第36話 善悪

 麦野日和は水底へ沈む。

 この世のすべてに別れを告げて。

 襤褸々々の皮膚が、腐敗した臓物が、あぶくとともに散佚するのが見える。濁った雨水の生臭さが不快な腐臭を誤魔化すのが幸いだ。尤も、彼女に嗅覚はないが――もう五感もない――痛みもなく、苦しまず――ただ沈みゆくのみ。

 その様を観察していた陣沼は、旧い器に最後の言葉をかける。

 さようなら。

 お前の負けだ、と。


 ――瞬間、ざぶんと波が荒れ、落下した風見の手から魔鏡が離れた。顎まで水に浸かりながら、陣沼はすかさず水面を掻く。あの男、風見とかいう野郎が所持する鏡も欲しい。二枚ともこの手にあるべきなのだ。あれはわたしのものだ。

 その指先が鏡の縁に触れるか触れないか、陣沼は後方に引き戻された。鏡が再び遠ざかってしまう。陣沼は自分を妨げた男を睨み、爪を立てて飛びかかった。

 先刻から邪魔ばかりする、こいつ……弥彦。

 咄嗟に顔面を守った腕の皮膚が破け、弥彦はぐらりと平衡感覚を失った。高揚を抑えられない。殺したい。いつか妹に殺意を抱いたときと同じ種類の熱が籠もる。容赦なく弥彦の頭を掴んで水に沈め、ぶくぶくと泡が立つ様を愉快に見下ろす。逆らうのなら死ね、死ね、死ね。

 だんだん弥彦の発する泡は小さくなり、何らかの影があぶくの群れを横切った。


 ――何?


 不意をつかれ、顔に水飛沫が浴びせられる。遮られた視界が再び晴れたとき、目に飛び込んだのは拳を振りかざす、米山の姿。

 ……が、米山が躊躇したほんの一秒の隙を見逃さなかった。だからお前は甘いんだよ。陣沼は弥彦から手を離し、米山に全体重を乗せた。中途半端な奴は嫌いだ。米山が呼吸しようと口を開いても、ぱくぱくと上唇と下唇が魚のように動くだけで、何にもならない。お前だって何にもなれない。お前も、お前も、お前も同じだ!



 ――三人の泥仕合を余所に、もう一枚の鏡はゆらゆらと水面を滑ってゆく。大きな波がたぷんと鏡を対岸へ運び、何者かがそれを拾った。



 背中に何か触れた。弥彦だ。しぶとい。こいつ、まだ生きているなんて。呼吸は荒く、頬はまだ鬱血の名残があり、腕の傷など気にもせず……彼はこの器に、麦野日和に固執している。

 ならば、と陣沼は問いかけた。


「弥彦さん。どうしてですか?」


 弥彦は驚愕して足を止めた。口振りはまさに麦野日和そのもの。


「弥彦さん、米山さんも……どうしてそんなに往生際が悪いのでしょうか。わたしはすべきことをしているだけなのですよ。お願いですから黙って見守ってください」


 水面から一本の腕が生えた。そして一本、また一本と白い腕が現れ続け、貯水池はたちまち腕の海に覆われる。皆だ。皆が鏡から抜け出せるようになったんだ!

 皆、おいで!

 青白い指が弥彦の脚を腕を絡め取ると、先刻までの勇みはたちまち消え失せ、恐怖だけが顔いっぱいに広がる。なんて気持ちいい。


「大丈夫、怯えないでください。何も怖いことは、苦しいことは、厭なことはなあああああんにもありません! ここには皆、みいいいんな居ますからねえ。あなたも、あなたも、さみしくない。いいい一緒、ずずずずうっと一緒に居ましょうねえええぇぇぇ」


 米山の首を絞める手が、いつの間にか陣沼ではなく何者かの白い手に変わっていた。首に筋が浮かび、顔が鬱血し、米山は呻き声も出せない。


「ほら……ここには沢山、居ますよお」


 満足そうに微笑んだ陣沼が指差した貯水池いっぱいに、白い人影が蜃気楼のように揺らいで佇んで。

 白い人影の群れは、意識を失った弥彦と米山を巻き込んで、ゆっくりと行進を始める。陣沼は水を掻いて先頭に加わった。ふと、もう一人の男の姿がないことに気付く。風見――。

