第22話 容疑者
「麦野、戻れ!」
風見に引っ張られ後退した直後、目の前を鉄板が横切った。
「あ、ありがとうございます」
「あんたたまに無鉄砲だな……」
弥彦と米山が力尽くで玄関を閉める。唸る風音が遮られ静けさが戻った。
「馬榎は一先ず諦めよう」
「ありゃ本当に馬榎かい。こんな暴風雨じゃ立っても居られねェぞ……」
弥彦は湿った前髪を後ろに流し、溜息混じりに嘆く。
一方で、沢之内達は慌ただしく工場内を確認して回っていた。
「あたし何か手伝えないか聞いて来る。作業途中の製品や材料だって何とかしないとならないでしょうし……やれることがあるかもしれないわ」
「へえ、総務のお姉ちゃんがそこまでやるのかい」
弥彦が関心して腕を組む。
「あら。総務こそ現場主義であるべきよ! 米山君と弥彦君も……」
ふと花丸の言葉が途切れた。
彼女の視線は廊下の突き当たりにある扉に向けられていた。小さな明かりが点滅している。明かりで照らしてみると扉にカードキーを翳す機械が取り付いていた。
「もしかして、あの部屋か。馬榎が昼に出入りしたっていう倉庫は」
「たぶん」
「たぶんって。あんたが管理者だろ?」
「管理者と言ってもパソコン上でシステムをいじるだけ。機械本体は現場と設備部に任せているのよ」
「それで『現場主義』とはよく言うぜ」
「う、五月蝿いわね」
花丸が扉に手を伸ばす。
「開けちゃ駄目だ!」
怒鳴り声が反響した。米山だ。
「あたしの社員証じゃ権限がなくて開かないわ」
「離れてください」
米山はまたしても顔を青くしている。
「花丸先輩、沢之内さん達のところに行こう。皆……特に風見さん、ここには入らないでよ」
「だから開けられないんだって……」と風見はやれやれと肩を竦めた。
それぞれが対応に当たる中、風見は呑気に事務室の椅子に座っている。麦野も近くに座り、懐中電灯の明かりで手帳の記録を読み直していた。皆が働いている中もどかしいけれど、自分達は社員ではないのだし緊急時に引っ掻き回すよりは大人しくしている方が良いだろう。
風見は端正な横顔で大口を開け、欠伸をする。自分と同じ立場だと知ったせいか風見にも親しみが湧いた。
「風見さんはなぜアジロを選んだのですか?」
「ん? 何だ知っちまったのか。俺がアジロを選んだというより青ヶ幾の爺さんに人手が足りないからと呼ばれたのさ。勝手に呼んでおいて採否が決まっていないのは納得いかねェぜ」
「青ヶ幾さんとお知り合いなのですね。以前は何のお仕事を……?」
「あちこち転々として、金が尽きたら働いて、その繰り返し。根無し草だ」
どうでも良さそうに話す口振りに、会話は広がらなかった。
根無し草……か。何者にも縛られない自由な生き方は羨ましいが、自分には到底出来そうにない。
麦野はふと疑問を口にした。
「馬榎さんは、どうして逃げ回るのでしょうね」
「〈会議室の幽霊〉が陣沼香苗だと思った。大方、振った罪悪感が恐怖を呼んで、自分に襲い掛かるとでも思っているんじゃねェの」
「でも――」
言いかけて、躊躇した。
風見が怪訝な目を向ける。
「――何でもありません」
「言えよ。途中で止められたら気になるだろ」
「あの……香りって、本当に、偶然漂ってきたものだったのでしょうか?」
脚を組み直し、風見が不遜な笑みを浮かべる。
「俺の推理が誤っていると?」
「い、いえ。風見さんの推理を否定するつもりではなくて」
だから言い淀んだのだ。しかし口に出してしまったものは仕方がない。見当違いかもしれないが……と麦野は拳を握り締め、手帳にまとめた内容を読み上げた。
「陣沼さんが亡くなったことが噂になり、同時期に発生した会議室と脱衣所の吸排気不良によるトラブルと結びついて〈会議室の幽霊〉の怪談が生まれた。そこに発端となった西B工場の主任である馬榎さんが、たまたま面接官の代打となって会議室に滞在している最中に偶然現象が発生し、陣沼さんの霊が現れたと勘違いして錯乱してしまった……」
それだけではない。
「あの匂いは、豊さんや――陣沼さんが使っていた魔除けの香だった。ということは馬榎さんにも心当たりがある匂いだった可能性が高い。……ここまでの偶然が重なるものでしょうか?」
「つまり――」
風見が親指を下唇に当てる。
「――今朝の騒動は馬榎に陣沼香苗の霊を想起させるべく、故意に起こされたもの」
「そう思いませんか?」
「犯人が居るって訳か」
自分で促した展開とはいえ物騒な単語に麦野は胃がきゅっと収縮した感覚に襲われた。
「男子更衣室に出入りする人は大勢います。絞るなんて無理ですよね……」
動機は。悪戯か? 風見が麦野に手形を付着させたように――面白がって?
