一の八 決行のとき 〜模索〜

 直径八センチの汚水枡の中には、水がひたひたに蓄えられている。

 冬の陽光は鈍く、奥底を照らすほどの力を持たない。

 真夏の射貫くような光であっても、詰まっている現状、底まで見通すことは不可能なのだが。


 作業場所は家の西側。互いの敷地にある通路を挟んで隣家と接する側面に当たる。

 建物の影になり、そも、お日様の明かりも温もりも届きはしない。


 午後二時。

 冬至を過ぎたとはいえ、ほんの一週間。陽はまだ短く、ぐずぐずしていては暮れてしまう。


 風が吹いた。

 昏い水面が揺れる。


 下にセーターを着込んでいるとはいえ、百十円のレインコートでは寒風を防ぐには心許ない。


 手早く済まさなくては。


 すぐ側にしゃがみ込み、小さなお玉を手にした。汁物を掬うには何往復も必要なそのサイズが、排水の揺蕩うこの狭い枡にはちょうど良かった。


 水面に浮く白茶色いカスと共に水を掬い、バケツに移す。

 小さなカスが幾つか、バケツに張った水切りネットの上に残った。


 風が吹く。


 マスク越しに、水の臭いが鼻を刺激する。


 冬ですら、この臭い。

 夏場なら悪臭に苦情が来てもおかしくない。

 窓を開け、外にも出る機会が多い時期なら、この作業自体も訝しがられるだろう。


 いる。

 どんな時でも、はそばにある。


 水を掬う、バケツに移す。

 小さなお玉を何度も動かす。


 汚水枡の水面は下がらない。バケツには水が溜まってくる。

 臭いはあるものの、水色は透明で濁りはあまりない。

 水切りネットには白茶色いカスが少しだけ乗る。

 ネットを外してビニール袋に捨て、水を捨てに行く。


 水切りネットをセットして、再び水を移し始める。


 掬う、入れる、掬う、入れる。


 ロボットのように規則正しい動きで続ける。


 汚水枡の水は減らない。


 自分は一体何をしているのだろう。


 あるいは、意味のない作業をさせられる壊れかけのロボットだったのかもと、家の側面でひとり座り込み、腕だけはリズミカルに動かしている。


 掬う、入れる、掬う、入れる。


 バケツに半分ほど水が溜まる。


 子ども用の小さなふた付きバケツは、持ち手が細く頼りない。

 いっぱいまで入れてしまっては、破損してしまうかもしれない。

 この臭い水をぶちまける、想像だけで鼻が曲がる。


 立ち上がる。同じ姿勢を続けたために、ロボットの膝と腰は痛んだ。


 まだ序盤というのに。


 水を捨てに行き、また水切りネットをセットした。


 そうして、小さな汚水枡に向き合ってからどれくらい経ったか。

 ようやく水が減り始めた。

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