第38話 返還
指を曲げれば爪が揃い、開けば手の皺が伸びる。拳を握れば体温を感じる。麦野は身体に戻れたことをしみじみと実感した。
凪いだ水面に人影が浮かび上がる。
――あれは……馬榎主任!
誰よりも早く米山が飛び込み、馬榎を助けに向かった。
「息がある!」
弥彦と豊後が手伝って馬榎を引き上げ、通路に横たわらせると、彼が頭だけを起こしたのが見えた。心から安堵する。
車椅子の車輪がコンクリートに擦れる音がし、振り向くと青ヶ幾が「ご苦労様です」と鏡を立たせた。
「お顔が汚れていますよ」
「……そうですね」
「頑張った証ですな。ほっほっほっ」
――ああ、私の顔だ。
絆創膏が剥がれ、僅かに傷跡が残った頬に触れると鏡面の自分も同じように頬に触れた。こんな当たり前のことが懐かしく感じられる。
「麦野さん。無事で良かったわ……」
花丸が麦野を抱きしめ、それを横目に、風見は青ヶ幾に詰め寄った。
「ったく。探し物は馬榎ではなく、馬榎が持ち出したその魔鏡だろ?」
「ほっほっほ……」
青ヶ幾は笑って誤魔化し、罅割れた鏡面を優しく撫ぜる。
「とんだ狸爺だぜ。西B工場の魔鏡はすべて所謂〈雲外鏡〉だな」
青ヶ幾は白髭を揺らして頷いた。
「それって鳥山石燕が『百器徒然袋』に描いた妖怪ですか?」と麦野はつい口を挟んでしまった。
こんな目に遭ってもなお、好きな話題には胸は高鳴るものらしい。
「石燕の描いた雲外鏡は、魔を破るとされる〈照魔鏡〉が付喪神と化した妖怪であるという解釈が主流ですな。西B工場に保管する鏡はただの魔鏡であり、特別な力は有しませんから、その定義に依るならば雲外鏡とは別物です。ま、ここではそう呼ぶことにいたしましょうか。名付けることに意味がありますからね」
「ご尤もです。それで、あの、青ヶ幾さんは一体何……」
「陣沼はあんな罪を犯しておいて、どうして人として死ねたんだと思う?」
麦野の言葉を遮り、風見は自分の質問を重ねた。
「さあ。私にもわかりません。天は気まぐれですから、乙女の祈りが通じたのかもしれません」
青ヶ幾は茶目っ気たっぷりにウインクをした。反応に困って風見を見上げたれば、風見も参った表情で首を振る。
「鏡とは神事にも呪いにも用いることが出来る便利な道具です。目的は使用者に委ねられるもの……ですが、陣沼さん達は魔の凶悪性に負けて呪術の主導権を奪われたのですな」
「最初に魅入られたのが陣沼の馬榎のどちらだったのかわからねェが、負の感情が同調してしたんだろ。鏡に憑かれた陣沼は、あんたと自分自身を生贄に呪術を行おうとした」
「その通り。しかし疲れました。詳細は、また後程話すことにいたしましょう」
花丸が青ヶ幾の車椅子を押して出口へと向かい、麦野は押し流された鞄を拾った。
中身を確かめると財布に定期券、電話に手帳……その他の所持品は波に浚われてしまったらしい。まあいいか。必要な物だけあればいい。
前髪から滴る雫がぽたりとコンクリートに染みた。何だか気持ちが軽くなった気がした。
弥彦、米山、豊後がこちらに手を振っている。応じて対岸へ手を振り返すと、三人も大きく腕を挙げた。
――皆、無事で本当に良かった。
「…………っ」
突然風見がその場に蹲った。慌てて支えると、その額には玉の汗が光っている。
「風見さん、大丈夫ですか」
「少し消耗しただけだ」
「そうだ、出血は? 豊さんから血塗れだったと聞いたんでした」
「血塗れェ? まったくあのおっさんは、怪談好きが高じていちいち大袈裟なんだよ。額を切って流血しただけだ。行くぞ」
麦野の肩から鞄を取り上げて真っ直ぐ出入口へ向かうのを、横について追いかける。
「でも一○六号室の鏡に血液で文字を書いたのは風見さんでしょう? あれを書けるってことは結構な出血量だったのではないですか?」
額の傷を心配する麦野を見て、風見はニヤリと笑った。
「今度は引っ掛かったな」
「え?」
「あれはインクだよ。ああいう状況下で、血文字の警告はお約束かと思って」
「ええ……? 確かに鉄の臭いがしたと思ったのですが」
「あそこの部屋自体が死体臭かったから錯覚したんだろ」
風見は顔を綻ばせる。何がそんなに嬉しいのか……やはり理解に苦しむ、と麦野は思った。
しかし。
「ありがとうございます」
「何が?」
「その……」
説明に迷っている内に風見は不可解そうに首を傾げ、すたすたと歩いて行ってしまう。
馬榎は地面に座り込んだまま虚ろな目で呆然としていた。
「……ここは寒いですね……」
「ずぶ濡れだかンな。歩けるか、馬榎?」
「あっちは坂道が多いんですよ」
「あっちってどこだ。何があったかしらねェけどよ、無事で何よりよオ」
「坂道に右足を置いてきてしまったんですが、今から取りに行けますかね?」
「はア?」
言葉は要領を得なかった。馬榎は魔に連れ去られた先でどんな目に遭わされたのだろう。あちら側はどんな世界だったのだろう?
