第34話 姿見
「何なんだよ……」
ぴちゃん、と一定間隔に落ちる水音が厭な緊張感を醸しだす。逃げ腰で震える弥彦達とは対照的に、麦野はご機嫌に仁王立つ。ニマニマと目尻を下げる笑い方は麦野日和にそぐわない。
ざり……と地面を引っ掻く音が麦野の顔から笑顔を掻き消した。踏み躙られ右と左に蛙の足のように折れ曲がった陣沼の指が、動いたのだ。
麦野は腹部を踏んでいた足を退け、散々蹂躙した遺体から後退る。その肉片の唇の剥がれた口が、こう読める。
……や、ひ、こ、さ、ん。
陣沼の亡骸が破れ零れた肉体の一部を置き去りに、ふらふらと立ち上がった。
……よ、ね、や、ま、さ、ん。
麦野は――否、陣沼香苗は――喋ろうとする己の亡骸を一瞥した。忌まわしい物を見る目で。
「い、入れ替わったんだ。麦野さんと、陣沼さんが」
米山は剣を握るように香を前に突き出した。
陣沼は見向きもせずに分岐の先へ一目散に走る。
その背後で麦野はずたずたの腕を伸ばしたものの、折れた下肢が追いつかず、そのまま地面に崩れ落ちした。
陣沼は振り返り、麦野の様子を確認して「ふふっ」と笑うと再び走り出した。
軽やかに冷たい地面を蹴る。嬉しい。自死してまでも欲しかった肉体をようやく手に入れたのだ。踊らずにはいられない。
やったあ!
浮いた爪先が、不意に地面の凹みに突っかかり、前につんのめった。慣れない身体で踏ん張りがきかずに陣沼は両手で支えることも忘れ、急な下り坂を転がり落ちてゆく。
水の流れる音。
雫の落ちる音。
肉の転がる音。
久方ぶりに得た痛覚に顔を顰め、陣沼はよろよろと壁を伝って進んだ。こんなのどうってことない。わたしはわたしを得た。正しく。完璧に。
だんだんと水音が大きくなる。
ようやく細い小路が拓けた向こうに、広い貯水池が広がっていた。コンクリートの太い柱が幾つも聳え、水面には縦横に通路が通っている。
その中央で、金髪の男が手を振る。
「よう。待ってたぜ」
革靴を慣らしながら、その男はこちらへ歩み寄った。
「初めまして、俺は風見だ。なあ、陣沼、教えてくれよ。お望みの姿を手に入れた気分はどうだ?」
陣沼は微笑む。
「そうか。ご機嫌だな。鏡のない時代から、人々は水面に姿を映して見た。己の姿はいつの時代も大きな関心事なのさ。そうだろ? 俺も、あんたにいいものを見せてやるよ。その水鏡を覗くといい」
天井の蛍光灯が照らす水面が、その明かりを反射する。
――新しいわたしをこの目に映したい。
その欲求には抗えなかった。
水面を覗き込み、途端、その表情は喜ぶどころか不可解に歪む。そこに映ったのは麦野日和の顔ではない。焦げ茶色の長い髪、大きな目、ふくよかで桃色の頬。
以前の自分のまま、何も変わっていない。
ひいっと慄いて、水際から飛び退いた。
こんな筈はない。
わたしはわたしになったの。こんな気持ち悪い、邪悪な存在ではないの。
「――鏡は真の姿を映す」
陣沼の戸惑いを嘲笑うように風見は距離を詰める。
ずる、ずる、ずる。
背後から自分の亡骸が現れるのに気付いた。今やほとんど崩れかけた醜悪な肉体。過去のわたし。わたしを殺したわたし。あんなもの、麦野日和にくれてやる。
「ずぶの素人が高度な呪術を完成出来るとは思わなかったね。俺は俺の責任で、お前を排除しなければならない」
風見の言葉を笑い飛ばそうとしたが、上手く笑うことが出来なかった。まだこの身体に不慣れな所為だ。
ずる、ずる、ずる。
麦野が骨の見えた破れた皮膚を晒して、水路を這いずって来る。
風見はつかつかと陣沼に詰め寄った。……かと思えば通り過ぎ、真っ直ぐに麦野へと向かった。
「あんたを巻き込んで悪かったな」
風見が麦野の傍らに膝をつく。
当然、麦野は言葉を返すことなどもう出来ない。
「陣沼をここに連れて来てくれたのは上出来だぜ。水鏡を思いついたんだろ? まあ、あんたを俺の相棒として認めてやらなくもないな」
物言わぬ亡骸に語りかける風見の姿は異様だった。その腐臭を、醜さを、何とも感じないのか?
胸がざわつく。
わたしは選ばれた。
このわたしが選ばれたんだ。
もう何も妬むことも、苦しむことも、悲しむこともない。その筈なのに。あの振る舞いも、髪色も、あの男の何もかもが目障りだ。
「陣沼香苗」
風見が亡骸を背に起立し、懐から真円の鏡を取り出し、眩しさに目を細めた。
光で照らされてもいないのに煌々と見える。これは視覚的に明るいのか? それとも明るく思えるだけなのか……もう自分の目が信用出来なかった。光を浴びた眼球が、肌が、中から焦がされていくようで熱い!
――居ますよ――
すぐ近くであの声が聞こえた。助け舟だ。それも麦野日和が所持している不格好な鞄の中から。
何という幸運。やはりわたしは選ばれた子。
鞄の口を開いて手鏡を取り出し、はらりとハンカチが落ちる。
「その鏡は――」
風見の表情が歪んだ。
陣沼は対抗するように、不敵な笑みを返す。この鏡さえあればわたしの勝ち。
「――あんたが持っていたのか!」
二つの鏡は互いの光を反射した。
鏡面がぎしぎしと軋む。その軋みは大きな揺れとなって空気中に伝わり、風が起こり、波が立ち、地面が揺れ、風見も陣沼も体勢を崩した。
二人と一体の亡骸が水路へ滑り落ち、ぼちゃん、と飛沫が立った。
*
――頭にぽす、と何かが当たる感触があった。紙屑が机に当たってそのまま教室の床に落ちる。
「ちっ、無視かよ」
背後で誰かの声が聞こえた。
チャイムが鳴った。
夕暮れ時。
真っ直ぐな畦道を歩く。急にランドセルがふっと軽くなった瞬間、前につんのめって地面に転ぶ。ざり、と膝小僧が擦れる。……痛いな。
「これ貰ったあ」
目の前の子供が、さっきまでランドセルにぶら下がっていた筈の御守りを摘まんでいる。
「返して欲しかったら追いかけておいで」
「あはは。こいつ鈍臭いから無理じゃない」
「それ、触って大丈夫なの?」
「汚くない?」
「ていうか呪われるかもよ~」
「げえっ。捨てよっと」
ランドセルの重みに潰されながら歯を食いしばった。膝小僧に付着した土を払い、落ちた帽子を被り直す。
痛いな。……ううん。痛くない。
再び帰途についた途中の用水路に、ぷかぷかと御守りが浮かんでいた。
痛くない。痛くない。
田植えのために張られた水が夕陽に反射して眩しい。緑色の雨蛙がぴょこぴょこと跳ねる。真似して跳ねる。自分の通った跡がはっきりとわかる。
「またなの……? もう、そのまま風呂場に行っていらっしゃい」
湯船に浸かると膝小僧の傷が滲みた。
麦野日和、九歳。
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