四章
第21話 再び、西B工場
荒々しい雨に叩きつけられ、麦野は容赦ない雨粒の中で薄目を開いた。折り畳み傘は心許なく時折うねる強風に腕ごと持ってゆかれそうになり、ぎゅっと柄を握る。
地面を滑る落ち葉や小枝や空き缶、そしてビニール袋が足首に纏わりつく。そうして足止めを喰らう度にどこか不吉で、示唆的に感じられた。
かん、かん、かん……。
何を報せるのか、サイレンが響く。遠く、排煙口から出る煙は地面と平行にたなびいていた。
ようやく西B工場に辿り着いたときには全員水が滴っていた。各々、疲弊の溜息を吐きながら傘を閉じる。
「麦野さんの傘、壊れちゃったわね」
「古い物でしたから……」
骨折した襤褸々々の折り畳み傘は、もう元には戻りそうにない。
げこ、と声がした。
雨蛙だ。外から入り込んだらしい。気付いた麦野は玄関を開けて隙間から逃がそうとしたが、雨蛙は麦野を見上げるだけで動こうとしなかった。
〈検査部屋〉と秋場が呼んだ部屋は工場の四階にあった。容器は一定の数を更に大箱に詰め、ロット番号を付けてエレベーターで階下に下ろし、検査課へ回され最終確認を受ける。問題なければそのまま出荷という運びだ。その前段階で、先に少量を検査課に回す作業を行う部屋がここなのだそうだ。
「狭い部屋なので自分の他にせいぜい二人が限界です」
「じゃあ俺と……」と麦野に目を向けたのを、花丸が「麦野さんは入らない方が無難ね」と制した。
「この部屋は工程の一部に該当するから、社員以外を入れるのに管理職の許可と、誓約書が必要なの。無断で麦野さんを入れたことが仮屋課長にバレたら後々面倒だわ」
「わかった。となると……」
残りは米山か花丸である。米山を連れ回して具合が悪くなったのに罪悪感があるのか、風見は花丸を指名した。
腕時計は午後三時半を指している。
麦野は米山と共に、薄暗い廊下で彼らが戻って来るのを待つことになった。
「花丸先輩は適任だね。この中じゃ秋場さんが一番心を許している相手だし……僕らは少しゆっくりさせて貰おう」
米山は床に座り込む。
「米山さん、具合は大丈夫ですか?」
「うん、平気だよ。ご心配お掛けしました」
ぺこりと頭を下げる米山に、麦野もお辞儀を返す。ふと目が合って互いに照れ臭く笑った。
「気が楽だな。風見さんが居ないと」
「あはは。ちょっと同感です」
米山とは年齢が近いせいか親しみを覚える。肩の力が抜け、麦野も壁にもたれ掛かった。
「ここ暗いですね」
広い廊下を照らしているのはほんの二、三つの蛍光灯のみ。『節電』と大きく書かれた紙が壁に無造作に貼られている。
「前に電力会社との契約電力量を超えたことがあってね。そうなると更に費用を支払わないとならないから上が怒っちゃって、全工場に節電のお達しが来たんだ」
「色々あるのですね」
「節電と言えど法定の照度基準があるから、それは満たしていると思う。ぎりぎりかもしれないけれど……今年度はマネジメントシステムの事務局が内部監査をしたし、問題ない筈。たぶん」
「マネジメントシステム……ということは風見さんが?」
「風見さんは関係ないよ。当社は品質、環境、安全の―――三つのマネジメントシステムの国際規格の認証も受けているから、うちで所謂マネジメントシステムと言ったらそのどれかを指すね」
それはそうか。今日一日で怪談に触れすぎて、一般的な感覚が鈍ってしまう。
「米山さんは工場のことにお詳しいのですね」