 そのとき、隊列が突如、乱れた。水面下を泳ぐ何かが行進の邪魔をしているのだ。白い人影は歩みを止め、不安定に身体を揺らして水底を眺める。

 ぎらりと魔鏡の面が波打つ。

 応ずるように池からぱしゃんと水飛沫があがった。陣沼は瞬きもせず、水面下を蠢く何者かの影をじいっと凝視する。


「――母なる黒龍よ東方へ 」


 誰かが言葉を発した。

 声のした方、対岸の通路に誰かが居る。車椅子に腰掛け、片割れの鏡を持つ、あれは?

 風見ではない……知らない……誰だ?


「ほっほっほ。ようやく私の番ですね」


 鏡を胸に抱き、その老人は深く息を吐いた。車椅子を押す女の顔を見たとき、なぜだか胸が軋んだ。

 再び飛沫が立った。

 ぬらりとした皮膚が、鱗が、そして背鰭が垣間見えた。ミミズのような……大蛇にも見える……それは余りの巨大さに頭も尻尾も判別出来ない。硬いのか柔らかいのか、透明なのか暗闇なのか……。


 まさにそれは異界からの訪問者。


 影の本体が現れると、それを忌避して人波が割れた。陣沼は鏡を握り、得体の知れない訪問者を仰ぐ。

 規則正しく生え揃った背鰭は、一度ふっと羽毛のように横たわったかと思うと直ぐにのた打ち始め、ありとあらゆる方向へ折れ曲がりながらぐんぐん成長し始めた。まるで樹木が天に向かって伸びるが如く。

 四方に分かれた背鰭が地下天井を覆い尽くす頃、訪問者の胴体は硬く巨大な幹となり、完全な樹木に成った。

 その樹木は枝葉を茂らせ、黄色に、そして紅く染まり、はらはらと紅葉が一面に散り、実った果実が老人の手元目掛けて落ちた。

 皮ごとかぶりついた老人の口元から果汁が滴る。その様も、耳障りな咀嚼音も、陣沼を不快にさせた。

 陣沼は通路に這い上がり、水を吸って重くなった上着を脱ぎ捨てる。その背後から先端が五本に分かれた枝が絡みつこうと伸びるのを、陣沼は魔鏡で難なく跳ね返した。

 人影の群れが巨木に辿り着き、根元からぞろぞろとよじ登る。枝を折り、木肌を剥がし、樹木を啜る。さながら蟻に食い尽くされる哀れな獲物の様相。


「青ヶ幾さん……これじゃ多勢に無勢だわ」


 枯れ果てた樹木は細く、乾き、今にも死に絶えそうである。


「落ち着いてください、花丸さん。何の問題もありません。この老い耄れは世の歯車から脱落しつつありますが、は、鏡さえあればもうひと頑張りしてくれます。鏡は光を集めますからね。ほっほっほっ。その光は闇が濃ければ濃い程に眩しく照らします。それは世俗も同じ。人事を担当する貴方ならば実感することもあるでしょう」

「それって……」


 女は言葉を切り、老人の前に立ちはだかった。この女を見ていると、もう感じる必要がない筈の悲哀や嫉妬が思い出される。


「陣沼さん。麦野さんの身体から出て行って。どんな事情があっても他人の人生を奪うなんて許されないわよ!」


 陣沼は首を傾げた。何を言っているのだろう。霞がかかって蘇らない記憶の向こうに、この女に対する確かな羨望が燻っている。前に、何かを奪われた気がする。この女に屈辱を受けたのだと思う。


 そうだ、お前の言う通り――許せない。


 白い人影が一斉に、こちらに顔を向けた。そして巨木を痛めつけるのを中断し、わらわらと女と老人の方向へと集う。

 女は怯え、しかし老人を守るように手を広げる。その仕草すら憎らしい。陣沼は鏡を翳す。


「無駄ですよ。貴方にその鏡は使えません。父なる朱龍よ西方へ 」


 それが合図らしかった。突如として、聳え立つ巨木が炎に包まれたのだ。樹皮がぼろぼろと零れ始め、その奥から紅の鱗が輝いた。焔は燃え盛り、地下が猛烈な熱気に支配される。呼吸する空気すらも熱い。人影は焼け、悶え苦しみ、けたたましい悲鳴が耳を劈いた。

