第37話 下り電車

 夕暮れ。

 洗面台も、風呂場も、玄関も、ワンルームの部屋にあるすべての鏡に黒いごみ袋を貼った。カーテンの継ぎ目は縫い付けてある。手鏡はすべて捨てた。


 ――私、いつの間に帰宅したの? 採用試験はどうなったの……?


 幻覚にまったく効果の無かった処方薬がテレビ台に無造作に置かれている。ごみ箱は書き損じた履歴書で一杯だ。


『この出来損ない!』

『不採用です』

『出来損ない出来損ない出来損ない』

『不採用不採用不採用不採用不採用あはは』


 ぷつっとテレビを消した。

 布団にくるまって顔のない人形を抱いてみるけど孤独は癒えない。

 自分が何のために育てられ、両親は自分を何に仕立て上げたかったのか、今となってはどうでもいいこと。


うちが何の宗教を信仰していて、ひとり娘を何の神様に仕立てたかったのか、未だに知らないんです。祖母は語りたがりませんから。狂騒の内に家族が離散してからというもの祖母に育てて貰いましたが、母と絶縁していた祖母にとって、私の存在は降って湧いた異分子でした。しかも、他とは違う育てられ方をしたとっておきの。いつなんどき非行や奇行に走るかわからない。祖母が常に怯えているのが可哀想でした」

「……貴方は悪くない……」

「祖母の心配を余所に、わたしは新しい環境にみるみる馴染んだんですけどね。元来、与えられた役割に染まるのは早い性質なので。でも祖母の顔色を窺って息を潜めて生活するのはずっと面接を受けているみたいな気分で、お互い疲れ果てて、大学進学を機に上京したんです。見送る祖母の安堵した顔は忘れられません」

「……貴方にも居場所が無い……」

「居場所が無かろうと、家族を失おうと、挫折しようと、降りられない人生の過酷さに耐えるのに民俗学は実に適していました。風習も、民話も、怪談も、歴史や文化や世相……どんな事柄にも理由をつけて、個人の非にせずに考察するやさしさがある。浮き世離れした味付けは凡庸な体験談すら御伽噺のように思わせます。私の生い立ちも同じです。事例の一つでしかありません」


 麦野は手帳を取り出そうとし、指先は空を掴んだ。あっと気付いた目の前に、生前の陣沼香苗が立っている。


「……わたしと貴方は似ている……」


 香苗が真円の鏡を取り出した。あのとき馬榎から預かった魔鏡だ。


「私は貴方に殺されたんですね」

「……大丈夫。貴方は鏡の中で生き続けられる。人の輪から完全に外れられる。誰にも傷つけられないし、誰の目を気にすることもない。永遠に穏やかで、安心がある世界。貴方がなりたかった神様の世界……」

「そんな世界があるのなら、どうして香苗さんは行かないんですか?」

「わたしは……行けない。会いたい人がいるから……」

「うらやましいですね」


 本心から言葉が漏れた。


「そんな大切な相手がいるのに、どうしてこんなことをしたんですか」

「どうしてって……」


 香苗の瞳が戸惑う。

 その睫毛が涙で濡れる。


「……わたし、どうして死んだんだっけ……」


 ぽつ、またぽつりと粒がフローリングに落ちる。

 香苗は何かを振り払うように髪を振り乱した。


「……違う。違う、違う違う違う。わたしは正しい形になる。そのために……」

「香苗さんが会いたかったのは私じゃないですよね? 馬榎主任? 妹さん?」

「……知らない知らない知らない……」

「誤魔化してはいけません。香苗さんの話は貴方自身が紡がなくちゃ。家族のことも、厭な出来事も、アジロで出会った人達との記憶も、全部香苗さんのものでしょ。甘い声に惑わされないで!」


 握り閉めた左の掌に違和感を覚えた。ゆっくりと指を開くと草の匂いが広がる。雪帽子のような藁細工。これは……何だったかな。自分も何か、忘れている気がする。


「……う。うう。わ、わたし……いいいいぃぃぃいいい。こ、こんなわたしを馬榎主任が好きになってくれる筈がないもの……わたしのままじゃだめんです。だから鏡が、鏡の向こうに本当のわたしが、わたしの大勢の味方が居るんだってわたしがわたしに教えてくれて、そう、あちら側に居るの。居る。居る。居ますよ。居ますよ。居ますよ。居ますよ。居ますよ。居ますよおおぉ」

「香苗さんっ!」


 沢山の声が、耳から、頭の中から響き、麦野は耳を塞ごうとしたが、右腕が根元から腐り落ちて音もなく落下する。


 ――そうだった。私の体は香苗さんに盗られたんだった。


 腹から内臓が零れる。血液はもう足りず、濁った体液が漏れ落ちる。その足元に広がる闇から生えた無数の腕、腕、腕。足首に腿に腰に纏わりついて底無し沼に引き摺り込もうとする。

 あの藁細工。あの人から渡された。

 誰だっけ……あの……あの人。

 手を伸ばした先、光の輪に麦野自身が立っている。別れを告げる。首を締められ、唇をこじ開け、喉奥まで奴らが侵入する。数百数千の指が目を塞ぐ。ああ、私が私を置いて行ってしまう。どうしてこうなったのか。もう上手く思考が出来ない。ここがどこかもわからない。厭だ、怖い。死ぬのは怖い。死にたくない。一人で置いて行かれるのは怖い。恐怖も、後悔も、すべての感情が自分を置いていく。ぐるぐると回る。巡る。季節が――


