第19話 魔

「ここが、その地下室の跡地って噂なんだがねェ」


 ガラスが嵌められた引き戸を開ける。洗濯室――と書かれた札が揺れ、からからと音を立てた。室内には二槽式洗濯機が数台並んでおり、中央に手洗い用の洗面台が据えられている。

 埃っぽさに手で口元を塞ぎながら部屋をぐるりと見渡し、豊後が眉唾な怪談だ――と述べた理由を理解した。

 洗濯室は地下ですらないし、怪談に登場した鉄扉や鉄格子なども見当たらない。構造上か室内に窓がないため地下室の噂と紐付いたのかもしれないが。


「ここでは物音や足音、時折は人の声が聞こえるらしい。長居すると精神に異常をきたすって……まァただの噂だ。でも雰囲気はあるだろ?」


 風見が洗濯機の蓋を開けて回る。


「物音はどこから?」

「あちこちからするがね。お兄ちゃんを真似して言やァ配管の劣化ってとこか。今じゃここを利用するのは俺位よ」

「それじゃ他の社員はどこで洗濯を?」


 米山が尋ねた。


「隣の新館を使っているようだよ。部屋に洗濯機ありゃ便利なんだがねェ……。まあこの建物自体、取り壊しこそすれ、これ以上の改修はしねェだろうな」

「あの、豊後さん」と麦野が声を掛ける。


「豊さんと呼んでくれや。皆そう呼ぶ」

「では……豊さんはどうして新館に移られないのですか? 今は空きがあると聞きましたけれど」

「そりゃあ若い奴らに囲まれて暮らすより、多少不便でもこっちで爺同士固まっているのが気楽なのよ。秋場だって今日は臍曲げちまってるが普段は気の良い奴なんだ。酒も煙草も賭け事も、五月蝿く言う奴ァいねェからなァ」


 豊後はかっかっか、と笑う。


「……聞かなかったことにします」と米山は文字通り目を瞑った。


「豊さんはここの利用中に怖い体験はしなかったのですか?」

「そうだなァ。さっきも言った物音と、そこのガラス戸には手形が浮かび上がるのは……見たな」


 麦野はガラス戸を振り返る。入口辺りに佇んでいた米山は厭な顔をしてガラス戸から離れた。どことなく顔色が優れない。


「蒸しあちィな。空調設備はねェの?」


 風見は額の汗を拭った。屈んだり見上げたりあちこち触ったりと忙しいからだ。


「ンなモンはないね」

「ふうん。その手形を見たのは冬だったか?」

「ああ。どうしてわかった?」


 うん、と風見は腰を下ろしたまま頷く。


「この洗濯室、出入口に段差があるだろ。そこで靴を履き替える際、手摺りがないから皆ガラス戸に手をつく。そして付着した手の脂が残る。冬の寒い日に一気に温度が下がってガラスが結露すると、脂の部分だけが結露せず浮かび上がるって訳だ」


 豊後は野球帽を取ってガラス戸に顔を近付けた。


「ははあ。確かに手垢だらけだ」

「だろ?」


 風見が得意気にふふんと笑う。観察眼が鋭いというか、手慣れているというか、風見は沢之内に宣言した通りさっさと解決してしまう。


「近々、全館清掃を手配するよ。それと配管も男子トイレの件と併せて僕から依頼をしておく」


 だからもう帰ろう、と米山は言いたそうだ。


「てこたァ足音は動物かねェ」

「潜んでいるとしたら……」と風見が無言で上下を指差す。


「床下を覗くのは無理だからね」


 念を押す米山の言葉に、「じゃあ上だけ見てみるか」と風見は答えた。

 部屋にあった脚立を立て、麦野は指示されるがままに天井板に手を当てる。


 ……見てみるか、と言いながら人にさせるのだから。


 しかし米山は具合が悪そうだし、年配の豊後に押し付ける訳にもいかない。覚悟を決め、よっと力を込めると浮いた板の隙間からぱらぱらと埃が落ちる。目を細めて板をずらすと、押し入れのような独特の匂いがした。


