第20話 第六の怪談
風見が箱に鏡を仕舞い、「そりゃアどうするんだい」と豊後が尋ねた。
「持ち帰る。あのまま天井裏に置いておく訳にはいかねェし。こういう物は青ヶ幾さんの専門だからな」
「何だ。お兄ちゃんは青ヶ幾さんの部下か。それなら安心だ」
青ヶ幾と風見。
如何にも胡散臭い印象の風見はともかく、好々爺然とした青ヶ幾が心霊マネジメントシステムに携わっているのに違和感を覚えてしまうのは……偏った見方だろうか。
おえ、と嗚咽する声がした。
米山が猫背でよろよろと戸に背中を預け、ガラスが揺れる。駆け寄ろうとする麦野に、米山は掌を見せて制した。
「おいおい無理するな。俺の部屋で良けりゃ休んで行け」
「平気です。それに今は、馬榎主任を見つけなければなりませんから」
「馬榎? ああ、秋場ンとこの恵比須みてェな男か。奴がどうかしたのかい」
その質問に、豊後には馬榎の失踪は伝えていなかったと気付く。
「は……捜しているって……奴ならさっき見かけたぞ」
「えっ。い、いつですか。どこで」
「俺がパチンコから戻って来たときに、外でな。奴の工場の方向から歩いて来たからてっきり遅い昼休憩に行くモンだと思って気にも留めなかった」
西B工場から?
麦野達と入れ違いになったのか、それとも。
「最初から西B工場に潜んでいたのか」
「風見さん。それは有り得ないよ。幾ら工場が広いからって誰にも目撃されないなんて無理だ」
「まさか工場内に隠し扉なんてありませんよね?」
米山は、はたと固まった。
「な、ないですよね、忍者屋敷じゃあるまいし。ごめんなさい。冗談です……」
変な発言をしてしまった。
「いや――」と米山は蒼白な額を押さえながら「――警備システムで管理されている部屋には電子錠が掛かっていて一般の社員は出入りが出来ない。隠れるには最適だ」と呟く。
「あの間抜けな総務課長が渡しちまった非常用鍵ってのか。しかし記録が残るんだろ?」
「うん。でも記録を常時監視出来る訳じゃないし、昼休憩中に出入りしたならまだ誰も確認していないかもしれない」
そのとき、プルルっと米山の内線電話が鳴った。
「もしもし。あ、花丸先輩。僕からも聞きたいことが……え?」
米山は電話を離し、風見に向かって報告した。
「総務から花丸先輩宛てに、非常用鍵の使用記録があったと連絡が入ったらしい。十二時四十分に西B工場一階倉庫の外鍵を解錠。十三時三十分に同じ区域の内鍵を解錠。出入りの記録がばっちり揃っている」
「俺達が工場を出た後にその倉庫に入り込み、昼休憩が終わって人の出入りが落ち着いた頃にこっそりと出た。滞在時間からして隠れに来たというより何か用事があったのか。眼鏡、その倉庫には何があるんだ」
「それは……」
「保管書類とか、古い備品とか、そういうのだよ」と豊後が答える。
「法律上、この書類は何年間保存しろとか口五月蝿く決まりがあるだろ。特に個人情報や製品情報に関わるモンは、保存年限が過ぎるまで鍵付きの倉庫に仕舞っておく。どの工場もそうだ。あとは使わねェが捨てるのも厄介な備品とかなァ」
米山も頷く。
「じゃあ馬榎の目的を憶測で当たりを付けるのは無理か」
「西B工場に戻りますか?」
「いや。どうせもう馬榎は居ねェんだし。それより次は……開かずの一〇六号室だっけ?」
「えっ」
まだ続けるのか。
「せ、せめて米山さんには休んでいただきましょう。顔、真っ青ですよ」
風見は「ったく、貧弱だな」と言い、米山をしっしっと追い払う仕草をする。それに米山はかちんと頭にきたらしい。
「良いよ。付き合うよ。次で最後でしょう、豊さん」
「かっかっか。そうだな。どうせ部屋の中には入れねェし、見るだけ見て行くか。旧診療所怪談巡りのトリだ」
窓のない洗濯室に居るとわからなかったが、外はますます強風が吹き荒れていた。木造の建物が心許なく軋む。
豊後は廊下に水溜まりを見つけ、「げえ、雨漏りだ」と嘆いた。
「総務の坊ちゃん。ここの修繕も頼むぜ」
「はいはい……」と米山はふらつきながら承諾する。
洗濯室の隣に物置、さらに隣に一○七号室の札が下がっているのが見えた。
「この並びに一○六号室がある」
