一章

第1話 黒木の証言

「次は南渡みなと――南渡――」


 車窓に四角く切り取られた風景。平らな田園が広がる土地柄、冬の季節はどこまでも寂しい。

 空いた電車に揺られて麦野が向かうのは、東京都多摩地域の北部に位置する南渡市。霊、魔、鬼……そういったが舟に乗って此岸を目指してくるのを妨げるために門を閉ざした土地、〈〉がこの土地の由来だそうだ。 

 南渡駅で降車し更に社用バスで揺られること約十分、煙を天に吐き出すシルエットが現れる。あれが麦野が就職したアジロ製造株式会社、通称『アジロ』は南渡工業団地に巨大な工場群を有する。

 時間は午前十時を回ったところ。この中途半端な時間を指定されたのは、始業直後は何かと忙しいためらしい。アジロには昨秋に内定の手続きで訪れて以来久方ぶりだ。

 正門は固く閉ざされており、無人の守衛室に横かれた電話の受話器を上げると自動で呼び出し音が鳴った。


「もしもし。本日からアルバイトでお世話になります、麦野日和と申しますが……」

「ああ、麦野さん。新年あけましておめでとう」


 気さくな声の男性が応答する。


「総務の米山よねやまだよ。丁度迎えに行ったところだから近くで待っていて」

「迎えに?」


 ごうん、と門が軋んだ。

 開門した向こうに鬱蒼とした樹木で覆われた工場地帯が現れる。通話の切れた受話器を置き、麦野は門をくぐった。建物の配管や地面の側溝からまるで出鱈目に吹き出す蒸気の所為で相変わらず視界が悪い。

 煙った靄の向こうを作業服姿の社員たちがぞろぞろと横切ってゆく。ずるずると足を引き摺るようにして歩みを続ける彼らの姿は、見えない糸に操られる人形のようだ。最後尾の一人が不意にこちらを見上げ、ぎくりと後退する。

 ……やはり不気味だ、ここは。入社を決めたものの得体の知れない会社であることは違いない。

 次いで小路を誰かが歩いて来るのが見えた。曇天の僅かな木漏れ日に反射する金色の髪、くたびれたスーツを着た細い人影。


「風見さん?」


 呼び掛けると、彼は片手を挙げた。


「よう。元気そうだな」


 風見輪昇介りんのすけ――彼が迎えに来てくれるとは。

 麦野の上司になる人で、根は世話焼きなのだが度が過ぎたオカルト愛好家であり、一度興味を持つと少々やり過ぎるきらいがある。


「この会社、外でしか煙草を吸えねェってのは不便だな」


 開口一番の愚痴と彼からほんのり漂う煙草臭に、麦野を出迎えたのは喫煙のついでだったのだろうと察した。風見は昨秋に麦野と共に採用試験を受け、彼は一足先に入社し現在はアジロの社員である。まだ彼については知らない部分が多い。


「あんたを急遽呼んだのは手が足りなくてね。とりあえずは力を貸してくれ」


 勿論、そのつもりだ。

 麦野は意気込んで大きく頷いた。





 総合棟の一室に入るなり、隅のパイプ椅子に腰掛けた風見がチョイチョイと手招きをする。


「業務に取り掛かる前に、面倒な事務手続きを済ませちまおうか」



 ――アジロ製造株式会社(以下、甲とする)と麦野日和(以下、乙とする)は、下記の通り雇用契約を締結する。甲は乙を本契約に定める雇用条件により雇用し、乙は甲の諸規定及び指揮命令に従い勤務する。本契約に定めない事項については、労働基準法及び関連諸法令の定めるところによる。――



 麦野は卓上に置かれた紙と、それを差し出した風見を見比べた。


「何ですか、これは」

「字が読めねェのか? あんたがこの会社に雇われるための書類だ。正式な入社は四月として、ひとまずはアルバイトという扱いになる」

「雇用契約書であることはわかります。そうじゃなくて」と麦野は羅列された条項を指差す。



 ――第■条 乙は心霊マネジメントシステムの事務局業務において強い責任感をもって専心その職務の遂行にあたり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努めるものとする。