「どうだ、記録係」


 そっと顔を入れ、天井裏を見渡す。所々の隙間から明かりが差し込んでいるが、暗くて詳細は見えない。


「何か居るか」

「暗くて見えないです」


 麦野は一旦顔を引っ込めて報告した。

 差し出された懐中電灯を受け取り、再び天井裏に入る。

 御札が貼ってあったりしたら厭だなと思ったが、そんな物はなく、梁が交差する普通の天井裏に変わったところはなさそうだ。

 気になると言えば、埃や木材の匂い……に混じり、微かに異臭がする。それはトイレのつんと酸っぱい臭いのようだし、薬品のようでもある。

 明かりが照らした先に何かが散らばっていた。

 何だろう。

 豊後が話した怪談が思い出され、肌がぞわぞわと粟立つ。

 ――と同時に、麦野は身を乗り出し、脚立から足を離した。


「お嬢ちゃん! あんまり奥行くと危ねェぞ」


 豊後の注意を聞き流して天井裏に膝を付き、四つん這いになる。ずりずりと近づき、その散らばった何かを指で摘まんだ。変な感触だ。

 麦野は懐中電灯を掴み、ぐるりと辺りを照らした。数メートル先に影が見えた。思わず硬直し、脚をぎゅっと縮こませる。影は動く気配はない。


 ――動物の遺骸かもしれないな。


 熱に浮かされたように天井裏を這う。歯を食いしばり、じりじりと近付いた。それは木枠を幾つか越えた先にある。


 ――良かった。動物ではない。箱……だろうか。


 麦野はそれに向かって腕を伸ばした。


「きゃあっ」


 大して反響しないのに悲鳴はやけに大きく聞こえた。

 何者かに後ろへ引っ張られた気がした。

 振り向くが当然、誰も居ない。


 ――きっと上着を引っ掛けたのだろう。


 それまでの熱中が嘘のように急に気持ちが萎えた。戻ろう。風見にもこんな奥まで探索しろとは言われていない。

 今度は後ろ向きに這いずり、出口を目指した。

 たたたっとどこかで音が鳴る。


 床についた手が止まった。

 何だ?


