第33話 そこに居る


 すごい。

 わたしが、ついにわたしが。選ばれた!



「陣沼さん。最近楽しそうだね。いいことでもあった?」

「……馬榎主任がくださった手鏡のお陰です……」

「へっ。手鏡って何のこと?」

「はい。覚えていませんか?」

「うーん…………ああ……そうだった……そうだったなあ。勿論協力するよ……そうです。協力するべきです。あの倉庫を使いましょう。……俺は今、何を言った?」

「……馬榎主任も一緒に捜してください……」

「捜すって何を? 何いいぃぃを捜すか当然です。勿論協力しますよ。君の正しい形いいいいぃを見つけるためです。さあ鏡を見なさい。この鏡は、貴方さえ望めば時間も空間をも超越します。代償など考えなくてよろしい。貴方はまだ準備が不足している。だから相手が現れないのです。――ほら、ちゃんと見ろ!」


 鏡が映すのは密集したリクルートスーツの黒い波。鏡よ、鏡よ、鏡さん。今日は学生の会社説明会。その後方に佇む、小柄で、猫背の女の子。そんな場所からじゃ見えないだろうに背伸びをしてメモを取っている。見るからにおどおどしていて、自信がなさそうで。肩まで伸びた髪は不揃いで、一部分だけが不自然に短かった。自分で自分を大切に出来ない子なんだ。わたしを殺してしまったわたしと似ている。

「質問はありますかー?」と引率係の沢之内が言うと、数名の学生が即座に腕を突き上げた。

 その子も挙手をしたけれど波に紛れて掻き消えてしまい、質疑応答は打ち切られる。

 彼女はそっと恥ずかしそうに手を仕舞った。見つけて貰えなかったことはその子の罪じゃないのに、みじめそうだった。


「……ねえ。わたしには見えたよ。貴方が手を挙げたことに気付いたよ。わたしは貴方を見つけたよ……」


 女の子の瞳が、ちらりとこちらを見た。

 見つけてくれてありがとう、と言ったように見えた。


 ――この子だ。この子がわたしの半身だ。


「……馬榎主任。絵に描きました。これがわたしの正しい形です……」

「そうなんですね。君は本来、こんな顔をしているのですね」

「……早く馬榎主任に見せたい……」

「楽しみですね。さっさとその子を奪ってしまいなさいいいぃぃいいや、俺達、最近何だか変じゃないか?」

「……いいえ……」


 何も変じゃない。

 むしろこれまでがずっと変だったの。やっと正しくなるの。わたしがわたしになるの。

 貴方のことも知っている。

 どうして説明会の日に貴方の髪が不揃いだったのか。アルバイト先で苛められ、髪にガムをつけられた。鏡は過去を映すから。貴方がトイレの洗面所で、鋏を手にして震える鋏を首元に当てて髪ごとガムを切り落とすのを見ていた。

 貴方の瞳の諦念を見ていたの。

 わかるよ。だって誰も助けてくれないもの。わたしにはわたししか居ないもの。わたしはやっと理解したんだ。正しい形って、そういうことなんだって。顔立ちや背丈が似ているとか、血が繋がっているとか、年齢が同じだとか、そういう表面的な要素ではないの。要は心の形なの。同じ苦しみ、同じ悲しみ、同じ憎しみ……。

 それこそが半身。

 わたしはあの日殺してしまったわたしを、わたしよりもわたしらしい貴方を得て、わたしに成るの。

 新たな肉体かたちを得ることは、ふる肉体かたちから解放されることでもある。

 だからわたしはわたしを一旦、再び殺さなければならなかった。

 鏡の声が教えてくれた抜け道、隠れ家。居心地のいい部屋。購入したロープを、天井を通ったお誂え向きのパイプに通した。何度か下へ引っ張り、強度を試す。落下したら痛いもの。覚悟が決まるのに数時間を要した。