「この二部屋は他の部屋から離れているのはどうしてだ?」
「ウン。さっきの洗濯室を見ただろ、一階は南側に窓がねェんだ。建て増しだからなのか、所々そういう妙な造りになってンのさ。だから部屋があるのは北側だが、それはそれで日当たりが悪ィ。だモンで今は二階にしか人が住んでいない」
話しながら物置の前を通り過ぎたところで、米山が足を止めた。
「何か臭わない?」
「そうか?」
豊後が首を傾げる。麦野もわからない。
「古い建物だから、どっかで何か腐っててもおかしかないが。坊ちゃんは臭いに敏感なのかもなァ」
「あ……そういえば米山さんが仰っていましたよね」
麦野は思い出し、米山に笑いかける。
「霊が居るときに変な匂いがすることがあるって。そういうことですか?」
米山は笑い返そうとし、表情が引き攣った。
「眼鏡。あんたはここに居ろ」
一○六号室は一階の南西、角部屋だ。天井のの蛍光灯は切れており日が射さない廊下は夜のように薄暗い。
「部屋にゃ窓もねェから誰も住みたがらない。満室だったときは仕方なく使っていたが一○六号室は長らく空き部屋だ。鍵もねェし文字通り開かずの間よ」
部屋の前に到着し、麦野は絶句した。
「まァ鍵があっても開かねェがな」
一○六、と書かれた扉は完全に塞がれていた。
陣沼のロッカーを彷彿とさせる。扉と壁の隙間はガムテープで塞がれ、床も同じ様にテープで目張りされている。その隙間には新聞紙が詰められているのが僅かに見えた。更にその上から乱雑にベニヤ板が打ち付けられ、到底扉を開くことは出来ない。
「怪談の発端は隣の一〇七号室にあって、この部屋に住んだ奴は、誰も居ない筈の一○六号室から物音や人の声が聞こえると言って長続きしねェのさ」
「い、厭ですね」
麦野は腕を摩る。
先刻の洗濯室と似たような話だが、一○六号室のこの不気味な……というか執念すら感じられる有様を見れば、凄みが違う。その隣に住むなんて寒気がする。
「だろう。だからここも長いこと空室よ」
豊後はがちゃりと一○七号室の扉を押した。室内には物一つなく、タイル貼りの床が剝き出しになっていた。
「隣は本当に開かないのか?」
「開かない」
いつの間にか後について来ていた米山が答える。
「鍵か? 鍵屋に言えばすぐに作れるだろ」
「そうだけど……」と歯切れが悪い。何か理由があるのだ。
「どうせ鍵を作製しても入居者がいないのなら費用が勿体ないからね。それに長年使用していなかった以上、清掃や、床や壁紙の張り替えと色々必要なのは想像がつくだろ。現在本館はがら空きで、わざわざ一○六号室を開けなくとも他に部屋は余っているから」
「それはお前の上司の言い分か?」
米山は口籠る。
「仕方ないでしょう。アジロの利益は年々下がっている上、老朽化した工場設備の修繕も重なって、費用にシビアになるのも当然なんだ。特に管理部門は経営層からちくちく言われ易いから……あれで仮屋課長も苦労しているんだよ」
意外な実情だった。
この広大な土地や、数々の工場を考えれば、膨大な維持費が掛かるだろうとは思うが――総合棟を新築する余裕はあるのに、細やかな出費を渋るとは。あの総合棟は取引先に向けて経営は上々であるとアピールするための看板なのかもしれない。
「考えられる原因は空き部屋に住み着いた野生動物……」
「また鼠かもしれませんね」
風見はこんこん、と壁を叩いて「それか壁に配管が通っているのか」と言った。
異様さに気圧されていたけれど結局はこれまでと同様の理由で説明がつきそうだ。麦野はさらさらと手帳に書き入れる。
こん、こん……。
音がし、ペンを止めた。
「風見さんが叩きましたか?」
「いや」
こん、こん、こん……。
壁から音がする。
全員、黙って壁を見つめた。
こん、こん、こん、こん、こん……。
音は一定の間隔で鳴った。ノック音に似ている。何の変哲もない音ではあるが、確かに隣の部屋がああなっている以上、ただの物音すら不気味だ。
「この音は配管だろうな」
麦野は電話を取り出し、録音機能を使った。
「気が利くね」と風見が褒め、麦野が照れくさくにやけたとき。
こんこんこんこんこん!
