『私の富嶽百景』

駿介

私の富嶽百景

 伊能忠敬いのうただたかといえば、歩いて日本地図を作り上げたことで有名だが、彼はその他にも色々なことをしていて、変わったところでは富士山の標高を測ったりなんかもしている。気になるのはその精度の程だが、何ヶ所かで計測をしていて、どれも結果がまちまちのため、何とも言い難い所である。中には三七三〇という計測結果も伝わっていて、これが本当なら江戸の測量技術の高さに驚かされるばかりだが、これも諸説あってはっきりしないようである。なんでもこの時の計測方法は、現代でいう三角関数を応用したものだそうな。



 江戸の偉人の話から突然私の身の上話に飛んで恐縮だが、私は高校時代「ワンダーフォーゲル部」なる部活に入っていた。名前だけは大層なものだが、要は登山部である。部活動で月に一度くらいは奥多摩や山梨の山に登り、夏や秋には泊りがけで八ヶ岳や日本アルプスなどの高山にも登ったが、根っからの運動音痴である私は部活動に身が入らず、最後まで不真面目な部員であった。私にとって山登りは、根性で苦しみに耐えてただ無心に足を動かす運動でしかなかった。

 こんな調子なので、今となっては昔登った山の名前さえ記憶が定かではないが、行く先々の山で富士を見たことは意外と覚えている。たいていは緑の山々の奥からちょっと頭をのぞかせるだけのことが多かったが、それでもなぜか富士を見るとホッとした。苦行のような時間の中で、それがささやかな癒しになっていたのかもしれない。麓では見えなかった富士が、一歩また一歩と歩みを進めるごとに大きくなっていくのは気分がよかった。



 どれも似たり寄ったりの富士ではあったが、一番美しかったのは八ヶ岳連峰の赤岳の頂から見た富士であろう。その時のことは今でもはっきりと覚えている。あれに勝る富士は、もう二度と拝めないかもしれない。

 季節は冬も間近に迫る十一月。赤岳の頂へは麓から二日掛かりの長丁場であった。中腹の小屋に一泊し、翌朝は夜明けと同時に小屋を発つ強行軍であった。小屋から晩秋の冷たい風にさらされながら絶壁を三時間近く登り続け、岩場の尾根を登りつめた先が赤岳の頂であった。眼前に広がるあまりの絶景に、その時の私は肌を刺すような風の冷たさも、ひび割れて赤くなった手の痛みさえも忘れるほどであった。澄み渡る青空の下、一面に広がる雲の海の中で、ただ一つ青白い富士だけが顔を出していたのである。向こうの方が七百メートル近く高いはずなのに、ひどく小さく見えた。それでも佇まいには気品があり、雲の海に落ち込む左右の稜線はすらりと均整の取れたもので、日本一の名に相応しい姿であった。いや、あの時の富士は、富士を知らぬ者が見ても息を吞むような絶景であった。気宇壮大とでも言うべき雄大さで、地球が少し丸く見えるような気がした。あの富士は、生涯忘れない。



 ある年の年賀状に、富士の写真が入ったハガキを送ってきた人があった。その人は大の写真好きで、毎年自分の撮った写真を年賀状にして送ってくるのである。その時の写真は、海の向こうにどっしりとそびえる富士であった。聞けば、夏に沼津の郊外で撮ったものという。成程、日頃武蔵野から見ている山に囲まれた富士とは違い、静岡の側から見た富士は堂々としている。稜線を遮る山などなく、手前に愛鷹山あしたかやまを抱く姿はどこか貫禄のようなものすら感じる。だが、美しいかと聞かれると私にはどうも微妙な景色であった。雪も纏わず、ただ平地に立っている様は、やはり見慣れぬものがあった。整った形の山だとは感じるが、これが日本一の山です、と言われると何だか狐につままれたような気分になりそうである。これを別名「子抱き富士」などと言うと聞いたが、二つの山の稜線がぴったりと重なっていて、継ぎ接ぎの山のようにも見えた。



 ちょっと悪口を書き並べたみたいになってしまったが、東京の郊外で生まれ育った私には、やはり富士といえば雪化粧をして山々の向こうから顔をのぞかせている存在なのである。あの白い三角が見えるようになると、秋ももう終わりである。土地の人の間では、富士がよく見えるか否かは寒さを表す指標のようなところもあり、芯まで凍りつくかのような寒さの朝には一段とよく見えた。