 怖い。

 でもやらなきゃ。

 新しいわたしにならなくちゃ。

 馬榎主任にわたしを見せなくちゃ。

 ゆっくりと輪っかに顔を入れる。ちょっとだけ顎の辺りがちくちくした。怖かった。でも声が急かす。



 ――早くその器から解放されなさい。貴方はようやく正しい形に成るのです。さあ!――



 足元の椅子を蹴り倒した瞬間、あまりの痛みに首が千切れるかと思った。そこまで頑張ったんだから。

 ははは。お前は見当違いの調べ物ばかりして、バカみたい。

 わたしの勝ちだ。

 さようなら。



   *



「弥彦さん、豊さん!」


 地下道。

 弥彦と豊後の前に、米山が駆け下りて来る。


「おお。総務の坊ちゃんじゃねェか」

「待てよ。おかしいぞ。俺らは地下の貯水池に向かっているんだよな。その方向から米山が来るなんて変だろ。どこかで道を間違えたんだ」

「俺達ァお嬢ちゃんの道案内でここまで来たんだぜ。なあ?」


 麦野は朗らかに笑う。


「……麦野ちゃん?」


 弥彦がはっとして、さらに後ろを見た。静かな地下道がずうっと続いている。暗闇には何の音も聞こえない。

 黙りこくる弥彦の隣で、麦野は不思議そうに首を傾げた。


「僕は西B工場を通って来たんだよ。馬榎主任は捕まらなくて」

「……わかった。目的地はこっちじゃない。分岐まで戻ろう」

「何言ってんだ。後ろには奴も来ているんだぞ。畜生、魔除けの香を残しておくんだったなァ」

「香ならあるよ」と米山が言った。「持って来たんだ。元は陣沼さんの物だけど」

「でかした!」


 香を束ねて焚くと、幾つもの細い煙の筋が昇った。地下では香りがあっという間に充満する。


「麦野ちゃんも持っておけ」


 弥彦が差し出す香を麦野はニヤニヤと見つめて受け取ろうとしない。


「ほら」


 無理矢理に手を取られ、麦野は渋々、指を開いた。その指先が触れるか触れないか、勢いよく、香が火を吹く。


「うう」

「どうしたんだよ」

「うういいい」


 麦野は駄々を捏ねるように弥彦と豊後の間をすり抜け、そのまま地下道を駆け下りてゆく。


「お嬢ちゃんはどうしたってンだ。反抗期か?」

「豊さんは、麦野ちゃんが西B工場側に逃げないようにここで見張っていてくれ。くれぐれも香を絶やさないようにな」

「ったく、わかった。気を付けて行くんだぞ」


 弥彦と米山は駆け足で坂を下る。


「……麦野ちゃんが霊に憑かれているって可能性は無いか?」

「わからない。妙な臭いはする」

「祓えないのか?」

「無茶言わないでよ」


 地下道の分岐を過ぎた辺りで、小柄な影絵が懐中電灯の光に浮かんだ。


「あれ、麦野さんだ」

「しっ」


 揺らぐ影を伴って、麦野自身は身じろぎもせず頭を垂れて佇んでいる。

 見つめる足元には陣沼の亡骸があった。さっきまでゾンビさながらに動き回っていたとは思えない腐乱死体。

 麦野はおもむろに片足を上げた。子供が案山子の真似をして片足立ちするみたいに、これからけんけんぱをするみたいに、ゆっくりと、足裏を、真下の亡骸に向かって振り下ろす。

 ぐちゅ。

 皮膚や、その下の中身が潰れる音がした。それを躊躇なく何度も踏みつける。ぐちゅ、ぐちゅ、ぐちゅ。その度に亡骸の水分を感じさせる音や、固い物が砕ける音がし、それを楽しむように、亡骸の四肢や、腹部、顔を何度も、何度も、何度も、何度も。


「あはははは。もういらなーいいいいぃぃぃ」


 硬直している弥彦と米山に顔を向け、麦野の顔をした誰かはにんまりと微笑んだ。

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