28.5話 そのころふたりは
美優は思い悩んでいた。
原因は、あの文学少年である。
自分だけの秘密の場所で待ち伏せなどされて、とっさに殴ってしまった。
けれども後から、ものすごく恥ずかしくなってしまったのだ。
そもそもあそこは公園であって美優の私有地などではない。彼があそこを知ったのだって、母の美晴が教えたからに違いない。家まで尾けられたとしても、それを受け入れたのもきっと母だ。怒るにせよ、タイミングがあそこであるべきだったかは疑問だ。
何より、あんな感情的な姿、また人に見せてしまうなんて……。
そんなわけで、美優はどんよりと自己嫌悪に駆られていた。
そんな数日を経て、不意にマユミから連絡が来た。
「ミユー忙しい?」
送られてきたのは一言。
その日は早々に帰宅して勉強を始めていた。忙しいには忙しいが、暇は暇で作るものである。
「暇だよ」と返してみる。
「飯がてら話さない?」
「いいね」
美優は緩い感じの私服だった。けれども、マユミならば構わないかと思われた。
美優は母に一言断ると、出かけることにした。
母は「うふふ」と含み笑いをしていたので、「そういうのじゃないからね?」とちくりと一言刺しておく。
そういうのだとしても、あなたも共犯なのだからね。
この母とは日々コントのようなやり取りを繰り返していた。自分たち母娘はとても重い過去を抱えているのだから、引きずられてしまわないように、大げさなくらい軽やかでいるのは暗黙のうちの合意事項だった。
さて、そんな複雑事情の美優を呼び出したマユミもまた、お気楽な様子で待ち受けていた。
「おやおや、日も暮れたのに来てくれたのね~ん」
手を振りながらマユミは言う。そこは美優の家の最寄駅なのだが、初めての場所に来たという感じはしない。
「今日はおひとり?」
あえてそんな風に美優はたずねる。
マユミはそれには答えず、
「この辺で旨い店、知ってる?」
目的はそっちのほうなのだという言い振りだ。
美優はしばし考え込み、
「そういうことだったら――」
提案したのは、以前に母と行ったきりの焼肉屋。長い話になりそうだから、静かな場所で落ち着きたかった。
とはいえ、導くとさすがにマユミも戸惑い気味だった。大方、呼び出しての食事だから志くらい見せるつもりでいたのだろう。
「広告収入はあるので」
にっと笑い、美優は親指を立ててみせる。
「さっそく貸しひとつだね~」
言いながらも、個室の席に収まったマユミは余裕の表情で空間を見回している。
「だいぶ開き直ってるみたいね、堂々としてるけど?」
湿っぽさがないのがこの娘のもともとだが、この日は一段と狙ってそうしているようだった。
「あいつが世話になっちゃったみたいだからね~ん」
マイペースにメニューを開きながら言う。
「殴っちゃったからね、泣いてなかった?」
「泣いてたよ~ん。情けない顔しちゃってさ~」
「マユちゃんはお詫びに来たの? それとも説得しに?」
「どっちだろうね~ん」
この少女は、どうやらはっきり物言うつもりはなさそうだ。
「大人げなかったとは思ってるんだよ。でも、こんなときなんて謝ったらいいのか」
「ミユーが謝ることはないじゃんねえ?」
話しながら呼び出しボタンを押していたマユミは、店員が来ると淡々と注文を告げる。
「謝るのは、あたしのほうなんだからさ」
と、不意打ちのように言う。
「あいつをけしかけたのはあたしだったのよねん」
「もしかして、温泉入ったとき――」
「ナオとメグは、気づいてなかったみたいだけどさ」
「そりゃね、あんなもみくちゃにされればさ……」
「だから、責めるならあたしのほうってことで」
「私が、それでスッキリするとでも?」
「スッキリできないわけ?」
どうやらそうみたいだと、返答代わりに美優は苦笑する。
「どうしちゃったんだろうね、私」
「そんなこと聞くなんて、らしくないんじゃないの?」
「だよねえ。なんでもひとりで消化できると思ってたのに」
「自分のことならどうにでもなるのにね」
「マユミちゃんも?」
恐らくは、この少女も同じだろうと美優にはわかっていた。
「そうみたいだよねえ。最近、つくづく思い知ってさ〜」
「マユミちゃんは、上手に立ち回っていると思ったけど?」
「そんなフリ、してただけだよん」
「色々、あったみたいね?」
「ま、聞かないでしょ、ミユーはさ?」
「マユミちゃんも、ね?」
のぞみのことを、きっとマユミはもう突き止めているはずだ。しかし、その先まで彼女は踏み込むまい。
「その辺はね、あいつがとことん――」
「首を突っ込んでる」
その一言は、ふたり一緒に。
「そんな奴だからさ、突っ走るくらい、よくある話だってね?」
どうやらいつの間に、美優はマユミに説得されそうになっていた。
「だよね~」
吐息のように、美優は言う。
ちょうど「失礼します」の一言と共に店員が現れ、注文していた皿を並べていった。
「さてさて、お食事と行きましょうかね~ん」
マユミは網の上に、タン塩の切れ端を並べていく。
「彼の言うこと、信用してあげたほうがいいのかな?」
「気に病むことなんかないのよん。きっとそのうち、またあいつのほうから言い寄ってくるだろうからさ」
「そのときは、ちゃんと話を聞いてあげなって?」
「どう応えるかは、ミユーの好きにすればいいのさね。でも、やり直せる内に、やれるだけのことはやっておいたほうがいいんじゃないの?」
肉を頬張り、幸せそうな顔をしていても、マユミはきっと、自分自身の何かを思い出していた。
「失うものなんて、もうないと思ってたよ」
網の上から自分も肉を取り、美優は言う。
「もうこれ以上、失わないようにしないと、だね〜」
「私、勘違いしてたかもしれないね。マユミちゃんのほうが、私よりずっと、重いモノ、背負ってるのかもしれない」
「あたしは恵まれすぎてたのさね。周りの奴らにさ。もっと早く気付いてたらって、後悔してる」
「ありがとう、話してくれて。私は、気を付けるよ」
「そうするといいねん」
マユミはもう、目の前の肉に夢中になっているようだった。
自分もこの少女にならったほうが良さそうだ、と美優は思う。
それからは、のぞみの居場所を突き止めてその場所を訪問したこと、今ものぞみと接点が続いているらしいことを、美優はマユミから聞いた。
マユミはのぞみの通う高校に何かしら因縁があるようだった。しかしそこまでは聞かなかった。
網の上で肉の焼ける音に場の空気をごまかしながら、美優とマユミは取り留めもなく談笑を続けるのだった。
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