「こ、これも配管ですか?」
「んん……わからねェ。弥彦を連れていれば良かったな」
こんこんこんこんこんこんこんこん!
壁が微かに振動する。確かに壁から聞こえている。
麦野は電話を構えたまま後退った。
どん! どん! どん!
音が重くなる。まるで拳を壁に振り下げているようだ。
「おいおい。誰か居るだろ」
「いいや、空き部屋だよ」
豊後は無表情に壁から目を逸らさずに答えた。
有無を言わさぬ口調に、風見も黙る。
突然、米山が体を折り曲げて「おええ」と嘔吐いた。目を潤ませ嗚咽を繰り返し、青い顔で蹲る。
「米山さん」
「き、気持ち悪くて。おえ――」
豊後が傍らに座り、背中を摩った。
「気にしねェで出すモン出しちまいな」
米山は口を押えたが、我慢出来ずに吐瀉物が床に散った。悔いた表情で膝をつく米山に「後で片付けるから気にするな」と豊後が慰める。
「お兄ちゃん、この坊ちゃんを担いでやんな。上に戻るぞ」
部屋を出るときに再び、どん、と音が鳴った。風見が名残惜しそうに振り向くのに気付いたが、彼は立ち止まらず、米山を支えて歩き出した。
音は廊下にまで響いて聞こえた。
秋場の部屋に辿り着く頃には米山は自分で歩ける程度に回復していた。依然として顔色は優れず、時折胃液が込み上げるのか手は口元に置かれたままだった。
「米山さん、これを飲んでください。家から持って来たお茶ですけれど、まだ飲んでいないので清潔ですから」と愛飲の普洱茶を入れたペットボトルを手渡す。
「ありがとう、麦野さん。……風見さんも」
米山は廊下のパイプ椅子に腰掛け、少しばかり顔が和らいだ。
段ボールを箱を手にした秋場が部屋から顔を覗かせる。
「豊さん。案内役お疲れ様でした」
「なァに。こっちも良い暇潰しになった。それよりちょいとこいつを休ませてくれ」
豊後は「坊ちゃん、ちょっと待ってな」とどこかへ行ってしまった。
秋場の部屋は多少ごみは減っているものの余り片付いた印象はない。ごみ袋を結ぶ花丸に、風見は「説得していたのか梱包を手伝っていたのかどっちなんだ」と呆れた。
「勿論説得よ。でもどちらにしろ散らかり過ぎていたから……。米山君、どうしたの?」
「い、いえ。少し吐き気が」
豊後は細い筒を手に戻って来た。木彫りの年代物に見える。
「う――豊さん。今、気持ち悪いので香りのする物はちょっと」
「こりゃ魔除けの香だ。誰か火ィ持ってるか。俺ァ禁煙中でな」
豊後は言いながら筒の蓋を外し、細い棒を抜き取る。お香だ。
風見がライターを貸し、豊後が先端に火を点けた。たちまち細い煙が立ち昇る。
「落ち着くだろ。たまに居るんだ、坊ちゃんのように繊細な奴が。……ここは鈍感な野郎しか住めねェのよ」
風見が豊後の手から筒を掠め取った。
「どこで手に入れた」
「何だ、欲しいのかァ? お兄ちゃんは俺と同じ鈍感野郎だし必要ねェだろう」
そうじゃない。風見が言っているのは――
「――これ、今朝面接中に漂った香りと同じです」
間違いない。匂いを記録出来ないのはもどかしいが、あの奇妙な香りは忘れようもない。
