第25話 裏・第一の怪談(2)

 七月に入って間もない時期、前触れもなく陣沼が辞めた。残された私物を派遣会社に着払いで送るよう仮屋から言いつけられ、乱雑に箱詰めされた荷物を確かめる。業務で使用されたノートや文具、タオルや予備の靴下、化粧道具、そして。


 ――何だろう、この風変わりな筒は。


 蓋を持ち上げて開けると中身は線香だった。香ると、落ち着くような胸がざわつくような……奇妙な気分になる。記憶は確かでないが陣沼から同じ香りが漂ったことがあった気がする。愛用のお香か。


 今回に限って、荷物の送付の他は、通常自分がしている派遣契約終了の手続きのすべてを仮屋が行ってしまった。腑に落ちない態度に不信感が募る。即座に送れといわれた荷物にも手をつける気になれない。

 彼女は本当に辞めてしまったのか。なぜ。陣沼が自殺したと知り、その疑問は一層膨らんだ。





「会議室で変な匂いがするって?」


 最初に相談を持ち掛けてきたのは技術部の同期だった。


「うん。匂い自体は普通なんだ。どこかで嗅いだよくある香りが、得意先との商談中に突然……奇怪しいだろ?」

「わかった、調べてみるよ。報告ありがとう」

「頼む。先輩達も気味悪がっていてさ。総務に同期がいると気軽に相談出来て助かるよ」

「そりゃ……どうも」


 それを皮切りに、相談は相次いだ。

 怪談を伴って。


「自殺した派遣社員の霊ですって。具体的なのか抽象的なんだか。いかにも仮屋課長が嫌う話ね。とりあえず記録は残しておきましょう」


 相次ぐ相談に困り果てた花丸が相談内容をキーボードで文字に起こす。脳裏に、厭でも陣沼の一件が過る。米山の耳に入る位だから馬榎も知っている筈だが変わった様子はない。

 変化と言えば、馬榎が総合棟に出入りする頻度が高くなった。会議にも頻繁に参加するし、新卒の採用状況も気にしている。どうやら課長昇進を控えているらしい。


 ――このまま黙っていて良いのか。


 米山は自分を奮い立たせ、馬榎を呼び止めた。


「おや、米山。久しぶりだね。体調はどうだい」

「平気です。それより陣沼さんが亡くなったって本当ですか」

「……誰から聞いたんだい」


 細い目でにっこりと微笑み、馬榎は質問を返した。


「ただの噂だよ」


 噂?


「急に退職したのは本当だけれどね。亡くなったなんて根も葉もない噂だよ」


 馬榎はさっさと話を切り上げたそうに腕時計を頻繁に見る。


「あの、彼女は」

「米山――」


 低い声で、馬榎は米山の言葉を遮った。


「――余計な詮索はしない方が良い」


 唖然として馬榎の丸い背中を見送る。今の発言は脅しではないのか。馬榎は何かを知っている、絶対に。

 秘密にせねばならぬ事柄があるのだ。恐らく西B工場に――


「陣沼さんの作業着が戻って来る?」

「皆怖がっちゃってさ。馬榎主任は陣沼さんのことは話したがらないから報告も出来ないし、現場の空気も悪くなるし……参ったよ。米山、総務だろ。業者のミスの可能性もあるから連絡しておいてくれよ」

「わかったよ、白川。その前に作業着を見せて貰えるかな」


 馬榎が陣沼の話題を避けている――否、隠蔽しようとしている――それなら――米山の胸に、小さな意思が形成され始めた。


「もしもし、お世話になります。アジロの米山と申します。作業着の特殊洗浄の件なのですが……はい。西B工場の回収分で、洗浄に出す分を誤って廃棄の箱に入れてしまったミスがありまして。はい。お手数なのですが、もし今後、カタカナで総務ソームと書かれた作業着が廃棄箱に入っていたら、? ええ、こちらでも気を付けます……お手数をお掛けいたします……」


 馬榎が陣沼の死から目を背けるのなら、自身の責任から逃れようとするなら――捕まえるまでだ。彼女に何をしたのか、自ら洗いざらい白状したくなるまで。


「米山君、面接の日程調整をお願い出来る?」

「中途採用?」

「ううん、新卒なんですって」

「新卒? もう内定式も終えた――こんな時期に?」

「内定辞退者が出た所為だと思うわ。今月は会議予定が詰まっているでしょう。隙間時間で調整して欲しいの」


 花丸の言う通り、今月は下半期が始まったばかりで連日会議ばかりである。その中で面接官の予定を合わせるのは手間だ。

 ……そうだ。

 これを利用して、例の会議室に馬榎を誘き出せれば。そして都合よくあの現象が起きてくれれば。

 いや――起こすことが出来れば。

 他部署から受けた相談の記録を見返す。発生した間時間帯には偏りが見られた。始業後の早い時間帯と夕方の終業後が同率で、次いで昼の休憩時間。人の流れが多い時間帯でもある。

 会議室に発臭源がないのなら外にあると考えるべきだ。社員の移動に伴う匂い……廊下、更衣室、どこだ。


 ――匂いといえば、以前にこんなことがあったな。


 米山がまだ西B工場にいた頃。環境マネジメントシステムの監査を受けた際に廊下に漂う煙草臭を指摘された。工程内は禁煙である。監査員の指摘事項は、上司に、そして取締役まで報告されるため、この指摘は大変不味い……と早急に調査したところ、臭いは1km近くも先にある屋外の喫煙所から流れてきていたと判明した。たまたま風の強さ、方角の条件が重なり、西B工場に給気されていたという訳である。それが判明するまで暫くの時間を要した。こんな簡単な理屈も、案外気付けないものだ。