あの鏡の魔は反吐が出るほど意地が悪かったから、碌でもない世界であることは間違いない。
「馬榎さん。もう怖がらなくて大丈夫ですよ。ここに居た悪いものは、もう居なくなりましたからね」
「あっああ、悪霊!」
麦野は語りかけるのを諦めた。一度刷り込まれた恐怖心をリセットするのは難しい。
「馬榎主任が見つかって安心した。一時はどうなることかと思ったよ」
「米山さん。よくここがわかりましたね」
「花丸先輩から電話を貰ってね。あの倉庫を探してみたら……まさか西B工場の下に地下道が通っていたなんて知らなかったよ。構内図には書かれていないのに」
天井を見上げる。地下貯水池に続くための道ならわざわざ鏡の裏側に隠しておく理由がない。隠さねばならない別の目的があった筈。ましてや旧診療所の一○六号室まで道を掘る必要など、どこにもないのだから。
「馬榎主任を連れて上に戻ろう。ここは危ないし、僕らが勝手に入ったなんて知れたら仮屋課長にぶつくさ厭味言われちゃうよ」
「ああ、言うとも。米山」
声に振り向くと、何と仮屋が立っているではないか。風見は無視して通り過ぎる。
「誰も総合棟に帰って来ないから捜したんだぞ。降雨中に地下に入るんじゃない!」
「ひっ。す、すみません……」
「まったく、青ヶ幾参与がついていながら」
「ほっほっほ。仮屋課長、ご心配をお掛けしました。お陰様で馬榎主任も見つかりましたよ」
「おや。それは何よりです」
「貴方が勝手に貸し出した非常用鍵を持っているでしょうから、回収をお願いします」
「あ、ああ、そうでしたね。承知しました」
「それから私の判断で風見さんは正式採用とします。追って、入社の手続きを依頼いたします」
仮屋の表情は面白くないという風に歪んだ。
「そうそう。社員が行方不明になったのに、上司への報告もなく退職扱いで話を進めるのはいかがなものかと思いますよ」
「……もしかして、西B工場に派遣されていた陣沼のことでしょうか。彼女なら派遣会社と話がついていますから問題ありません。生産部の上司に報告がなかったのだとしたら馬榎主任の落ち度でしょう」
「それはその通りかもしれませんね。ちなみに貴方の上司は明日戻ります」
「は」
「たまにしか帰らない人ですからね。今回の顛末、貴方から上司に報告するよう命じます」
青ヶ幾は「では。ほっほっほ……」と花丸に車椅子を押され、仮屋を通り過ぎる。それに米山も続いた。
「あ、あの……」
「何だ」と仮屋は不機嫌に、麦野を見下ろした。
「社員証、西B工場に落ちていました」
麦野は会釈をし、出口へと向かった。
嵐が嘘のように、雨は止み、風は凪いでいた。雲間から月明かりが朧に照らす。夜風が優しく吹き、麦野の長い黒髪を揺らした。
――それは長い残暑の終わりを感じさせた。
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