第■条 乙はその職務の遂行に当たっては甲及び甲の指揮命令者(本契約においては風見輪昇介)の命令に忠実に従わなければならない。――



 間接部門の事務員を雇うのに、なぜこんな物騒な内容が雇用契約に組み込まれているのだろう。

 確かに前回の調査では生命が脅かされる危険な目にも遭ったが、あれは明らかに特例だ。

 風見の回答はなく、無言で差し出された朱肉の蓋を開くとインクの匂いが鼻孔をつく。ぬらぬらとした朱い顔料と、風見の光ない瞳を見比べ、麦野は流されるように鞄の口を開いた。空いた中身には財布、定期、電話、ハンカチ、筆記用具、黒色の手帳……そして印鑑。

 デスクの対面から風見は静かに窺う。朱く染めた印面を麦野がぎゅっと捺し付けるまで。

 口元を歪め、風見が「ここにも」と捺印を促す。言われるがまま麦野は契約書に印鑑を下ろした。


「これで契約は成立だ。それじゃあさっそく――」


 風見がさっと契約書を取り上げ、背を向ける。


「――事務局の業務を開始しよう」


 手に付着した朱肉をハンカチで拭い、微かに指先が震えるのに気付いた。情けないことにたかが紙切れ一枚に捺印するのに緊張したらしい。





 そうして聞かされたのが生産部一課に所属する黒木のインタビュー音声である。

 聞き終わり、麦野は大きく息を吐いた。


「これって憑依されているんでしょうか」

「先走るな。まだ心霊現象だと決まったわけじゃない」


 風見の冷静さが信じられない。こんなものどう聞いたって心霊現象に決まっている。ラップ音が本当は家鳴りだとかそういう次元とは違う。……現に、亡くなっているのだから。

 麦野は西B工場を舞台に起こった事件を思い出した。あのときは社員寮本館――通称旧診療所で過去に起こった監禁及び集団失踪事件と、西B工場にて保管されていた鏡に宿ったが相互に作用し、怪異を引き起こしたのだ。

 アジロの曰く付きの土地ならば北F工場にだって何かが棲んでいる可能性は否定出来ない。


「北F工場にも、本館にあった七不思議めいた怪談はあったのでしょうか」

「黒木は聞いたことがないと言っていたし、俺がざっと調べた限りでも聞かないな。北F工場はまだ建って五年程度、うちじゃ新しい部類の工場だから」


 怪談はなかった。

 それなのに今は心霊現象の体験談で溢れ返っている……。


「たった数ヶ月で……ということは、信憑性が高い気がしますね」

「どうしてそう思う?」

「ほら、心霊体験には思い込みの影響が強いって風見さんも言っていましたよね。元々『出る』と噂される場所だと人間はちょっとした物音や異変を幽霊だと紐付けてしまう。でも北F工場にはそういう噂がない訳ですから」

「どうかな」

「どう、って?」

「十一月から目撃証言が多発して、今は一月半ば――あまりに短期間過ぎる。集団ヒステリーということも考えられる」

「でも録音されていた黒木さんの様子は真に迫っていましたし……風見さんは実際に目の当たりにしたのでしょう?」

「ああ。その上で心霊現象ではない可能性があると言っている。狐憑きと呼ばれる症状の何割が本物の憑依だと思う?」


 麦野は口を噤んだ。

 狐憑き――精神疾患の症状だというのが最近の通説だ。それ位は麦野も知識として持っているが、こうして聞いてしまうとただの錯乱状態とは信じられない。いや、錯乱した人間なんて早々お目に掛からないので知らないが……。


「先入観を捨てろ。調査の基本だ」


 風見は、もう一度念を押した。

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