第35話 合わせ鏡
夏の緑を駆け抜ける。
みんみん蝉の声を真似すると合唱の一員になったようで楽しい。
水田の対岸から子供達がこちらを指差した。……あ、楽しそう。大きく手を振ってみる。すると彼らはわっと蜘蛛の子を散らしたようにして走り去ってしまう。
麦野は行き場を失った手を下ろし、ついでに指に付着した泥を赤い前掛けで拭った。
とん、と背中が押される。
眼前に地面が迫ったかと思うと口に苦味と
どっと笑い声。
「呪われた家の子!」
一人になって、自力で田圃を這い登った。ランドセルが重くて持ち上がらない。仕方なく肩紐を持って引き摺って帰る。
痛くない。
学校から帰れば、やることが山積みで忙しい。皆はすでに待ち構えているから。
「いい加減にして。早くお風呂で身を清めて着替えなさい。お祈りの時間が始まりますよ」
烏も驚く速度で水浴びをし、いつもの着物と赤い前掛けを締めて、お座敷の高座に上った。
大人達のニコニコ顔がお地蔵さんみたいに並んでいる。
「ありがたや、ありがたや」
「ありがたや、ありがたや」
「ありがたやああああぁ……」
「さあ、お供え物です。召し上がれ」
――呪われてなんか、無いもん。
我が家は規則が厳しいだけ。
毎日決められた時間に起床し、決められた物を食べ、決められた日課を行い、決められた衣類を身に付け、決められた時間に眠る。
持ち物は教科書やハンカチ、ティッシュ、水筒、手帳、御守り、数珠、お人形、裁縫箱、絆創膏、懐中電灯、非常食、それから……母が用意する物は多過ぎてわからない。彼女は常に何かを恐れているのだった。だからランドセルは重過ぎる。
学校ではしょっちゅう服は汚されて、時にほつれたり破れたりもしたが、それについて両親から理由を尋ねられはしなかった。お祈りをしている間に、ランドセルは何事もなかったかのように綺麗に拭かれて部屋に鎮座している。
「麦野さん、また宿題をして来なかったの? 自分でやれないのなら家の人に手伝って貰いなさい」
教室でくすくすと吐息が波紋のように広がった。
「麦野さんの親に注意すべきだと思いまぁす」
「宿題はしないのに学校に必要ない物を持ってきたらいけないと思います。麦野さんだけ特別扱いは反対でぇす」
「……先生だって厭なものは厭です」
「あははははっ。麦野さんの家、先生にも怖がられてるぅ」
若い担任は苛立ちを顔に出し、「静かにしなさい。今から小テストを配りますよ」と言い放つと、教室はたちまち騒がしくなって麦野のことを忘れた。
――季節が巡る。
好きな季節は五月。高く伸びた穂が太陽を反射してきらきらと光る。
せせらぐ小川の隅、水草に引っかかった人形に手を伸ばした。腕が届かずに手頃な棒を探す。えーと……あった。人形を棒で突いて、水の流れに乗せ、走って下流で待ち受ける。
――取れた!
たっぷり水を吸った人形は生臭かったが、麦野は構わず抱きしめた。よかった。
僅かな違和感を覚えて胸から離す。愛らしかった人形の顔は無惨にずたずたに切り裂かれていた。
なんで。なんでこんなことするの。
「貴方は選ばれた子供。いずれは神になる器です。辛抱強く、粘り強くあらねばなりません。たかが人の子に少し悪戯されたからと泣いてはいけません」
こくりと頷いた拍子に、畳にぽつりと雫が落ちた。
痛くない。痛くない。痛くない……。
――季節が巡る。
穂は刈られ、田は土に戻り、花が咲く。
「麦野さんって天然だよね」
よく知らない同級生の言葉にへらっと笑うと、もう一人は眉間に皺を寄せた。
「ねぇ、早く帰ろうよ。カラオケ行くって約束じゃん~」
「うん。麦野さんも一緒に行かない?」
「ちょっとぉ……小学校が違ったから知らないと思うけどさぁ、あの子の家って」
「そういうの良くないと思う。これからは麦ちゃんって呼んでもいい?」
「う、うん……!」
カラオケの固いソファの隅で縮こまっていた麦野に同級生が顔を寄せた。同じ柄のスカートがぴたりとくっつく。
「ごめんね。麦ちゃんを誘ったのにクラス会みたいになっちゃって、緊張してるよね。でも皆優しいから大丈夫だよ。次は麦ちゃんが曲入れたら?」
