14.5話 青空の向こう
晴れた日は、思い出すことがある。
あの日、父が自分を連れ出してくれたこと。
晴れたら夕陽が見れるからと、予報を信じて出かけたあの日。
空は晴れず、大事な人を失うことになった。
美優は、自宅へと続く坂道をのぼりながら、やはりその日のことを思い出していた。
いつもなら、ひとり学校で過ごし、ひとり本の世界に浸ったあと、ひとり物思いに耽り、ひとり自分の足音を聞きながら進むこの坂道。
しかしこの日は、勝手が違った。
物思いと足音との前に、誰かと過ごす週末の時間があった。
そのせいだろうか。歩きなれたはずの坂道が、いつもと違う場所のようだった。
だから尚更なのだろうか。今日は、事故の起きたあの日をいつになく強く思い出した。
地平線にわだかまる雲から、久方ぶりに呼ぶ声が聞こえてきた。
美優はその雲のほうへ吸い寄せられた。いつか、本当にあの雲のところへ連れていかれてしまうのかもしれない。
でも、それで良いと思っていた。あの雲の向こうに消えていってしまった人がいるとしたら、その人のところこそ自分の居場所だと、ずっと思ってきたのだ。
一度家に戻って、身軽になると美優はまた出かけていった。少しでもあの雲の近くにいたかった。
この土地に母と引っ越して良かったと思える理由が、その場所だった。
高台の隅の忘れられたような公園に、冷たい街を一望できるベンチがあった。
先客がいるときもあるけれど、そういうときは心のざわめきが収まるまで街中を歩くようにした。
今日はそんなことをするまでもなく、誰もいない公園で心の居場所にそっと腰を下ろすことができた。
晴れた日には地平線の雲に亡くした人の声を聞いた。
曇りの日には、雲に覆われて見通せない空の向こうに、見守る人の息遣いを感じた。
ここに身を置いているときだけは、心穏やかでいられた。
父が自分を庇って死んだあのときから、代わりに自分が死んでいたら良かったのにと、思う気持ちがぬぐえなかった。
せめて一緒に死んでいたら、どんなにか良かったのに。
失くした痛みと置いていかれた痛みのために、美優は心の一部をなくしてしまった。
欠けたまま生きていかないといけない悲しみを、美優はここで大空に呼びかけた。
白い雲の向こうで、父がそんな心の悲鳴を、受け止めてくれるように思った。
誰にも伝えられなかった想いを、行き場のない悲しみを、手向けられる相手は、他になかった。
たとえ喪われても、変わることはなかった。
けれども――
それではいけないと叫ぶ声もあった。
あの雲の向こうに、本当は彼女の声を聞いてくれる誰かはいない。
行き場のないこの声は、ちゃんとどこかに行き場を与えてやらねばならないはずなのだ。
今も小説を書いているのは、無意識にその居場所を作ろうとしているからだ。
早乙女美優という人は、今も誰に声を届けるのも恐ろしくて、硬く心を閉ざして身を守るしかない弱さなのだ。
それは、もう仕方がない。
だから、代わりにミコトという人が、彼女の声を形にしてくれれば良いのだと。
きっと、そう思っていた。
ひとりですべてを抱えて、ひとりのままに声の居場所を探すのは、とてもつらく、息苦しかった。
けれども、分かち合うことでまた、痛みを味わうことも恐ろしくて、やはり心を閉ざすしかない。
ひとりが安らかだと思う気持ちと、ひとりがやるせないと思う気持ちとがケンカして、耐えがたいときがある。
その板挟みのせいで、書けなくなった。
物語に居場所を求めても、心がすり減るばかりではないかと、心のどこかで疑っていた。
けれども、今日この場所に身を落ち着けると、不思議と苦しさはなかった。
書けなくなってからずっと胸を締め付けていた息苦しさが、今はない。
これは、どうして――?
思ったときに、真っ先に浮かぶ顔は、父を亡くす間際に傷つけてしまった親友のそれ。
物語は、彼女のおかげで書きはじめたようなものだった。
彼女との思い出が痛みを伴うから、書くことの痛みが強かった。
なのに、不思議と今はあの子の顔を思い浮かべても、胸がチクリと疼くことはない。
むしろ懐かしさでさえ感じて、やさしい笑みが自ずと口元を柔らかくする。
――これは……ああ……そうか……。
この週末のことを、美優は思い出す。
満ち足りていたとか、そんな感傷的なものではなかった。
それはただ単に、等身大の高校生であっただけだ。
それでも、自分は、ちゃんと等身大になれるのだ。
そんな実感が浸透するほどに、きっと心の棘は自然と抜けてしまっていた。
あの子とすれ違った過去を克服しない限り、自分という牢の中のラプンツェルは、幸せになれないのだと思い込んできた。
けれども、そんなことはない。
一緒に青春しようだなんて、なんの誘いだろうと思っていたけれど、彼女はいつの間にか、救われていた。
「そっか……」
美優はぽつりと小さくつぶやいて、クスッと笑う。
過去を振り返っても仕方ない。
それを言う人は多いけれど、そんな人たちでさえ、過去を克服できないことは停滞だと考えてしまう。
けれども、そんなことはない。
変えられない過去は、そこにいた自分も責める必要はない。
そう悟ったとき、心の軛となっていたものが音を立てて外れた音を、美優は聞いたように思った。
人と向き合えなくても、私は私だ。
物語にしか居場所がないのだって、私は私だ。
自分はただ自分の世界を静かに守っていれば良かったのだと、美優は安堵のように思った。
あとで、あいつにメッセージでお礼を言ってやろう。
そんなことを考える。
しかし、今はもう少し、こうしていよう。
それで心が晴れるなら、それでいい。
心の声に身を任せれば、それがきっと自分の一番歩きたい道筋を示してくれるはずなのだから。
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