第2話 ネオ・カサブラン02

「もう、こんな時間か……」



 音楽機材の搬送、設営、そして苦情の受け付けまで……ニコラが市役所へ戻ったとき、時刻はすでに午前0時を回っていた。ニコラは市役所に誰も残っていないことを確認すると職員用のシャワールームへ向かった。


 蛇口をひねると頭上から温水が降りそそぎ、身体についた汗と泥を洗い流してゆく。シャワーを浴びるニコラは細身の外見とは裏腹に筋肉質な身体つきをしていた。胸元では髑髏のネックレスが揺れ、緑色の鈍い輝きを放っている。



「ああ、なんて心地よいのだろう。これは真面目に働いた僕へのご褒美だ。ふふ、ふふふ。ああ、そうさ。僕は何事も真面目なんだ。素晴らしいじゃないか」



 温水が全身を伝うたびに身体の芯から例えようのない喜びが湧いてくる。それは『一日を真面目に働いて過ごした』という充足感からきていた。ニコラは『まっとうな自分』に酔いしれ、独り言を呟きながら満足げに笑った。シャワーを終えると再び汚れたシャツとスーツへ袖を通し、清々しい顔つきで市役所を出る。



「いい夜だなぁ……本当にいい夜だ」



 ニコラは音楽祭で賑わう夜の街を上機嫌になって歩いた。そして、歓楽街までやってくると雑踏を離れて裏路地へ足を進める。そこには真っ黒に塗装した高級車や馬車が何台も並んでいた。ニコラが通りかかると一番大きな高級車のドアが開き、中から大柄で彫りの深い顔つきの男が降りてきた。


 男は派手な金髪で、左右のもみ上げを思いきり刈りこんでいる。ピンク色のスーツにグレーのチョッキを着て、腰には一目で魔導武装とわかるトンファーをぶら下げていた。気に喰わないことでもあったのか、険しい表情でズンズンとニコラへ近づいてきた。



「お帰りなさい、!!」



 突然、男は満面の笑みになって両手を広げた。爪には紫色のマニキュアがベットリと塗られている。ニコラは苦笑いを浮かべながら抱擁を受け入れた。



「ダヴィデ、目立つ出迎えはやめてと言ったのに……」

「何を言ってるの!? わたしたちのドンが家へ帰ってきたのよ?? 帰宅を喜んじゃいけないの!?」



 ダヴィデはわざとらしく頬を膨らませながら、あらためてニコラのスーツを見る。クンクンと鼻を鳴らしてニコラの臭いを嗅ぎまわった。



「えっとねぇ~。これは汗、泥、鉄、それに乾燥剤の臭いかしら……ねえねえニコラ、あってる?」

「うん、今日は音楽機材も運んだからね。その臭いかもしれない」

「もぉ~言ってくれれば、着替えを持って行かせたのに!!」

「あはは、僕は家に帰るまで着替えるつもりはないよ。だって、これは『僕が真面目に働いた』という証拠、勲章だ。恥じることはない。そうだろ?」



 ニコラが微笑みかけるとダヴィデは耳まで真っ赤にさせた。両目には涙までためている。



「さすがはドン・ニコラ!! なんて真面目なの!!」



 ダヴィデは両手を合わせて大げさに感動してみせる。そうかと思えば、急に真剣な表情で振り返った。そこにはいつの間にかダークスーツに身を包んだ強面こわもての男たちが並んでいる。ダヴィデは威勢よく声を張り上げた。



「あんたたち、ドンのお帰りよ!!」

「「「お帰りなさい、ドン・ニコラ!!」」」

「みんな、ただいま」



 男たちが一斉に頭を下げると、ニコラはダヴィデを後ろに従えて歩き始める。男たちの間を進む姿は裏社会の顔役そのものだった。やがて、灰色のコンクリートでできた建物の前までくると、ニコラはゆっくり顔を上げた。遥か頭上では『ネオ・カサブラン』と書かれた看板がライトアップされている。



──ただいま、母さん。僕は今日もちゃんと真面目に働いたよ。



 ニコラは眼鏡の奥で目を細め、『ネオ・カサブラン』の名前の由来となった母親を思い出した。すると、そんなニコラを見てダヴィデが心配そうに首をかしげる。



「ニコラ、どうしてそんなに寂しそうな顔をするの? せっかく家に帰ってきたのよ? もしかして市役所の連中に何かされた?」



 ダヴィデはニコラが役人として働くことに納得していない。巨体を屈め、苦々しい表情でニコラの顔を覗きこんだ。



「そもそも、ギャングが薄汚い役人と一緒に働くなんておかしいのよ。天敵同士が一緒に遊ぶようなものじゃない……。ねえ、何かされたのなら教えて。いつでも消すわ」



 日頃から不満を抱えるダヴィデはしつこく尋ねた。だが、それは出過ぎた真似まねだった。



「ダヴィデ、少し静かにしてくれないかな……うるさいよ」



 一瞬、ニコラの目つきが鋭くなった。ダヴィデはギクリとしてひたいに汗を浮かべる。



「す、すいませんでした。ドン・ニコラ……」



 ダヴィデは肩を落として声を震わせる。その姿が滑稽に見えたのかニコラは面白そうに微笑んだ。



「そんなに怖がらないで。僕たちは家族ファミリーなんだから……さあ、一緒に音楽祭を楽しもうよ」



 ニコラはダヴィデの肩をポンポンと叩いた。ニコラの笑顔は優しげで人を惹きつける。ダヴィデは安心して胸をなで下ろした。



「ニコラ、本当にごめんなさい」

「いいから。さあ、行こう」



 ニコラは柔らかな笑みを浮かべたまま、ダヴィデと一緒になって『ネオ・カサブラン』の中へ消えていった。やはり、ニコラ・サリンジャーは怒らない。それは、ニコラが寛大な人物だからではなく、歪んだ精神の持ち主だからだった。


 人々は気づいていないが、ニコラは『他人は自分を生かすための駒でしかない。感情をたかぶらせるほどの価値なんてない』という思考の持ち主だった。常に他人を見下しているからこそ、負の感情を抑えこむことができていた。

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