22.5話  さくら③

 さくらの父親は、いわゆる「その筋の人」で、生業を表向きにできない人だった。彼女が中学に上がった頃、その父親がいざこざに巻き込まれて亡くなると、悪い噂はいつの間にか広まり、残された者に悪意の目が向いた。

 さくらの兄は当時から腕っぷし自慢で、妹に向かう悪意はすべて彼が牽制けんせいした。喧嘩沙汰も日常茶飯事だった。けれどもその兄が中学を出てしまうと、残された妹を守りきることは難しかった。


 マユミ自身は、二年でさくらとクラスが同じになった。印象に残るのは、背の低い男子生徒が、いつも彼女を守っていたこと。その少年こそ、サブだった。

 サブは、さくらと幼馴染だった。さくらの兄に代わり、彼女を守ると約束を交わしたものらしい。マユミも、最初から彼らと近しかったわけではない。しかし彼女も日本人離れした容姿のためクラスで浮きがちだった。なんだかんだと彼らと接点が増えていった。そうなると余計にクラスの大勢からは遠ざけられ、身を寄せ合うように三人一緒のことが多くなった。


 治安の良い中学ではなかったが、サブがへたれなりに意地を張った。何より最後は後ろ盾としてさくらの兄の存在が大きかった。

 問題はどちらかというと三人の中で淡く持ち上がった。繋がりが濃かったがゆえに心の結びつきも募り、しかし想いの向かう先はなかなか合致しないもので、マユミは自分らの間を恋慕がすれ違うのをだいぶ早くから感じ取っていた。マユミだけがすれ違いの渦から一歩引いていた。サブから寄せられる想いも、そのサブに寄せられるさくらの想いもマユミはずいぶんと自覚的だった。


 その頃からマユミは自分自身にめていた。他人に感情を抱くということに醒めていた。しかし、そんな自分をどちらかというと恥じていた。ひたむきなふたりにつかみどころのない敬意はあった。

 いつの間にか、そんなしこりを抱えたままで一緒にいることが耐えがたくなってしまっていたかもしれない。


 サブは相変わらず強情で、上級生に絡まれたり、その上級生を後々さくらの兄と返り討ちにしたりとやり放題だった。小競り合いは日々繰り返された。


 その日の緊張は非常に些細だった。クラスメイトのなんてことはない、少しばかり調子づいた程度の男子生徒がサブに絡んだのだ。しかしその絡み方が問題だった。そいつはさくらたち三人の関係について揶揄をした。女ふたり脇にはべらせてどちらも手を出せない根性なしとてサブを野次った。

 サブは例のごとく黙っていないが、なら意中はどちらなのだと追及はやまない。クラスに剣呑な空気が漂い、それ以上に、三人が自身らでも隠していた繊細さが無遠慮に露呈されていく感覚が激しかった。


 なぜだろう、マユミはそこでキレてしまった。


 自分でも意識せぬままに席を立つと、そのふたりの元へ歩み寄り、戸惑うふたりの前で急に拳をサブに打ち付けた。その相手の男子生徒が情けなくひるんだ隙に、その鼻面へ嫌な音がするほどに打撃を見舞った。

 それからは悲鳴やらどよめきやらも遠く、気が付くと男子生徒が顔を覆って震えながらうずくまり、さくらがへたり込んで泣きじゃくり、サブは茫然と立ち尽くし、クラスに居合わせた誰も彼も無責任に見守る輪の中心で、わずかに拳がひりつくのだけ感じながら、寝ぼけた早朝のようにマユミは立っていた。


 男子生徒は鼻が折れ、肋骨にもひびが入る大けがだった。マユミは兄のマナブがすでに高校で目を付けられているような有様だったから、飛び火が及んでも大丈夫なようにと普段から手ほどきを受けていた。まったくもって、勝手な兄だとマユミは思う。それならなぜさくらの兄のように、俺が守るの一言もないのか。変に平等ぶってかわいい妹を強い女になど仕立てて、従順でもか弱くもないものだから、身を守るどころか、とうとうこんなやんちゃまでやらかしてしまったではないか。


 先に手を出したのも加害者もマユミだから、問題の矢面に立つのはマユミだった。当事者のサブがどんなにマユミを擁護しようと、怪我させられた男子生徒が情けなさから己の非を認めようと、学校側は世間体に仕える公務員いぬばかりで、形として悪者が決められればそれで良し、火消しに杓子定規が当てられればそれで良し、とにもかくにも梁田マユミという一生徒が理不尽に暴力を振るったとの看板さえ表に立てられればそれで良しとて、あらゆる声が上がろうと煙に巻き、立場に不利益のないようにと小さく状況を整理していった。


 肝心のマユミ自身は涼しい顔でわらっていた。悪者になる気分は心地よかった。誠実さも信念もない大人たちがだらしのない保身に走るのを見下しながら、自身はちゃんと己を貫いているのが心地よかった。マユミの親も親で中身のない議論は取り合わない実質主義の人だから、それなら他にいくらでも良い行き先はあるからとマユミの転校はすぐに決まった。


