第24話 裏・第一の怪談
米山
「同期が居なくなると心細いな。総務でも頑張れよ」
「ありがとう。白川」
総務の仕事が厭な訳ではない。数年は現場で実務経験を積み技術開発に異動するのがアジロの出世コース。その道から外れただけのことだ。
――異動して半年が過ぎ、新しい職場にも与えられた業務にも慣れて来た頃。
「米山」
「はい、仮屋課長」
「明日から派遣される人間の受入準備は出来たの? 書類が回って来ていないねェ」
「明日……ですか?」
「午前中、明日から一名入ると連絡があったと伝えたじゃないか」
聞いていない。
「すみません、直ぐに準備します」
落としたばかりのパソコンの電源を再度入れる。
「はァ。頼むよ、米山君。総務じゃ新人でも、もう入社四年目なんだからさ」
「はい。頑張ります」
「書類は明日、朝一で見るから。じゃあ俺は帰るよ」
「お疲れ様です」
時計は夜八時を指していた。
急いで派遣会社へ連絡すると幸い担当者は退勤しておらず、平謝りしながら詳細を尋ねる。残業を切り上げた社員達が次々に帰宅し、事務所の電気が消えてゆく。もう明かりが点っているのは総務の一角だけだ。
疲れ目を擦って書類の作成、作業着の準備、それから派遣される工場の担当者に申し送りをして、着装基準に準じた物品を用意し、ロッカーには靴箱、それから……と頭痛が思考を遮った。こめかみに鈍痛が走り、物品を抱えたまま廊下の中央で立ち止まる。
「米山さあん」
甲高く声を掛けたのは小花柄のワンピースに紺色のコートを羽織った、大きな瞳が印象的な女性。
陣沼香苗だ。
自分が総務に異動した月に西B工場に派遣され、完全に入れ違いなので殆ど接点はないのだが、自分の古巣に派遣されていることもあって何となく気に掛かっていた。
「遅くまでお疲れ様です。何だかお忙しそうですね」
大きな目を細めて、ふふ、と柔和に笑う。
「僕なんか、全然……。陣沼さんも残業でしたか」
「いえ、私はもっと頑張りたくって勉強していたんです。ふふ。早く馬榎主任のお力になりたいので」
「へえ、偉いですね」
陣沼の視線がすうっと自分を通り抜けて背後に向けられた。廊下の突き当り、社員が身だしなみを確認する用途で取り付けられた大鏡。
「あのう。あの鏡、変じゃないですか?」
「え? 何が……?」
「あ、ごめんなさい。変なこと言ってしまって。米山さんにはわからないですよね」
陣沼は会釈し、背中を丸めて去って行った。米山は陣沼の言葉に引っ掛かりを覚えた――が今夜の仕事の段取りを考えるのに忙しく直ぐに忘れてしまった。
二、三ヶ月が過ぎ、米山は久々に古巣を訪れた。異動して以来ずっと避けていたのだが会社説明会で学生に西B工場を見学させることになり、元々働いていた自分が下見をする担当になったのだ。
夜八時過ぎ――殆どの社員が帰っているだろう時間を見計らって入室しかけた米山の足が止まる。
――臭い。
妙な異臭に慄きつつ手で鼻を塞いで扉を閉めた。まさか、と胸騒ぎを覚える。霊的な要素に弱い体質の自分は、時折過敏に反応して体調を崩す。工場でもしばしば具合を悪くしたが、ここまでの酷い臭気を感じたことはない。
まだ社員が居残っていたらしく廊下で話し声が聞こえ、離れた位置から様子を窺う。低く、ややお道化た口調――馬榎だ。そしてもう一人。米山は死角に身を潜め、彼らが通り過ぎるのを待った。
「日課を始めよう」
「はあい」
相手は陣沼だ。
ふと陣沼の入退社時間が書かれた勤怠表を思い返す。確かにここ数ヶ月、陣沼の残業は若干増えていたが、こんな時間から日次の業務を始めれば退社は夜九時前後になるだろう。勤怠の虚偽申告は、派遣業務の担当として頭を抱える問題だ。
陣沼は馬榎と共に通路を歩いて行く。がちゃりと重い音とともに電子錠が開くのがわかった。
瞬間、異臭がぐっと凄みを増した。二人が奥へ消え、再び錠が回る。締まりきる寸前、米山は自分でも意識しない内にドアノブを掴んでいた。錠は空回りし、ぴたりと止まる。
――どうしてこんな場所に。
ここは電子錠で厳重に警備されており、ごく一部の人間しか入室を許されていない。工場に勤めた二年間、誰かが出入りするところなど見たことがなかった。てっきり貴重品か重要書類が保管された物置だろうと思っていたのだが……なぜアジロに入って一年未満の陣沼が入室を許される?