 たたたっ。


 呼吸が浅くなる。退かされた板から差し込む光を目指し、麦野は出来る限り速度を上げた。懐中電灯を持って移動するのがもどかしい。

 たたたっ。

 たたたたたっ。


「な、な、何か居ました!」


 出口から出るなり、麦野は脚立にしがみついた。米山が麦野を、豊後が脚立を慌てて支える。

 膝ががくがくして降りられない。


「麦野さん、落ち着いて」

「あ、足音が。それから奥に四角い物……たぶん箱があります」


 米山の手を借りながら着地し、そのままに床にへたり込んだ。


「無理するからだ」


 豊後が麦野の頭を叩くと、空気中に細かい埃の粒が舞った。

 まだ心臓がどくどくと脈打っている。

 麦野の後に天井に上った風見が降りてくる。


「断熱材が食い荒らされてる。異臭もするし、十中八九鼠だろう」

「鼠」


  麦野は脱力した。


「私は鼠に怯えたんですね……」

「兄ちゃんに掛かれば、幽霊なんて存在できねェなァ」


 風見は肩を竦める。


「改善の余地……というか、さっさと害獣駆除すりゃ済む話だな。これだけ古いのだから防虫防鼠の点検を定期的にすべきだ」


 呆れたような残念がるような言葉に、米山は「はい」と素直に従った。

 米山が部屋の外で電話を掛ける間、風見が洗濯機の上に箱を置く。


「しかし収穫はあったぜ」


 年季の入った缶だ。

 両手に乗る大きさで、かなり埃を被っているし、錆び付いている。雑に紐で巻かれ、更にガムテープも貼られている。

 紐を鋏で断ち切ろうとする風見に、「おいおい、大丈夫かい」と豊後が言った。珍しく不安そうな声だ。


「なァんか、見るからに開けたら不味そうじゃねェか」

「そうか?」


 風見は意にも介さず、紐を切ってしまう。そして蓋の隙間に刃を差し込み、テープに切れ目を入れる。


「厭な予感がするんだけどなァ……」


 豊後の呟きなど聞く耳持たずに封を解き、風見が蓋を持ち上げた。


「何でしょう、これ」


 中身を覗き込んで麦野は首を傾げた。丸く平たい金属製の、文鎮にも見えるそれは。


「鏡……か?」


 呟いたのは豊後だった。


「ああ。銅鏡だな」


 風見はそれを手に取る。裏には精巧な文様が彫られていた。銅鏡など博物館で目にしたことがある位だ。


「この四角い文様は方格規矩鏡に似ていますね」と麦野が言う。


「どこかの出土品か。まさか盗品じゃねェだろうな」

「ほうかく……何だい、そりゃ」

「ええと、銅鏡は背面の文様によって分類されるんです。方格規矩鏡、内行花文鏡、三角縁神獣鏡などが代表的です。私も専門ではないのでこの鏡がどれに当たるのか正確にはわかりませんけれど……」


 箱の底に、手書きで文字が記されていた。


 トワノシジマニ


 油性ペンで走り書きされた雑な字だ。

 この銅鏡にどれ程の価値があるのか知らないが、入れ物もその辺にありそうな菓子箱だし、梱包も雑だし、しかも鼠が棲む天井裏の奥底に放置するなんて、扱いが余りに適当すぎる。


「この言葉、どこかで聞いた気がするけど……思い出せねェな」

「お兄ちゃん、そりゃないだろ。アジロの社歌だぜ」


 そうか、と麦野は歌詞を書いた頁を開いた。


「三番の最後ですね。ええと、今日は集えよ永久の静寂しじまに、あまの南渡よ……とあります」

「わかんねェな。何だって箱に社歌を書き記すんだ?」

「不思議ですね」


 豊後が面白そうに笑った。


「何も不思議じゃねェよ。むしろその文句が書かれていることでその銅鏡の謎もわかるってモンだ」


 そう言われて麦野は歌詞に目を落とす。歌に意味が込められているのか。

 ンン、と豊後が喉を整える。


「よォく聞けよ」



   哀れ哀れな幼な子よ

   どちらで迷った獣道

   遠きに聳ゆるお山にゆくのか

   たぎいたぎい、たぎいたぎい

   いくら騒げど帰れはしまい、

   天の南渡よ


   集え集えよ迷い子よ

   そちらで造った襤褸筏

   不知火しらぬい燃ゆる海面うなもに漕ぎだし

   こおろこおろ、こおろこおろ

   憐れもうとも戻れはしまい、

   天の南渡よ


   騒げ騒げよ可愛い子よ

   こちらでしましょうお弔い

   不知火消ゆる日の出に焼かれ

   もゆらもゆら、もゆらもゆら

   今日は集えよ永久の静寂しじまに、

   天の南渡よ



 麦野が記した歌詞はここで終わっている。

 しかし豊後は歌を続けた。



   廻れ廻れよ人の子よ

   あちらがおまえの故郷よ

   八百万やおよろず栄ゆる大和のともしび

   もゆらもゆら、もゆらもゆら

   網代の錨が久遠くおんに閉ざす

   天の南渡よ



「あんた、どう思う」

「どうって……社歌らしくないと思いました」

「莫迦。俺が訊いてんのはそんな感想じゃねェって」


 歌い終えた豊後は再びンン、と喉を鳴らした後で言った。


「これは脅しなのよ」

「脅し……ですか?」

「南渡は水害の土地だかンな。お嬢ちゃんが生まれてからも土砂災害があっただろ。そんで昔っから神頼みが日常に根差していたそうな。神域と伝わるのもその辺の事情が関係しているのだろう。水を恐れていた所為かねェ。ここいらじゃ悪いモノは舟に乗って来ると信じられていた」


 舟に。


「迷いこんだ悪い〈魔〉が、舟に乗り、南渡を目指してくる。そうすりゃお天道様に焼かれて死ぬからやめておけって諭している訳だ」

「じゃあこの四番の『久遠に閉ざす』というのは、何を閉ざしているんですか?」

「舟がやって来ると伝わる水門よ。その水門から〈みなと〉と名付けられたって説もあるな。兎に角、そういう土地柄よ」


 だから、と豊後は続ける。


「誰かさんがこの歌詞をわざわざ引用したったこたァ、考えられるのは二つに一つだ。こいつを使って悪いモンを遠ざけたかったか、或いはこいつ自体が魔なのか」


 魔……。


 風見は鏡のまじまじと見つめ、「成程ね」と笑った。

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