 会議室の幽霊も同じことではないのか。

 朝は工場の夜勤者が、夕方と昼間は日勤者が、それぞれ更衣室に戻る時間。更衣室で着替え、シャワーを浴びて帰る者もいる。


「あはは……」


 シャワー室の匂いが漂っているだけの単純な理屈だとわかったとき、米山は思わず笑ってしまった。


 ――まだ誰も気付いていないなら、使える。


 わざと馬榎の上司の予定が詰まっている時間に面接を予定する。少しでも面接の時間がずれこんだ場合、昇進を控えている馬榎が代打で面接官に選ばれる可能性は高いと踏んだ。

 そして自分が守衛所からの連絡を受ける。総務歴が一番短い米山が電話を応対するのはいつものことで不自然ではない。


「も、もしもし。採用試験に参りました野澤大学の麦野日和と申します」


 米山はごくりと唾を呑んだ。この学生には悪いが、少々時間を稼いで貰おう。


「はい。本日はよろしくお願いします、麦野さん。このまま総合棟までお越しください。道順は――」


 適当な順路を伝えた後、急いで更衣室の脱衣所に向かい香に火を灯す。匂いは記憶と強く結びつく。あんなに親しくしていた陣沼の香に馬榎が気付かない筈がない。

 米山は使用中の札を返して外へ出た。アジロは広い。あの学生が迷い込み過ぎて面接が中止にでもなれば、計画が本末転倒である。

 自分が案内した見当違いの場所を早足に捜し回ると、遠くにリクルートスーツ姿の学生を見つけた。

 しかし米山が声を掛けるより先に、誰かが彼女に追いついた。あの金髪は、確か、風見とか言う男。

 米山は知らなかったが、中途採用に応募した男性らしい。最近たまに事務所に来ては青ヶ幾と話しているようだが試験や面接の話は一切回ってこない。自分も人事担当なのに疎外されている気がして居心地が悪かった。


 ――まあ、丁度いいや。学生の道案内は彼に任せよう。


 早足に総合棟に戻り、米山はたと気づいた。自分の制服にも匂いが付着していることに。慌てて新しい制服に着替え、事務所に戻ったとき、仮屋は怒り心頭だった。


「どこに行っていたんだ、米山」


 素直に頭を下げる。


「学生が遅刻して、次の会議が始まってしまった。面接官を再調整しなきゃならない。俺と……君も入るんだ。それから生産の部課長の代わりに馬榎主任が」


 ――やった、と内心ほくそ笑む。


「私も入りましょう」


 硬直し、ゆっくりと顔を上げる。

 ……青ヶ幾だ。参与とはいえもう殆ど実務はしていない。面接に入るところなど見たことが無かった。


「彼を連れて行きます」


 青ヶ幾が示したのは、あの風見だ。


「社員でもないのに?」と思わず口に出る。


「ほっほっほ。何事も勉強ということで……」


 仮屋も青ヶ幾の決定には逆らえない。想定外の面子にはなったが、大丈夫、ここまでは計画通りだ。

 全員が会議室へ向かう途中、米山は脱衣所に立ち寄り、換気扇を作動させた。匂いが漂うまでは少し時間差があるだろうが、いける――



   *



「その後は知っての通りだよ。……麦野さん、巻き込んで本当にごめん」


 米山が深々と頭を下げ、「や、やめてください」と麦野は狼狽えた。


「こうして二次試験の機会をいただけていますし、私は何も気にしていませんから。それより米山さんが行動しなければ本当のことは誰も知らないままでした。その方がよっぽど……陣沼さんが浮かばれません」

「僕も結局、彼女のことを利用してしまったけれどね」


 米山は目を落とす。懐中電灯の明かりが作る陰影は、彼の表情を一層哀しげに見せた。

 風見は立ち上がり、腕を組んでうろうろと歩く。


「鏡を用いたまじない……陣沼達がやっていたのは呪術の類かもしれねェな」

「僕の話を信じてくれるの?」

「別に突拍子もない話じゃないからな」


 風見は足を止めて答える。


「鏡は昔から神事に用いられてきた。光を反射し、姿を映す、それが古代の人間にとっては神秘だった。魔を除け、魔を封じ、ときに魔をぶ。――そう信じられた道具だ」


 風見が当然という風に喋り、米山の方が呆気に取られている。

 米山は知らないが風見はすでに妙な銅鏡を手に入れている。彼はその銅鏡との関わりも疑っているのかもしれない、と麦野は思った。


「陣沼はただの自殺じゃない。俺もそう思う。あんたは真実を知りたいんだろ?」


 米山が風見を見上げる。その瞳が、風見の視線を捉える。


「……うん。このまま見過ごしたら、陣沼さんが死を選ばされた原因は永遠にわからなくなってしまう。勝手な憶測で恋愛のもつれにされて、一方で馬榎主任は出世して知らん振りかよ。そんなの見過ごせない!」


 叫びは麦野の、恐らく風見の心にも届いた。


「その通りです。米山さん」

「とっとと馬榎を捕まえて全部吐かせるとするか」


 花丸と弥彦もそれに続いた。


「人事担当としてあたしも放ってはおけないわ」

「乗りかかった船だし。俺も手伝うよ」


 米山は四人の顔を見比べ、涙を拭った。霊感を持つ苦悩は、持たない麦野にはわからない。しかし、その孤独の深さは何となく……共感出来る気がした。

 時間は夕方四時半。

 終業時刻が近い。

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