それに馬榎が警備を解除出来たということは、彼は管理職候補に上がっていることを示す。結局は上に気に入られた者勝ちなのだ――馬榎も――陣沼も――。
感情がうねり陣沼への嫉妬と、馬榎への憎しみが奥底から沸き上がる。
倉庫に明かりが灯る。
目の前に誰かが立って居る。自分と同じ背丈位の、スーツを着用した男。近づいた瞬間、相手も歩み寄って来た。驚いて後退ると、相手も遠ざかる。
――鏡か。
背後にも気配を感じ、はっと振り返る。
またしても同じ顔をした男が、間近に米山を見ていた。
「わあっ」
しまった、と思ったが遅く、口からは悲鳴が出た後だった。
「あああああ!」
幸いなことに女の絶叫が米山の声を掻き消した。恐る恐る声のした方向――倉庫の奥を覗き見る。
――何だ、この部屋。
幾つもの大小の鏡が雑多に配置され、不規則な合わせ鏡を成していた。その中央に膝をついた陣沼の顔を、馬榎が後ろから両手で押さえて立つ。
「ああ、主任。この鏡に映っているのは一体どこの誰なのですか?」
馬榎は無言のまま答えない。彼も陣沼も、少し会わない間に痩せて見えた。
「厭だ。ああ、こんなの私じゃない。早く見つけたい。本当に気持ちが悪い!」
陣沼が全身を捻って馬榎を振り払い、べたりと床に突っ伏した。
「き……気持ちが悪いって言い方はないだろう。僕は、君を、君のために手伝っているのに!」
「そんなつもりじゃあないんですよ。ごめんなさい、ごめんなさい、厭、お願いだから見捨てないでくださいね」
今しがた拒絶した相手に許しを乞う陣沼を憐れむように、馬榎は優しく手を伸ばす。その掌は目の前の女ではなく、鏡に映った虚像へ差し出される。埃まみれの床に這いつくばった陣沼は恍惚として馬榎を仰いだ。
「正しい形をした誰かの私が、この鏡に居るのに見つからないの。ああ。どこなの。どこの、いつに、居て、居ますか? ねえ……そこに居るのは誰なの? 居るのよねえ?」
要領を得ない口振り。錯乱しているかのような。普段の彼女からは信じられない。
狂気の気配。
陣沼は鏡を掴み、鼻をくっつけんばかりに凝視する。自分以外の誰かを視ている。そんな訳が無い。臭い。気持ちが悪い。手の甲で鼻を塞ぎ、背中を流れる脂汗を、全身の震えを茫然と感じた。
――異様な光景だ。もう一秒もここには居たくない。
「…………すかあ」
くぐもった声で陣沼が呟く。臭いが鼻を突き抜け、脳まで貫かれる錯覚。中から腐ってしまいそうな異臭がする。
「……居ますかあ」
やめろ。言うな。
それを言うな。
「誰か居ますかあああ!」
幾重にも映る陣沼と馬榎の姿――その中の一人が振り返った気がした。
「誰だ!」
馬榎が叫び、米山は一心不乱に走って逃げた。
――何だ! あれは、何だ。
奇怪しい。何かが狂っている。しかし上手く説明は出来ない。あれは――あれは。
総合棟まで全速力で走り、息も切れ切れに通用口に倒れ込んだ。嗅覚が莫迦になって、まだあの臭いが残って感じられる。
鏡に向かって陣沼が呼び掛けたとき、気絶しそうな程に臭う、生温い風が吹いた。その微かな音は米山の耳にこう聞こえたのだ。
――「居るよ」と。
以来、米山は黙々と仕事に集中した。やるべき業務は山のようにある。あの晩の出来事は努めて思考の外へ追い出すのには十分だ。陣沼は見かける度に痩せていく。風の噂で馬榎と陣沼が男女の仲だとも聞いたが、違う。何が何だかわからないが少なくともあれは恋愛関係ではない。
「仮屋課長。派遣社員の陣沼さんがどうもサービス残業をしているようです。勤怠表の退勤時刻と、正門を出た時間の記録に一時間以上の差異があります」
米山は二人の奇妙な行動を見て見ぬ振り出来る程、器用でもなかった。
「はァ……派遣会社に知れたら面倒だな。サービス残業させるならせめて社員にやらせて欲しいねェ。その人、どこの部署だっけ?」
