人事だと思ってさあ~~~」


 不思議だった。小学生の頃とは距離感も力関係も違っていた。

 美憂はふと、かの文学少年と話しているときとよく似た自分を感じていた。

 ひとりで何も変わらずに来てしまったようでいて、美憂もあの頃とは変わっていたようだ。

 なぜだかそのことに、ほっとしてしまうのだった。


「美憂ちゃんはすっかりクールになっちゃったね。私はもう空回りばっかりで……」


「でも、そうやって空回りばっかしてる奴、ほかにもいるでしょ?」


 誰のことかと、言うまでもなかった。


「彼ね~。彼のおかげで、色々あったなあ……」


 感慨深そうな様子は、ただ単に思い起こすことが多いというわけではなさそうだった。


「あなたとまた会えたのも、彼の空回りのお導き、だからね」


「美憂ちゃんはさ、感謝、してる?」


 たずねたのぞみの声は、なぜか、湿っぽかった。


「感謝してるよ。それ以上の何かじゃ、ないよ」


 美憂はそう言ったとき、自分の中の何かを裏切ったような感覚は、否めなかった。

 のぞみもそのことは勘付いているようだった。けれども、美憂は自身で、それで良いと思っていた。


 踏み込んでいった先でまたこじれてしまうくらいなら、平和に丸く収まるほうがずっと良かった。

 己を偽るというのではない。想いを押し留めるというのではない。自分にとって、今目の前にある穏やかさが、決してひとりではない賑やかさが、愛おしいというだけ。

 それを一番に、守りたいと思うのだ。


「私は、自分がずるいんじゃないかって、思うときはあってさ……」


 のぞみはかすれがちな声で語りはじめる。


「私は、努力して何か手に入れたわけじゃない。大切な人をなくしたわけでもない。私の場合は、全部が自業自得で。それなのに、私は自分が救われたいだなんて思ってしまって。それは、とてもおこがましいことで。とても情けないことで……」


 言葉には出さないが、美憂にはわかっていた。この子は、己と美憂とを比べて、気後れを感じているのだ。


 美憂はため息をつく。まったく、この子は困ったものだ。


「心配しなくても、あなたがずるいなんて思うこと、私はちっとも羨ましいだなんて思わないよ?」


 そう言われて、のぞみはまるで叱られたように、背筋がピンと伸びる。


「そんなこと願うのは、のぞみちゃんがのぞみちゃんだからだよ」


「それってさ……」


 のぞみは顔が真っ赤になっていた。


「私が情けない奴だから、願うことの次元も低いって、言ってない……?」


「さあ? あなたがそう思うなら、そうなのでしょう」


 のぞみはすっかりやられてしまって、「うう……」と低く唸っている。


 なるほど、どうやら自分は、こうやって人を組み敷いてしまうのが、心地良いようだ。

 美憂は、そんな性悪な己に気付きながら、くすくすとほくそ笑んでいた。


「でも、それじゃあさ――」


 のぞみは気を取り直して、


「昔のことは、もうチャラでいいよね?」


「そうだね」


 美憂もまた、清々しく答える。


「彼の願い、受け入れてあげようと思う」


 そう言うと、上目遣いにのぞみを覗き込む。


「あの日、見せられなかった私の物語――」


 その先は、あえて言わなかった。


「……いいの?」


 のぞみも、恐る恐るたずねる。

 美憂は黙ってこくりとうなずいた。


「そっか……」


 ふうっと吐息して、のぞみはずいぶん安心した様子だった。


「実はね」と言葉を足して、

「彼がさ、別の物語も書いてくれてて」


「のぞみちゃんの、青春の物語?」


「そう。恥ずかしいったらないんだけどさ」


「本当はその物語、私との約束を果たすためのものだったのにねえ?」


「ごめん、とっちゃった」


 ぺろっと舌を出したのぞみは、悪びれた様子もない。


「いいなあ。私の物語と、彼の物語と」


「なんだか急に、ツキが回ってきちゃったなあ」


「そのくらいに、今までのぞみちゃんも、大変だったってことでは?」


「どこかで、デッカイしっぺ返し、来そうな気もするけど」


「そのときはまた、思いっきり走るだけでしょ?」


「だね。泣きべそかきながら、突っ走るだけだよ」


 そう言うと、のぞみはにかっと、大きく笑った。


 ふたりはまだまだ話すことが多かった。美憂が中学校時代をどう過ごしていたのか。のぞみがどんな青春を過ごしてきたのか。

 この先に控える「仲直り」を惜しむように、ふたりは心地良く語り合い、笑い合った。

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