「うん、この匂いだったわ。あたしも覚えてる」
花丸がすん、と米山の近くに鼻を寄せ、彼はたじろいで身体を遠ざけた。
「豊さん、今朝総合棟でこれを使わなかったかしら。例えば更衣室のシャワー室とか」
「いいや、普段は持ち歩かねェよ。今だって部屋から取って来たんだ。何を気にしているんだか知らねェが、変な薬じゃあねェぞ……」
豊後以外にこの香を使っている人間が居る。引っ掛かるのはこれが魔除けの香だということだ。
ふん、と風見は香を摘まんで眺め回す。
「秋場にも遣るって言ってンのにこの野郎、断るんだから」
「気休めなんざ要りませんよ。それに俺はその匂いがどうも苦手ででしてね――あの女も似たような香水を使っていたのを思い出しちまうんですよ」
それって、と再び陣沼の名を出しかけて、麦野は呑み込んだ。
「そうだ、秋場ァ。今から作業場にこいつらを連れて行ったらどうだ。お前に取り憑いている例の人影ってのも、このお兄ちゃんなら馬鹿にはしねェで調べてくれると思うぞ」
床に胡座をかいて香を弄っていた風見は、親指で差されて豊後を見る。
「今更……どうせ自分は今日辞めるんですから」
「辞めた後も付き纏われたらどうするんだ」
脅すような口振りではなかったが、秋場には効いた。豊後を見上げた暗い眼付きに怯えが宿る。
「ここを出たら万事解決か。本当にそうか?」
秋場は返事するかに思えたが唇がわなわなと震えただけだった。退職した後のことまで考えが及ばなかったのだろう。
「老い耄れは必要とされている内が華だ。それに俺もなァ、お前が居なくなると寂しいぜ」
「自分だって――」
秋場は膝の上でぎゅっと拳を握った。
「――この工場が、豊さん達との生活が好きですよ。でも……今更……か、風見さんでしたっけ。その……」
「良いぜ」
快諾と同時に、風見が素早く立ち上がる。
秋場は「本当ですか」と破顔し、それから取り繕うように咳払いした。
「いや、すみません……。辞めると決めておきながら往生際が悪いですよね」
「気にするな。あんたが辞めるか辞めないかはどうでも良いと言っただろ」
豊後が秋場の背を叩き、陽気に笑った。まだ何も解決していないのに秋場の表情も明るい。
――ああ、そうか。
心霊マネジメントシステムなどという奇怪な仕事のことを、所詮は趣味半分の業務だろうと思い込んでいた。今、その認識はほんの少しだけ変わりつつあった。
束ねかけの雑誌や床に散らばったままの衣類をそのままに、一行は秋場の部屋を出る。
「じゃあ豊さん、行ってくるよ」
「ああ。行っといで」
「お世話になりました」と麦野達も頭を下げる。
豊後は満足気に微笑み、「お嬢ちゃん達も、またおいで」と手を振った。
――また、西B工場。
馬榎はそこには戻らないだろう。秋場の助けになりたい気持ちの裏で、捜索が後回しになっていく不安が大きくなる。
雨風の中へ出て行く一行を見送りながら、豊後は拝むように呟いた。
「触らぬ神に祟りなしってなァ……」
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