 悪口といえば、太宰治は武蔵野の富士について散々に酷評している。名著『富嶽百景』の中には三鷹の太宰の家から見た富士が登場するが、太宰はその景色を「クリスマスの飾り菓子」だの「船尾の方からだんだん沈没していく軍艦の姿に似ている」などとまぁ酷い言いようである。この部分を読んだ時ばかりは、身の程もわきまえず少しばかり反論したい気持ちになったものである。



 今まで見てきた中で一番美しかった富士はどこか。

 もしそう問われることがあれば、私は間違いなくあの晩秋の赤岳の富士を挙げるだろう。だが、一番好きな富士は、と問われると少し順位が変わってくる。美しさでは赤岳の富士が一番だったが、一番好きな富士は、冬の多摩川の鉄橋から見える富士である。ここの富士は、ちょうど峠の後ろから顔を出す格好になることもあってか、他の武蔵野の富士に比べて一際高く、頼もしさすら感じさせる富士であった。峠の奥にそびえ立つ純白の富士は、手前の山々を従えているかのような威厳に満ちた姿である。凍てつくような冬の朝、通学途中の中央線の車内からその景色を見ると、どこか晴れ晴れとした気持ちになったものである。雪化粧をした冬が一番きれいだったが、この場所だけは他の季節でも空気が澄んでいる日には富士が見えた。この他にも、武蔵野には私の好きな富士がいくつかあった。



 先だって久しぶりに高校時代の友人と会う機会があった。その友人は今は地方で暮らしており、久しぶりに東京に戻ってきたという。その友人から私が聞いたのは、奇しくも富士の話であった。

 「……朝方夜行バスで帰ってきて、新宿から京王線に乗ってさ、調布の先で多摩川の鉄橋を渡る時に、朝日に照らされた富士山がよく見えるのよ。久しぶりにその景色を見て俺泣きそうになったよ」

 そう話す友人の声が少し潤んだような気がした。

 そういえば、武蔵野の外れにあった高校からも冬は富士がよく見えた。そこから見える富士もまた雄大で、私の好きな富士の一つであった。

 太宰は富士に似合う草花を月見草と書いたが、私にとってはすすきである。「富士と芒」と言われて私の中に思い浮かぶ景色は、やはりあの多摩川の車窓である。晩秋の荒涼とした多摩川の河川敷で、枯れ草に混じってぽつぽつと芒の白い穂が冷たい風になびいている。そしてほんの一瞬、芒の穂が西日に照らされて銀白に輝き、辺り一面が銀の粒を散らしたような景色が広がる。その背後に並ぶ多摩の山々の切れ間から、雪を戴いた純白の富士がどっしりとそびえ立っている───。

 夕暮れの中央線の車内からその景色を見た時、私は白い芒の穂が銀白に輝くことを初めて知った。あの富士は、神々しかった。



 それにしても、これ程までに人々の関心を集め続ける山というのも、そうそうあるものではないだろう。歌に詠まれ、絵の題材となり、またある時には信仰の対象となり、忘れた頃に噴火して厄災をもたらしたりと、まぁ何とも忙しい山である。冷静に見れば世界屈指の高さを誇るわけでもなく、姿形の似た山だってそれこそ山の如くあるわけで、決して群を抜いて美しい山というわけでもないのだろう。それでも日本人というのは実に都合よくできていて、富士は美しいものと刷りこまれているから、あの三角の山を見ると不思議と美しいと感じてしまうのである。もはや富士という名に踊らされているだけかもしれぬ。



 広重や北斎の浮世絵を見ても、多くが富士を小さな三角に描いている。中には山並みの後ろに白い三角を描いただけのものすらある。それだけ抽象的に描かれても富士と理解できるのは、絵師の画力がすごいのか、はたまた刷りこみのおかげか。今だって台形を書いてその中にギザギザに線を引いたものを人に見せれば、きっと富士を書いたのだと理解してもらえるだろう。白と水色に塗り分けたら、まず見間違える人はいないはずである。

 富士が世界遺産に登録された時、「信仰の対象と芸術の源泉」なる副題がついた。言い得て妙な題な気もするが、ひねくれ者の私はこれを見ると、どこか日本人の富士に対する考え方や価値観を皮肉られているようにも思えてならないのである。

 結局のところ、人が見ているものなど、様々な色眼鏡を通してその時の都合よく見ている虚像に過ぎないのだ、と。



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『私の富嶽百景』 駿介 @syun-kazama

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