 マユミの投じた一石は大きかった。さくらに向かう悪意については、学校側も黙認どころか致し方無しと片付ける向きが強かった。その繊細さが明るみに出て、そこに触れることが教師にとっても生徒にとってもナイーブになった。逆説的にさくらは救われた。嫌がらせすら敬遠されていき、小競り合いもなくなった。


 マユミは清々しく立ち去ろうとしていた。サブは顔も合わせられず黙って見送った。けれどもさくらだけは納得しなかった。

 呼び出されたのは、桜並木のバス停だった。その年は温暖で、三月なのにもう桜が満開だった。さくらと向き合いながら、マユミはまるで卒業式のようだなと考えた。


 さくらは、去っていくマユミに「ズルい」と言った。同情したりはせず、「ズルい」と言ったのだ。マユミだけは最後までカッコよくて、サブの心は尚更マユミに釘付けで、さくら自身もマユミに守られた格好で、だからこそマユミには足元にも及ばない。

 マユミは天使で、自分は悪魔か堕天使なのだと、さくらは泣きじゃくった。主役はいつまでもマユミで、自分はいつまでも主役になれない。守られるばかりのお人形で、いつまでも一人前にはなれないのだと。


 そのときなんと声を掛けてやったのかはわからない。けれども、そのときに考えたことを、二年も経って、現に泣きじゃくるさくらを後に去ろうとしている今、マユミは不意に思い出す。


 自分に幸せは似合わない。彼女はそんなことを考えたのだ。

 当事者になることから、常に身を遠ざけてきた。青臭いのは苦手だった。そうしていると色々なことが思うように行った。けれども彼女自身はそんなこと望まない。望まないくせに、そんな彼女の背中を前にして周囲の人間が何人も膝を付いてしまう。

 せめて、見返りに己が満ち足りていれば良いものの、それすらなく、心はいつも冷やかにあらゆる物事を傍観している。

 だから、自分に幸せは似合わないのだと、言い訳をする。元から似合わないのだから、感じないのも、仕方がないのだと。


 ふと、自身の自慢の髪に触れてみる。あの頃は、さくらと同じ、素直なストレートヘアだった。それがこうして、ギャルなんか演じているのはどうしてだろう。さくらのイメージから逃げようとしていたのは己自身だった。救ったはずなのに絶望させてしまう己を認めたくなくて、無理をしていたのだ。

 せめて、これを敗北として数えようとマユミは自嘲する。また悲しませてしまって、置き去りにさえしてしまった旧友の声を後ろに感じながら。



  ※  ※  ※  ※



 駅までの道を外れると、マユミは兄に電話を掛けた。


「よお~、元気か?」


 そんな気楽な声が聞こえる。マユミは、川に掛かる橋の欄干らんかんに寄りかかり、あきれてため息をつく。


「あんた、訳知りでしょ?」


「バレたか。俺は素直すぎていけねえ」


「んで、どこまで把握してんの?」


「サブの奴、電話寄越して来たぜ~。お前に悪かったって、謝られたわ」


「別に、悪さなんかされちゃいないけどね。相っ変わらずの根性なしでさ~」


「三高の奴らが面倒そうなのは承知してる。だが、俺の出る幕じゃねえだろ?」


 さくらの兄も恐らくは全てを把握済みだ。それに、この兄はサブを信用しようと言うのだ。


「あいつ、昔のあんたの髪型、真似てやがったよ?」


「マジかよ。ダセーじゃん、あれ」


「だよね~ん。ダサかったよ」


「んま、時が解決するって奴だ。お前はどうなんだよ?」


「さあ。腑に落とすとこは腑に落ちたかな」


「さくらちゃん、かわいくなってたか?」


「教えると思うかよ、クソ兄貴」


「だな。ま、青春はすれ違うもんだ」


「評論してんじゃないっての」


「クビ突っ込んだアホがよく言うぜ」


「あんたの代わりに丸く収めてやったのよん。感謝してよね?」


「それもこれも、俺の教育のたまものだ」


「おかげで模範的なアバズレだよん。あとのことは頼んだからね?」


「任せろ。来週にはカタ付けておく」


 電話を切ると、フウっと夜空に吐息する。

 なんにせよ、一件落着だ。煮え切らないままの問題もあるが、それは前からのこと。各々で抱え、各々で消化するしかない。


 そういえば、同じように煮え切らなさを抱えて、盲目に突っ走っている陸上野郎がいたな。


 気まぐれでメッセージをひとつ飛ばしてみる。すると、返事はすぐに来た。


「ちょうど帰るとこ! 一緒に帰ろ!」


 三高の近くにいることを伝えると、のぞみはすぐに電話してきて、そんなことを言う。

 こいつは自分に自信もないくせに、人の懐に飛び込む力だけは一人前だ。

 己自身は、決して真似できない向こう見ずさだ。

 マユミはそんなことを考えながら、駅までの道のりを戻った。

 ふと、視界の隅を白い月がぎったとき、まるでそれが、舞い散る桜の花びらの残像のようであった。

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