22.5話  さくら①

「ひさしぶり」


 そんなメッセージが青空に浮かんでいる。

 浮かんでいるのは、スマホの端末だ。寝転んだまま、スマホを持っているわけなのだ。


 昼休みにお気に入りの場所で、マユミは空を見上げていた。

 送られてきた文字を見つめる。来ることを覚悟はしていたけれど、いざ本当に来ると、意外な想いがした。


 マユミは迷わずにそのまま通話ボタンを押す。呼び出し音は、ほんのひとつかふたつ。


「……マユ?」


 か細い声が聞こえた。マユミはニヤリとほくそ笑む。いい声になった。きっと実物はもっといい女になっている。


「元気してる?」


 用向きも伝えず、言った。その一言で十分だった。


「時間取れる?」


 彼女も一言、そう言った。


「ガッコウ終わったら行くよ」


 だから、マユミもそう告げた。

 宍原のぞみという少女と会うために、二度も三高を訪ねたのだ。目撃されないほうが不思議だった。むろん彼女に知られるのは時間の問題だった。


 マユミは観念した。その日の放課後には、彼女との場所へこっそりと訪れていた。


「ちょうど二年ぶりかな?」


 その場所へ向かうと、彼女はすでに待っていて、後ろ姿をこちらに向けていた。

 桜の花びらが、一斉に彼女を取り巻くような幻想が、不意にマユミの脳裏を襲った。それは、最後にここで彼女と会ったときの風景で、そのときは並木の桜が満開だった。薄白い街灯に照らされて、振り向いた表情は夜の底で暗がりに翳っていて、マユミはそのときの彼女がとても美しいと思った。

 今は桜の季節も遠く、葉も色褪せ、冬の足音を偲ばせている。


「来てくれたんだね」


 はかなげな声も、あの時のままだった。不器用な笑顔も、照れて両手を胸の前で合わせる仕草も、変わらない。

 マユミと同じくらいの髪の長さで、けれども彼女は可憐な黒だった。セーラー服がよく似合い、つい見とれてしまいそうだ。


「天使が来てあげたよん」


 マユミは間延びしながら言う。

 かつて接点が強かった頃は、そんな風に呼ばれることも多かった。マユミの白銀の髪と、対を成すような黒い髪。ふたり並ぶと絵になった。けれども、面と向かってそんな呼び方をする者はなかった。天使の対になる言葉は縁起が良くはないから。主にはマユミが皮肉っぽく天使を自称することが多かった。


「おひさだね、さくら」


 そう、この少女の名前もさくらだ。


「堕天使は待ちくたびれてしまったのです」と、さくらは手近なバス停の支柱をつかみ、ぶら下がるようになりながら言う。


「このバス停、まだ残ってたんだね」とマユミも苦笑する。


 それは、桜の開花に合わせて春の間だけ運行される便のバス停だった。残りの季節は人が待つこともない場所だから、ふたりはかえってこの場所を待ち合わせ場所として好んだ。


「またここであんたと会うなんてね」


 マユミがそう言うと、さくらもほほ笑む。言葉にしなくとも、ふたりにはわかっていた。互いに思い浮かべるのは、2年前、桜舞い散るこの場所で、最後に言葉を交わしたときのこと。そのときさくらは涙を流していて、責め立てるように何かを話していて、マユミはじっとそれを見据えているだけだった。


「あいつのこと、覚えてる?」と、さくらは問う。「あいつがちょっと……面倒なことになっててさ」


「面倒に巻き込まれてるっての?」


 マユミの表情が険しくなる。さくらがあいつと呼ぶのはひとりきりだ。彼女とマユミが中学時代にいつも三人一緒でいた、そいつはサブと呼ばれる少年だった。


「三高の奴らが、最近騒がしいんだ」と、言いにくそうにさくらは言う。「お兄ちゃんも、マユミのとこの兄さんも卒業しちゃったから」


 それはマユミも懸念していたことだった。かつて、この一帯は一高と三高がワルの二巨頭となり、一進一退のせめぎ合いを続けていた。それがとある代のトップふたりが和解したことで、長い抗争に終止符が打たれたのだ。

 そのトップふたりの妹が、奇しくもマユミとさくらだった。


「兄貴たちの盟約、まだ死んじゃいないでしょ?」


 マユミがたずねると、さくらはこくりとうなずく。


 いくらアタマが和解したとて、下にいるワルたちが納得するわけもない。そこでアタマふたりは、互いの陣営をひとつところに集めた上で矢面に立ち、「気に入らなければまず俺たちを倒せ」と宣言したのだ。

 以来、ふたりは街の治安の象徴となった。しばらくは勝手をする者もいたが自ずと淘汰されていき、ふたりが卒業してからも、自浄作用の仕組みは連綿と引き継がれているはずだった。


「それとも、反抗期なんかこじらせちゃってる奴でも?」


 マユミは冷笑的に言い捨てる。こうやってこいつの前では、斜に構えてしまうなと思う。それは昔も、変わらなかったのだ。

 さくらの表情がくもる。


「あいつが――」と、言葉の切れが悪い。サブもまたさくらと同じ三高だ。ワルがそうそうおとなしく約束事など守るはずがない。向こう見ずなサブが反発分子とぶつかる事態はマユミも考えにあった。

 けれども、


「あいつが気にしててさ、あんたのとこが何か動いてるんじゃないかって……」


 どうやらマユミとさくらの間には温度差がある。


「それってのはさ……」


 思い違いにマユミが思い至ると、


「マユさ、この前、うちに来てたでしょ? あいつがそれを、気にしてて……」と、言葉を濁しがちにさくらが。


 マユミは目を丸くしたあと、軽く頭に手をやる。


「元凶はアタシってわけね~」


「ごめん……」


「あんたが謝るとこじゃないでしょ?」


「ううん、じゃなくて……」


「あいつがあんたを差し金にしたって聞こえるけど?」


「私が、そうしてほしいって言ったの」


 そう伝えたときだけ、さくらの声がしっかりしていた。


「ふうん」


 マユミは気のない返事をする。どうやら、さくらの気持ちはあの頃と変わらないようだ。


「会いたい奴がいたのよねん、三高にさ」


「あの、一年生の女の子?」


「ま、そうだね」


「なんの用事があって、その子に?」


 さくらの表情は険しかった。マユミは理解する。疑いの目を向けているのは、この子自身も同じなのだ。


「ほんっとうに、大した用事じゃないんだけどさ~」


 マユミはため息をつく。仮にも己は一高トップだった男の身内なのだ。あの文学少年のためとは言え、軽はずみに行動しすぎたかもしれない。


「逆に聞くけど、どうすれば信用してもらえそう? アニキ、呼ぼうか?」


 こうなっては駆け引きをするしかない。バカ兄貴に借りを作るのは癪だが、マユミもマユミで切り札を出すしかなさそうだった。


「……ちょっと相談させて」


 さくらはそう言うや、束の間離れて、スマホで誰かに電話を掛けた。おそらく、相手はサブだ。少し揉めるような様子もあり、電話を切ると、さくらは難しい顔つきで戻ってきた。


「あいつ、マユがひとりで来いって……」


「いいよ。あんたが道案内くらい、してくれるんでしょ?」


 マユミは初めからそう言われるのを予期していたし、そうするのが都合良かった。

 のぞみの顔まで覚えられてしまったのは誤算だった。彼女は同じ三高で、逃げ場がない。


「こっち」


 さくらは早くも身を転じ、向かう先を示した。その弾みに髪がなびいて、黒い翼がはためくようだった。

 ――天使、か……。

 心中につぶやいて、マユミはさくらの後に従った。

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