 ――私を置き去りにして巡ってしまう。




「おい――」


 突然左腕をぐいと掴まれ、ぱっと視界が拓けた。二、三歩よろめいて駅のホームに着地し、背後で扉が閉まる。


「――危なかったな」


 背後で電車が過ぎ去ってゆく。

 大勢の乗客達の哭声が遠ざかる。


「まだ採用試験は終わってねェぞ」

「試験……」

「ああ。皆待ってる」

「皆……」


 誰も居ない駅のホームに、どこからか風が吹いた。奇妙な香り。どこかで嗅いだ懐かしい匂い。

 彼の金髪は私が好きだった季節の、黄金の穂先によく似ている。



「――風見さん?」



 空気が変わった。

 例えるなら満員電車が急に空いたような。

 声が、声が出た。


 ――私の声!


 驚きと安堵が混じり合ったのも束の間、灼けつく痛みが背中に走る。服が燃えている。


「父なる黒龍よ南方へ 急急如律令!」


 青ヶ幾が掠れ声で早口に唱えた。水が昇り龍のように立ち、焔を包むと、奇樹ごと呑み込んで氾濫した。

 水路は波打ち、通路を水がさらう。

 すべてを清めるように。

 瞬く間に炎は鎮火してゆく。



「是にて、閉門」



 一帯が振動し、龍は潜ったまま現れなかった。青ヶ幾はお得意の笑い声をあげる気力もなく、車椅子に腰を下ろし、ぐったりと頭を垂れた。

 風見は通路に横たわった麦野を起こし、頬を二、三度叩き、肩を揺さぶる。


「麦野、大丈夫か。麦野!」

「痛い……風見さん。私さっきまで自宅に……それから駅にも居たような……」


 焦げた袖を見て、それから自分の掌に目を落とし、麦野は自分が自分を取り戻したことを理解した。


「香苗さんは……?」


 風見が無言で指差した先に、貯水池の真ん中にささくれた小枝のように細い腕が生えている。変形した陣沼の亡骸は、もう人の形を留めていない。

 麦野は風見の手を借り、水際に寄った。時折、小さな泡が水面に浮かぶ。彼女の魂はあの骸に閉じ込められている。断末魔と呼ぶには余りに哀れだ。


「魔は祓われた。よって陣沼の呪術は不成立だ」

「彼女はどうなるのですか」

「永遠に無を彷徨う。それが呪術の代償だ。他人を乗っ取るなんざ土台無理な話なんだよ。あの女は自ら身を滅ぼした」


 腕は殆ど沈み、もがく指先だけが見える。


「でも。香苗さんがああまで暴走してしまったのは、魔に取り憑かれた所為ですよ!」

「不運だ。だが元より素質があったのには違いない」

「香苗さんはもう十分苦しみました。こんなのって……」

「聞き分けのねェことを言うな。どんな物事にも取り返しのつかないことはある」


 こんな結果が彼女の魂の行き止まりなんて、何の余地も与えられないなんて、あんまりだ。


「香苗さんの標的は私でした。その私が許しても駄目なのでしょうか」


 風見は目を見開いて麦野の表情を覗き込んだ。信じられない、というように。


「許す、か。神でも居るのなら話は別だがな。俺には、青ヶ幾さんにも、こればかりはどうにも出来ない」

「人に害為す〈魔〉が居るのなら、〈神〉も存在すべきだと思いませんか。片方しか存在しないなんて均衡を欠いています。そんなのおかしい」


 言葉が止まってくれない。どうしてこんなに感情がうねるの。自分でも訳がわからない。青ヶ幾も聞いているのに理屈が通らない持論を述べて、減点もいいところだ。癇癪を起こした子供みたいに涙が留めなく流れて喉が熱くなる。


「神は居ると思います!」


 いや。神など居ない。

 そんなことは十分身に染みてわかっている。


 ――けれど、もし……もしどこかに居るのなら、神か、それに類似する何らか、何でも構わないからこの祈りを叶えて欲しい。

 陣沼さんを救ってくれとまでは言わない。だけど自分を愛したくてずっと苦しんだ彼女が、死後も孤独に苛まれるなんて重過ぎる罰だ。せめて、どうか。


 水鏡がぐわんと反転した。


「何だ?」


 驚いて天井を見上げた麦野の隣で、風見も疑問符を漏らす。ばらばらに離れた陣沼の四肢が浮かんで見えた。落下しない不思議な水の塊はみるみる透明度を増し、せせらぎ、雨粒になって頬を濡らす。

 ぽつ、ぽつ。

 陣沼がゆっくりと水に沈んでゆく様はまるで魂が天に昇るようだった。

 消えゆく瞬間の彼女を麦野は見た。確かに見えた。腐敗した肉体ではなく、生前の姿を取り戻した陣沼香苗の――安らかな顔を。


「あんたの祈りはほんの少し、届いたらしいな」


 豊後の言葉を思い返す。


 ――嘘か誠か、この土地は神域って話――


「本当に……?」

「さァな」と風見は肩を竦めた。「人間は生き返らねェのが不可逆の規則だが、死後のことはわからない。あちら側にはあちら側の規則があるのかもな」


 そう言って、風見はそっと両の掌を合わせ、一つ、また一つと消える水泡に向かって拝んだ。

 麦野もそれに倣い、そっと合掌する。



 ――願わくば、彼女の魂が、い場所に流れ着きますように。

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