「第一容疑者は人事担当だな」
「花丸さん? そんなまさか」
「あいつは馬榎の恋人なんだろ。一番身近な人間は逆に怪しい。推理小説のお約束じゃねェか」
「ああ、その噂は誤解だそうです。さっき米山さんから聞きました」
風見は「はあ?」と顔を顰めた。
「早く言え」
軽く肩を小突かれ、その拍子に手帳が落ちる。「もう……」と聞こえよがしに溜息を漏らしながら手を伸ばすと、先に風見が拾い上げた。
「ちょっと勝手に読まないでくださいよ」
「安心しろ。今日の部分だけしか読まねェよ。大体この俺に読ませずに何のための記録係だ」
「それはそうですけど」
「一○七号室の音は録れていたのか」
「まだ聞いていません」
「そういうものは直ぐに確認しろ」
威圧的な物言いに、風見に抱いた親近感がたちまち遠ざかっていく。
麦野は電話を取り出し保存した音声ファイルを開いた。相変わらず電波は入らないが、録音は出来ている。再生すると、冒頭に雑音が流れた。
『気が利くね』
まず風見の声が入る。
――こんこんこんこんこんこんこん!
途中から録音したので最初の音は録れていない。風見が麦野に肩を寄せ、「音量を上げろ」と命じた。
『こ、これも配管ですか?』『んん……わからねェ。弥彦を連れていれば良かったな』
――こんこんこんこんこんこんこんこんこんこん!
――どん! どん! どん!
『隣の部屋、誰か居るだろ』
「うん」
『いいや、空き部屋だよ』
「居るよ」
『おええ』
「米山さん」
「米山さん」
『き、気持ち悪くて。おえ――』
『気にしねェで出すモン出しちまいな』
「豊後さん」
『お兄ちゃん、この坊ちゃんを担いでやんな。上に戻るぞ』
「風見さん」
「居ますよ」
「居ますよ」「居ますよ」「居ますよ」「居ますよ」「居ますよ」
――どん
「麦野さあん?」
「居ますよ」
「居ますよ」
「居ますよ」「居ますよ」「居ますよ」「居ますよ」「居ますよ」「居ますよ」「居ますよ」「居ますよ」「居ますよ」「居ますよ」
音声は終わった。
電話を持つ手がかたかたと震える。何だ、何だこれは。
「え? 風見さん。聞きました? 途中から誰か……あの場に居なかった誰かが居ませんでした?」
「居ますよ」
麦野は椅子から立ち上がり、その拍子に懐中電灯が机から落ちた。転がる明かりは対面の机の脚に当たって止まる。
「風見さん……?」
「居ますよ」
麦野は床から懐中電灯を拾い、風見の座る椅子へ向けた。
「……眩しいって」
「も、もう! この状況でそういうの止めて貰えますか!」
「はっはっ。怖がっていやがる……面白」
「面白くありません!」
どかっと椅子に座り直す。
「いいモンが録れた。今度あのおっさんにも聞かせてやりたいな」
風見はほくほくと笑顔を浮かべた。こんな風に笑えるのか……と見惚れそうになり、麦野は頭を横に振った。惑わされてはいけない。このオカルト愛好家は悪人ではないにしろ性質は良くない。
「そう怖がるなって。とりあえず、その音声データを俺に送ってくれ」
「是非、送ります」
そして自分のデータは直ぐに削除してしまいたい。
「でも今朝電話を落としてしまって、今は電波が入らないんです。修理してから送りますね」
「本当に鈍臭いなあんた」
「よく言われます」
麦野は溜息を吐いた。
「最近はますます運がついていないというか。踏んだり蹴ったりですよ……」
つい独り言が漏れる。
ぽんと何かが投げられ、反射的に両手で受け取った。これは……今朝降霊術を一芝居打った折に使用していた藁細工。
「厄除けだ。貸してやる」
「あ……ありがとうございます」
藁で編まれた小さな雪帽子。全国各地を回っていたのなら雪国辺りの民芸品なのだろう。
二人が連絡先を交換し終えた頃合いにがちゃりと扉が開き、続いて壁を丸い明かりが這った。
「この停電は落雷が原因みたい。随分盛り上がっていたようだけど、何かあったの?」
懐中電灯を手に入室した花丸に、風見は「ちょっとな」と濁した。音声を聞かせるつもりはないようだ。その方がいい。無闇に怖がらせるだけだ。麦野も、まだ少し、身体が震えている。
「なあ。あの旧診療所……本館に地下室があったって話は本当なのか?」
「何よ藪から棒に。豊さんから聞いたの?」
「そういう怪談を聞いた。でもあの建物は二階建てで地下はない。そうだろ?」
花丸は「あたしも詳しくないけれど……」と腕を組む。
「地下室があったという話は聞いたことがあるわ。でもそれ以上は知らないの」
がたがた、と窓が揺れた。枝葉が一方向にしなり、折れそうな程に弓形に湾曲している。
旧診療所の怪談はすべて風見が解決した。しかし、録音に混じった音声だけは理由がつかない。そうなるとこれまでの様々な出来事も果たして解決出来ていたのかどうか……怪しく思えてくる。
降り続ける雨が濁流になってガラスを流れる。向こうの景色はぐにゃりと歪み、木立の影だけが不気味に揺らいでいた。
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