「総務の癖に、って思う?」
「い、いえ」
「実はね、昨年の途中まで僕は西B工場で働いていたんだ」
麦野は目を丸くした。てっきり総務専門だと。米山と花丸のやり取りを見ていても、それなりに長い付き合いなのだろうと思っていた。
米山は驚いた麦野に微笑む。
「僕と陣沼さんとは入れ替わりでね。彼女は僕と比べたらずっと戦力になっていたと思うよ」
「そんな」
そんなことはないと言おうとしたが、何も知らない自分が言ったところで空っぽな言葉だと気付く。
「良いんだ。僕は体も強くないし、ここではお荷物だったから。せめて総務では役に立ちたいと思っている」
「米山さん……」
「麦野さんは、本当にうちの会社に入りたい?」
「あ、ええと……」
麦野は言い澱んだ。
「今日は変なことに巻き込んじゃったけど、アジロを知る良い機会だと思うよ」
麦野は頷いた。
面接で上手く答えられなかった仮屋の質問を思い出す。
――どんな仕事がしたいの?――
「そうですね。心霊マネジメントシステムなんてものも、知りもしませんでしたし」
――様々な仕事が世の中を支えています――
青ヶ幾の助言が身に沁みる。
麦野は廊下の物置の戸から紐がはみ出て、だらりと垂れているのを指差した。
「ああいう紐があるだけでも影が壁に落ちます。それが空調の風で揺れれば、影も揺れる。光の加減では実体よりも大きく見える。そういう些細な違和感が、条件が整えば怪談になる……のかもしれません」
秋場にとっては仕事を辞めたいほどの恐怖を感じる対象でも、実際は「こんなことか」という程度のことかもしれない。真相を解明出来れば彼は安心して仕事を、そして豊後達との寮生活を続けられる。
「大半の人が見過ごすようなことを代わりに向き合って、解き明かして、それで誰かが恐怖から解放されるのなら善い仕事だなと思います」
自分の幻覚にしても、女の霊に憑かれているという話に仕立ててしまえば怪談になる。内定が貰えないのも祟りなのだ……とか。何でも怪談にするのは簡単だ。偶然の不運も、自分の失敗も、怪異の所為に出来れば楽だろう。
同時に恐ろしくもある。ただの憶測や出鱈目が、超自然的な理屈をつけた途端に説得力を持つ。麦野が風見に興味を惹かれるのは、彼ならそうはしないだろうと思うからだ。
「麦野さんってば……風見さんに影響受けてきたね」
「そ、そんなつもりじゃ」
褒められたかは微妙だが麦野は照れ臭く、俯いた。
「それにしても馬榎主任はどこに居るのやら」
「心配ですよね。恋人からの連絡にも応じないなんて」
「恋人?」
「あ……ごめんなさい。実は、噂を耳にしました。花丸さんと馬榎さんがお付き合いされていると」
米山が素っ頓狂な声を出す。
「それ、嘘だよ! 誰から聞いたの?」
「西B工場の、社員の方から……」
「工場は噂が回るのが早いからなあ。誤解を解いておくと、うちは毎年近場で社員旅行があってね。その年の担当幹事が旅行先の下見に行くのが習わしなんだ。一昨年は僕と花丸先輩、馬榎主任と他数人が幹事だったのだけど、下見の帰り道に馬榎主任と二人きりになったところをたまたま目撃した社員が居たみたいで」
「では……」
「そう。根も葉もない噂。花丸先輩の耳にも入って『ますます彼氏が出来なくなる』って嘆いていたよ。仕事では親しかったみたいだし馬榎主任のことを心配しているのは本当だと思う。僕も……前の上司だから早く無事を確かめたいよ」
花丸と馬榎が――恋人同士ではない?