「西B工場です。残業中に馬榎主任と二人きりで、倉庫に長時間滞在している目撃情報もあります」
「おいおい、馬榎かァ。大事な時期なのに何をやっているんだか。彼には俺から言っておく」
「双方から話を訊いた方が良いのでは? その……万が一ということもありますし問題になる前に……」
「わかった、わかった。それも俺がやっておく。君は総務歴が浅いからこういうのはわからないだろうけど、繊細な問題だからねェ。くれぐれも余計な行動はしないように。陣沼さんに勝手に尋ねたりするんじゃないよ」
「は、はい……」
「この話は終わり。で、頼んでいたあの報告書は?」
仮屋が動いてくれた様子は一向になかった。
悶々とし、日常が過ぎていく。
……あの倉庫は何なのだろうか。白川ら西B工場時代の同僚達に訊いても、入ったことはないがただの物置だろうと一様の答えしか返ってこない。
唯一、古株の秋場だけが「……あの部屋か」と反応を示した。
「ご存知ですか?」
「昔は出入り自由だったからな。鏡があっただろ、あれを当番制で拭いていた。うちによくある変な習わしの一つだよ。そういやいつの間にか当番は廃止になったな」
「何のために鏡なんか、工場の倉庫で保管しているのでしょう」
「考えたこともない。こんなに忙しいのにいちいち疑問を持っていたら仕方ないだろう。でも、そうか、鏡か――」
秋場は腕を組んだ。
「――近づかない方がいい気がする。それにお前、あまり西B工場にも来るな」
秋場はそれ以上話そうとはしなかった。
三月。
会社説明会の当日、ぞろぞろと学生達を工場へ引率する道中、米山は憂鬱で仕方なかった。正直なところ西B工場には行きたくないし、馬榎と顔を合わせたくない。しかし大勢の学生を引率せねばならないし、陣沼のことが気懸かりでもあった。上手く言い表せないが彼女は大切なものが欠落してしまっている気がする。出会った当初にはあった、何かが。
いつも通り柔和な外面を作った馬榎が工程の説明をする。学生は数班に分かれており、次は沢之内の班だ。時間は少し押しているが問題ないだろう。
学生達の向こう側、作業場からガラス越しに陣沼が見つめているのに気付いた。
「お久しぶりです……」
通路に出て呼び掛けると、陣沼は無表情に顔を向けた。ますます痩せた外見にぎょっとする。作業着はぶかぶかで布が余っていた。
窪んだ目で陣沼は米山を見つめる。
「つ、陣沼さん……大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫ですよお。何か変ですか、変ですかあ? 私」
陣沼は両目と口をかっと開き、唾を飛ばして喋った。笑顔すらも歪に見える。
「いやその、随分、その、痩せたから」
「あはは、私にしてはちょっと小さくね、小さくねえ。なりました。こっち側は。でもあっち側は普通なので、通常ですから。ご心配ありがとうございまあす」
「そうなんだ。成程、あっちは通常なら大丈夫ですね」
あっち側って何だ。
「陣沼さん、一階の鍵付き倉庫に入ったことはありますか?」
「え、ええ? はい。入ってますよお、あ、これは内緒です、よお。駄目なんですよね? 本当は、ねえ?」
「ん、うん。あそこって何か……誰か居たりします? その、何というか」とそこまで訊いて言葉に詰まる。何と表現したら良いのだろう。
「居るよ」
陣沼の顔から表情が消えていた。ゆっくりとガラスを指差す。自分らの顔が薄らと反射する他は、黒いスーツの集団が整然と並ぶばかり。米山が質問するのを待たずに、陣沼は腕を下ろした。
猫背にとぼとぼ去ってゆく陣沼を呼び止める気力は、米谷にはもう残っていなかった。
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