エピローグ

 夕方五時。寝過ごした――と思ったが、体が鉛のように重く、布団から動けない。あの面接の後、幸いにも始発から運行が再開し、二時間電車に揺られ、最寄りの店で電話を修理に出して、ようやく帰宅。

 雨水臭い体を洗い流して布団に潜り込めたのは昼を過ぎていた。

 枕元で代替機の電話が鳴る。


「もしもし……」

「おはよう」


 仮屋の声に、一気に目が覚めた。


「お、おはようございます」

「昨晩はお疲れ様。それで面接の結果だが――」


 早速の話題に、麦野は布団の上で正座をして構える。


「――合格だ。心霊マネジメントシステムの事務局として採用とする」

「え?」

「青ヶ幾参与の決定でねェ。もし厭なら辞退出来るよ」


 思っていた職種とは違ったが、念願の内定には違いない。


「や、やらせてください」

「ああ、そう……。内定式は終わっているから個別にまた来所して貰うことになる。日程は追って花丸から連絡させるよ」

「承知いたしました」

「じゃあそういうことで。何か質問はあるか?」

「馬榎さんの様子はいかがでしょうか」

「……意識はあるが、ひどい錯乱で復職は難しいだろうと思う。青ヶ幾参与曰くそれが呪術の代償だそうだ……が、俺の見解では今回のことが原因ではなく、ただ単に日頃の不摂生が祟って健康を害したのだろうと思うねェ。陣沼さんも同じだよ。当社に派遣される前から病気を患っていたようだし、どちらもアジロに責任はない。ましてや鏡だの呪術だの……莫迦莫迦しいったらありゃしないねェ。麦野さんも余りあの男に感化されないように」

「は、はい。気を付けます」


 仮屋はお説教を好きなだけ垂れた後、「じゃあまた後日」と通話を切った。

 麦野は少し考えて、玄関に置きっ放しにしていた鞄から手帳を引っ張り出し、電話の内容を記録した。



   *



 東京都の外れにある街――南渡市。

 地形から水害に見舞われやすく、水への恐怖心から独自の土着信仰が形成された。迷いこんだ魔は、舟に乗って南渡を目指してくる。舟がやって来ると伝わる方向に水門を造って閉ざした。だから〈〉……。

 豊後に教えられた由来は市やアジロのホームページのどこにも記載はなかったが、麦野はその逸話こそが地名の由来であると信じている。この身で体験したのだ。陣沼と馬榎を唆した、あれこそ畏れられた魔。その存在が真実なら水門の存在も真実かもしれない。

 薄汚れた車窓に燦々と光が反射する。

 電車は南渡へと向かう。

 今日は内定承諾の手続きのため、総務に呼ばれている。前回の教訓を活かして社員専用バスの時間を花丸に確認しておいた。昼にも一本、アジロと駅を往復すると聞いている。




 駅前のロータリーでは秋の陽気な日差しの下を鳩がご機嫌に闊歩しており、のどかな風景だ。

 バスの到着を待つ麦野の肩を誰かが叩いた。


「あっ。風見さん!」

「よう。内定おめでとう」


 お祝いの言葉をくれるとは意外である。昼の中途半端な時間に出社とは、一体どんな勤務になっているのだろうか。


「晴れて俺の部下だな。以後よろしく」


 握手を求められ、どれだけこき使うつもりなのかな……と不安を覚えながらも握り返す。


「実は、面接のときから麦野はこの仕事に向いていると思ったんだよ。騒ぎにも動じないし、直ぐ記録は取るし、俺の仕掛けに怯まないし、人とズレた鈍臭さがまさに適任だってな。さすが俺様の目は間違っていなかったぜ」


 ふんぞり返る御仁に小言を申す気も起きない。最初から、手足になる部下が欲しくて麦野を狙っていたと考えれば色々と腑に落ちる。


「そうだ、これ――」と麦野はポケットから藁細工を取り出した。


「――先日、お返しするのを忘れていたんです。ありがとうございました」

「ん? それか。やるよ」

「良いんですか?」


 魔鏡と同じように、霊験あらたかな道具だったりするのではないだろうか。


「どこかの温泉地で買った土産物だ」


 期待が外れ、麦野は「はあ」と落胆の声を漏らした。


「では有難くいただきます」


 バスが到着し、数名が降車した。麦野と風見は空のバスに乗り込む。


「そうそう。秋場は退職を撤回したぜ」

「良かったですね」


 きっと豊後も喜んでいることだろう。


「西B工場の監査は終わった。指摘事項があり過ぎて絞るのが一苦労で……あんたも入社したら山程仕事があるだろうから、せいぜい今の内に大学生活を謳歌しておくんだな」


 風見による監査か。

 沢之内と白川の狼狽が目に浮かぶようだ。


 アジロに近付くと、聞き慣れたサイレンがかん、かん、かん……と響いていた。

 バスは正門の前で二人を降ろした。麦野と風見は、聳え立つ門扉を見上げる。ふと警備員に内定を報告しようと思い立った。きっと今日も社歌を歌いながら働いているのだろう。


「どうした?」

「警備員さんにご挨拶をしたかったのですが、今はいらっしゃらないみたいですね」

「何言っているんだ。ここの守衛所はずっと無人だぜ。ほら」


 守衛所には〈来客はこちらに記名をお願いします〉と書かれた名簿と、〈受話器をあげると受付に直通でつながります〉と記された電話が置かれているきりで、守衛所にはがらんとした部屋が垣間見えるだけだった。部屋は完全に物置と化しており、普段誰かが過ごしているとは思えない。


「昨年に門扉の開閉が自動になって、警備室は別にあるそうだが」

「で、でも。先日はいらっしゃったんですよ。いつも社歌を歌っているご機嫌な警備員の男性が――」と言い、上手く顔が思い出せないことに気付く。あの間延びした歌声は耳に残っているのに。


「これも改善の余地あり――ですか?」


 麦野が風見を見上げると、彼は少し考えてから答えた。


「その呑気そうな男の霊が、一体何のリスクになるって言うんだ?」


 ごうん、と軋み、門が開いた。


 晴れ渡った秋空を鳥の群れが横切って飛び、サイレンが鳴り響く。白煙で霞む風見の背中を追い、麦野はアジロに足を踏み入れた。






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