十五膳目 「鯛の幽庵焼き風」
「おい、つまみ食いすんなよ!」
陽平が目を離した隙にあら煮の鍋に手を伸ばそうとした和樹を、陽平が𠮟りつける。
「えへへ、バレちゃったかぁ…」
和樹がポリポリと頭をかく。
「罰として、和樹にも作業手伝ってもらうからね」
「えぇー」
「とりあえず、お米三合研いどいて!」
「ハイハイ、分かりましたよ…」
こうなっては自分に勝ち目がないことをよく理解しているので、和樹はしぶしぶながらも陽平の言いつけに従う。
「で、次は何作るの?」
「次はねぇ、焼き物にしようかな。鯛の
「ゆーあんやき?」
流しで米を研ぎながら、和樹が訊き返す。数分前に陽平に𠮟られて、まだ少し拗ねている。
「味醂とか醤油に漬けて焼いたもの。正式にはそれに柚子使わなきゃいけないし、何日か漬けこんで作るものなんだけどね」
「ふーん」
「今は柚子の時季じゃないから、代わりにレモンで。鯛ならそんな漬けこまなくても美味しいから、今日は三十分だけ。だから、『幽庵焼き風』かな?」
「何か空豆の時もそんなこと言ってなかったっけ?」
「あーそーだったかも、」
「相変わらず、陽平さんいい加減だなぁ…」
「いいのいいの。なるべく無理ない範囲で美味しく作れればいいの」
「そう言いながら魚捌いてるんだから矛盾してるんだよなぁ…」
「それはまぁ、あの鯛さんにナンパされちゃったからしょうがないね」
陽平がケロリとした調子で言う。
「それで何でもかんでも買ってこないでよ?」
「気をつけます…」
「てかさ、ナンパされた鯛をバラして食べるなんて、陽平さんも中々やってることがヤバいよね」
「人聞きの悪い言い方しないでよ……。だってそれが、私たちができる一番の愛情表現じゃん?」
陽平が満面の笑みを浮かべる。
「うっわ…。やっぱ陽平さんってサイコ入ってるよね」
「そんなことないでしょ」
「頼むから俺にそれを向けないでくれよ」
「ふふふ、それは、和樹の行い次第かなぁー?」
陽平が不気味に笑う。笑いながら、鯛の切り身が載ったバットを手に取る。鯛の切り身には前もって塩をあててある。塩をあてて二十分ほど置くと、塩の浸透圧で、水分と一緒に余分な臭みが抜けていくのだ。
陽平はバットから切り身を取り、一枚ずつ塩を洗い流していく。
「ちょっと陽平さん、俺次第ってどーゆーことよ?」
「だってー、和樹は料理つまみ食いしたりするじゃん」
「うっ…」
これ幸いと陽平がさらに言葉を継ぐ。
「俺が好きなのは、素直でイタズラしない和樹君なんだけどなー」
「ううぅ…」
これでしばらくは大人しくなるだろう。和樹にはちょうどいい薬だと、陽平は心の中で一人笑っていた。案の定、和樹はぐうの音も出ないと言った顔をしている。
「陽平さん、俺が悪かったから…」
「ハイハイ。少しからかっただけだから」
「なーんだ」
「いやー、やっぱ和樹は単純だから、からかい甲斐があるよね」
「いくら俺が単純だからって、俺で遊ばないでよ」
最後の一言がいけなかったのだろう、和樹は頬を膨らませ、そのままプイッと台所から出ていってしまった。
こうなっては、もう和樹の気の済むようにさせるしかない。ちょっとやり過ぎたかなぁ、と考えながら、陽平はまた続きに取りかかる。
塩も落とした切り身の水気を、キッチンペーパーで拭き取り、ボールで漬け汁を作っていく。酒、味醂、醤油をボールに入れ、柚子の代わりにレモンの薄切りを何枚か入れる。この幽庵地と呼ばれる漬け汁に、切り身を漬けこんでいくのだ。
そのままそれを冷蔵庫にいれ、陽平は別の料理の支度を始めた。
それから三十分後───。
冷蔵庫からボールを取り出し、陽平は中の切り身の漬かり具合を見た。白っぽかった切り身が、ほんのりとべっこう色に染まっている。それを地から上げ、グリルに入れていく。
表面の地が乾いたらまた地を塗り重ね、それを何回も繰り返しながら焼いていくのだ。こうすることで、味がしっかりつき、味醂のおかげで表面に食欲をそそる綺麗な照りが出るのである。
徐々に台所にレモンの爽やかな香りと地の甘辛い香りが広がっていく。それに釣られて、どこに行っていた和樹が台所に戻ってきた。
「あれ、もう機嫌直ったの?」
「まだ陽平さんのこと、許した訳じゃないからね!」
どうやらまだ完全に機嫌が直った訳ではないらしい。だが、陽平はこういう時の和樹の扱い方を心得ている。
「まぁまぁそう怒らずに。ささ、一枚焼きたて食べてみなよ」
陽平はあえて下手に出て、和樹の前に焼き上がった幽庵焼きの載った小皿を置く。
「食べ物で解決しようとしないでよ!」
「じゃぁ、これいらない?」
「いや、食べるけども…」
陽平が下げようとした皿を、和樹がひったくるようにして取る。
そのまま和樹は切り身に箸をつけ、火傷しないようゆっくりと口に運ぶ。ここまでくれば、もう陽平の思い通りだ。内心ほくそ笑みながら、陽平は数秒後に和樹が言うであろう台詞を予想していた。
「う、美味い!」
和樹の声が、台所一杯に響き渡った。
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