「うん」
鞄を抱え、頷く。
「何この曲。入れたの誰ぇ?」
「しっ、麦野さんだから……」
「気持ち悪……」
「誰だよ、誘ったの」
初めての寄り道は大層叱られ、幾晩かお供え物抜きの罰を受けた。とてもお腹が空いた。
「人の子供と遊び呆けるなど言語道断! 選ばれた子供だからといって思い上がってはいけません。貴方はまだ不完全で未熟で非有の身。つまり何者にも成れていないのです。決して驕らず、目的を達成するまで今まで通り精進なさい。でなければ貴方に居場所はありません。この家からも出て行って貰います。いいですね?」
叩かれた背中が痛んで、泣きながら皆が待つ座敷へと這う。
いつもの定位置に敷かれた座布団。それは教室で自分の席につくのと、カラオケで人と人の隙間に収まるのと何も変わらない。
水を杯に注いで皆に振る舞ったり、鈴を決められた間隔で鳴らしてみたり、皆の頭上に青葉を乗せて回ったりする。そのことに何の意味があるのかわからない。でもやらなきゃいけない。
「ありがたや、ありがたや」
「ありがたやああぁ…………」
何もありがたくなんかない。
――季節が巡る。
「ねぇ麦野さん、もう少し空気読んでくれないかなぁ。誰も言わないから私が代表して言ってるんだからね。これ、別にいじめているんじゃないからねぇ」
「うん、ご、ごめん」
「わかってくれたらいいんだよ」
誰しも役割がある。
彼女には学友の代表としての。
自分にはお祈りをして、いつか神様とやらに成る器としての。
「何が神の子だ。こんなモン、インチキじゃねェか!」
「詐欺で訴えてやる」
「俺の金を返せ」
「息子が死んだのは貴方達の所為だわ……」
「てめェらの命で贖えってんだよ!」
「死ねっ、死んじまえぇっ!」
――季節が巡る。
恵みの、哀しみの雨が降り注ぐ。
傘を差さずに水溜まりを踏んで歩く。
大好きな雨蛙、ミミズ、でんでん虫……。
ある朝、教室の机に乾いたミミズが数匹、置かれていた。
「麦野さんにお供え物でぇす」
「ほんとに食べるかな?」
「……らしいよ。見てなよ」
「ちょっと、誰。こんなことしたのは! 麦ちゃんのお家の問題は、麦ちゃんが悪いんじゃないんだよ。私、先生に言……」
麦野はミミズを手に乗せた。
「ありがたくいただきます」
教室中が一斉に固唾を呑んで見守った。
摘ままれたミミズが、尻尾あるいは頭から麦野の口に吸い込まれていくのを。
「ぎゃああああっ」
「こいつ、食べた、マジで食べたよね」
「む、麦ちゃ……。い、いや。ち、近づかないで! 触らないでよっ」
きょとん、と麦野は咀嚼を終えてから口を開く。
「だって、お供え物は全部食べなくちゃいけないって……だって……わ、私達……と、友達だよね?」
「ばっかじゃないの。気持ち悪い!」
――季節が巡る。季節が。
「貴方の努力が足りないのです」
「ごめんなさい」
「せっかく育ててやったのに」
「お母さ」
「お母さんなんて呼ばないで。この出来損ない。お前の所為でこっちは散々だわ」
「そうだぞ、日和。お前が悪いんだ」
部屋を出て行こうとする背中に縋りつく。
「ま、待って。お母さ……あの……待って、待ってください。置いて行かないで。もっと頑張るから。必ずやり遂げるから。お願い、お願いします! 私も連れて行ってください!」
電車が速度を落として停車する。ホームで待ち構えていた行列が一斉に雪崩込む。人波に押し流される。
「間もなく南渡――南渡に到着します――」
声はけたたましい発車ベルに遮られた。間もなくドアが閉まることを車内アナウンスが告げる。
もう駄目だ。
扉は閉まるし、友達には嫌われるし、母と父には置いて行かれるし、本当は祖母と上手くやりたかったのに、やはり出来損ないなのだから面接にも間に合わないし、私はまた人の輪から外れる。
――誰も居なくなった。誰も!
本当は、ずっとそっち側に入れて欲しかった。けれど何者にもなれず、外れる。
誰か――
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