花丸と馬榎、陣沼の三角関係は出鱈目。となると男女の泥沼の三角関係は無かった訳で、馬榎と陣沼の間に障壁はないし、……話が違ってくる。馬榎が陣沼の想いを断るに当たって、花丸を口実に使っただけなのだろうか。何かが引っ掛かる。
足音がし、風見かと見上げると知った顔がこちらを眺めていた。
「米山? それに麦野さんも。二人してこんな場所で何やっているの」
階上に現れたのは仮屋だ。
「えっと、風見さんと」
言いかけた麦野をすかさず米山が小突く。
「またあいつか。沢之内に聞いたぞ。ここでも探偵の真似事を披露したんだって? これ以上好き勝手に引っ掻き回すようなら採用する訳にはいかないねェ」
「しかし、彼の採否を判断するのは青ヶ幾参与なのではないですか?」
米山が言葉を返すと、仮屋はむっとして「風見に関しては――な」と応酬し、麦野を睨んだ。
「彼女に関しては俺にも人事権はあるよ」
米山は「仮屋課長はここで何を?」と話題を逸らした。
「内部監査で出した改善指示の進捗確認だよ。言っておくと、まともな方のマネジメントシステムの内部監査だ」
厭味たらしく言い、彼は階段を上っていく。
「麦野さんに当たることないのにな」
仮屋が立ち去った後に残された疑問を、麦野は胸に留めることはできなかった。
「米山さん。仮屋課長の言葉はどういうことでしょうか。風見さんの採否に関して青ヶ幾部長が判断を下すというのは」
「そのままの意味だよ。風見さんは通常の採用とは違って青ヶ幾参与の……言い方は悪いけれど独断なんだ。採用担当の花丸先輩にも内密に進められているらしいよ」
「それって……」
風見については青ヶ幾が。
麦野については仮屋が。
それぞれの判断が下されるのを待っている。
つまり――
「――これは風見さんの試験でもあるってことですか」
米山は「そうだよ。聞かされてなかった?」と首を傾げた。
知らなかった。
てっきり風見はアジロの社員で、麦野の二次試験の監督も兼ねていると思っていたのに……大きな間違いだった。二人揃って試験を受けていたとは。……間抜けな勘違いだ。
「風見さんに関してはよくわからない。どういう経緯で応募して来て、青ヶ幾さんが審査することになったのか……」
言葉の途中で、ふっと音もなく暗闇が降りた。
停電か。
「予備電源に切り替わらないな」
麦野は肩から鞄を下ろした。幾らか荷物が減ったおかげで、手探りで懐中電灯を探り当てられた。
燈った明かりに、米山の安堵した顔が浮かぶ。
「麦野さん、頼りになるなあ」
「昔から家で色々持たされていたので、未だにその習慣が抜けなくて。荷物が多い方が安心するんです」
階段上から複数の足音が聞こえた。風見と花丸だ。
「停電なんて。そんなに外は荒れているのかしら」
懐中電灯を頼りに米山が玄関を開けると、ごうっと雨風が音を立て、飛んでいきそうな勢いで扉が開いた。慌てて全員で扉を閉める。
「今は出られないな」
風見はたった一瞬で雨風に晒された顔を袖で拭いた。
「調査はどうですか?」
「この停電で中断だ。工場の連中は停電対応で、秋場もそっちに参加している」
ばたばたと足音が聞こえ、誰かが階段を下りてくる。
「復旧しないな。停電は西B工場だけか?」と仮屋が大声で訊く。
止める間もなく仮屋が玄関を開け、再び雨風が工場内に吹き込んだ。
「おい、構内の道路が浸水しているじゃないか。……ったく、排水能力をちゃんと計算したのかねェ。設備の連中は仕事がなっていない!」
仮屋が癇癪を起こしたように叫び散らす。
丁度、一台の車が工場の前に着いた。「その設備部のご到着」と花丸が麦野に耳打ちする。
「停電の見回りか。ご苦労様」
寸前に文句を言っていた舌で、仮屋は労いの言葉を掛けた。
車の窓が下がり、助手席の男性社員が「仕事ですから」と顔を出す。後部座席には弥彦の姿があった。
「恐らく南渡市の広範囲の電気が落ちていますね。ここは?」
「停電だよ。俺も総合棟に戻りたいのに」
「そりゃすみません。この車は満員で」
仮屋は真顔で「君――」と指を指した。弥彦が自分で自分に人差し指を向ける。
「――丁度良い。ここに君の連れが居て、用事があるそうだよ」
「はあ」
間の抜けた顔で返事をしてから、弥彦は車内の社員と顔を見合わせた。社員達は苦笑いで肩を竦める。
「……了解です」
弥彦が降ろされたのと入れ替わりに仮屋が車に乗り込んだ。自分を置いて走り去る車を見送って、弥彦は風見に尋ねた。
「俺に用事があるの?」
「今のところは別に」
「ということは、あの課長に体よく席を譲らされたってか……」
弥彦は不機嫌そうにぶすっとした。
「ちょ、ちょっと。あれ」
花丸が工場の向かいの雑木林を指差す。
煙る樹木の間に佇む、一人の影絵。
――馬榎さん。
こちらの視線に気付いて、馬榎は踵を返した。
どっと強風が吹き荒れ、轟音を立てて雨風が工場に入り込む。体が風に煽られるのも厭わず、麦野は暴風の中に飛び出した。
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