 地獄絵図とは、このことだ。

 大勢の叫び声に呼応するように、鏡面から無数の腕が出現する。


「居るよ」

「居ますよ」

「居ますよ」


 まだ、皆が居る。

 陣沼は安堵した。しかし現れるや否や腕は焦げてぼろぼろと落ちてゆく。肉が焼ける臭い、骨の覗いた腕、助けを求めるように存在を主張する声――あまりの凄惨さに慄き、陣沼は鏡を取り落とした。

 直後、鏡は空中で焔に包まれる。鏡面にぱき、と罅が入り、大勢の断末魔が響き渡った。


「居ますよ」

「居るよおう」

「居ますよううう」

「居ますよおおおあ」

「ああ、あああああああ」

「居るってばああああああ」

「居ま」


 陣沼はもう鏡など構いもせず、一目散に出口を目指した。その行く先に豊後が立ちはだかり、香を突き出した。

 行き場を失い、陣沼は惑う。



「……おかしいですね」


 優勢に立っている筈の青ヶ幾の顔が曇った。


「魔を祓えば麦野さんが戻って来ると見込んでいたのですが……駄目です。随分と遠くへ連れて行かれてしまったらしい」

「そ、そんな。遠くって?」


 青ヶ幾は繰り返す。


「人が届かない、彼方です」


 理解出来ずとも只事でないことは肌でわかった。花丸は涙目で青ヶ幾の膝に縋りつく。


「それじゃあ麦野さんはどうなるんですか。死んでしまうんですか。彼女は陣沼さんとも馬榎主任とも……そもそもアジロと無関係だったのに、そんなの……あたしの所為だわ。麦野さんを面接に呼んでしまったから。あたしが」

「麦野さんは彼女自身の因縁によって呼び寄せられたのです。そして、その縁はまだ辛うじて繋がっています」


 焦げ落ちていく魔が、弥彦や米山、豊後、そして陣沼にも手を伸ばした。道連れにするのだ。一人でも。一人でも多く。


「……母なる朱龍よ中央へ!」


 炎がみるみる樹木を焦がした。

 樹皮はたちまち塵となり、地下は突如闇に包まれる。樹木の内から脱皮するように現れた蛇……否、龍は、一哭きですべての魔を散らした。

 もう白い人影も、異形の腕も、どこにも居ない。陣沼は蹲って泣いている。それなのに、ただ一人、帰って来ない。


「風見さん、どこですか。返事をしなさい!」


 青ヶ幾が叫ぶ。

 暫くの沈黙の後、水面から金髪が現れた。前髪で隠れていた傷跡が露わになり、血が滲んでいる。彼は陣沼の亡骸の破片を手にしていた。見つからない、ばらばらになった彼女は集めても足りない。冷え切った体温の所為か、滾る感情の現れかはわからないが、彼の唇は小刻みに震えている。

 車椅子を降り、青ヶ幾は路の縁に指を掛けて前のめりに風見を覗き込んだ。


「最悪の結果だぜ。リスク管理の怠慢、いや、事務局の……俺の力量不足だ」

「自責も問題分析も後回しですよ、風見さん。水鏡を覗き込みなさい。貴方なら麦野さんに届くかもしれない」

「俺が?」

「ええ。早く」


 言い終えずに青ヶ幾が苦し気に胸を掴んだ。その手から魔鏡が滑り落ちる。すんでのところで花丸が受け取り、落下は免れた。


「麦野。どこだ」


 波立った黒い水面には己の顔も、魔の影も、麦野の姿も見えない。

 虚無に向かって、風見は力の限り叫んだ。



「麦野! 帰って来い!」



 ――その瞬間、薄れかけた麦野の意識がほんの僅かだけ、自我を取り戻す。

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