第18話 第五の怪談

 ――七十年代の終わりの頃。アジロの診療所にはEという男性医師が常駐していた。


 些細な怪我、風邪などはまず診療所を尋ねE医師の診断を仰ぐのがアジロの慣習になっていた。診断次第でE医師が余所の病院に紹介書を書く。しかし大抵の場合は診療所の治療で事が済んでいたという。それ程にE医師は各分野に精通していた。

 彼は医者としては優秀だったが人付き合いは淡白で、患者に対しても最低限の会話しか交わさない。その態度は時に冷徹すぎると非難されることもあったが、本人は「愛想で治療は出来ない」と言って意に介さなかった。




 ある日の夕方、帰る準備を始めていたE医師の元を工員が訪れた。覇気がなく、瘦せ細った三十過ぎの男だ。


「霊能力に目覚めてしまったのです」


 E医師は荒唐無稽な相談に辟易した。さっさと帰してしまおうと心に決める。


「最初は聞こえるだけ、見えるだけだったのに、近頃は霊から寄って来るようになりまして、勝手に物が動いたり、音を鳴らしたりして、厭がらせをしてくるのです」


 莫迦莫迦しい、それなら医者ではなくお仲間の霊能者にでも頼めばいい、と厳しく突っぱねた。


「霊能者の知り合いは居ません。信じてくれなくても構いませんから、医学的に治るものであれば治してくれませんか」と男は懇願した。

 それじゃあ今ここで霊に命じて物を動かして見せろと言うが男は「出来ない」の一点張り。


「自分の言うことなんか聞きません。奴らは好きなときに勝手に動かすだけです」


 それなら霊を見ることは出来るのか――とE医師は尋ねた。それには男は即座に頷いた。

 E医師は幻覚症状を伴う精神疾患と判断し、少量の薬と、二週間の休職を命じた。


 その二週間が経過しても男が受診に現れない。

 普段なら放っておくところだが、妙に気になり、人事課に確認をした。すると男はまだ休職していると言う。思ったより悪かったか――とE医師は納得し、日々の業務に追われて男のことは忘れてしまった。


 それから更に数週間が経過した頃、常駐の看護婦が「地下から物音がする」と怖がり始めた。

 診療所の地下はE医師が着任する更に昔、入院患者の病棟として使われていたという噂があった。

 しかし噂は出鱈目だろう。なぜなら着任して直ぐに、地下へ下りてみたことがあるのだ。そこは鉄製の扉が立ち並び、廊下に面するすべての窓には鉄格子が嵌められ、室内には異臭を発する溝が横たわっていた。却って具合が悪そうな施設……病室では有り得ない。

 では何に使用されていたのか?

 恐らく倉庫だったのではないかと思う。この厳重さなら、製品や、高額の材料を保管するのにお誂え向きだ。

 普段、地下室の扉は閉ざされている。開けようと思えば開けられるが、あんな場所に用はない。当然看護婦も立ち入らないのだから、物音がするならば、それは――


「――動物じゃないと思います」


 E医師の言葉を、看護婦が先回りして否定した。


「引き摺るような、人間の足音ですよ。あれは」


 非難するような看護婦の眼付きは、E医師に「何とかしろ」と訴えていた。

 総務に点検して貰うか……いや、診療所に部外者を立ち入らせるのはE医師の最も嫌うことだった。

 だが日中は入れ替わり立ち替わりやって来る患者や雑業務で手が離せない。ようやく時間が空いたのは看護婦も帰宅し、すっかり日が暮れてからだった。

 地下室の扉に鍵を差し込んで、E医師は驚いた。


 ――開いている。


 カルテを保管している鍵は厳重に金庫に仕舞っているが、他の鍵は引き出しに入れているだけで、この扉の鍵も盗もうと思えば簡単である。

 しかし誰が、何のために?

 錆びた手摺りを掴み、慎重に階段を下りた。地下の異臭に鼻を押さえる。


「誰か居るのか?」


 声がわあんと反響した。

 返事は無い。

 あいにく蛍光灯は切れていた。自分が一度も取り換えていないのだから仕方がない。予め持参していた懐中電灯を手に、廊下を歩いた。壁や扉には何の汚れかわからない染みがあちこちに付着しており、気持ちの良い場所ではない。窓がない分、圧迫感が気分を酩酊とさせた。


「どなたか居らっしゃいますか? 居るなら返事をしてください」


 つい患者に話し掛ける口調になる。

 人影が見えた気がしてE医師は立ち止まった。


 首吊り死体。


 ひっと後退り、懐中電灯で照らす。

 開け放たれた扉にシーツが掛けられていた。

 胸を撫で下ろし、医者がこんなものにいちいち怯えていては情けないと頭を振った。

 狭い地下だ。呼び掛けて返事も気配もないのだから無人に違いない。やはり気のせいか、野生動物だ。明日、看護婦に良く聞かせなければ。


「居るよ」


 咄嗟に振り返って靡いた懐中電灯の光に、一瞬、男の顔が浮かび上がった。


「来てくれたのですね――先生」


 休職している工員の男だった。

 どうやって侵入したのか。頬は痩せ、頬骨が飛び出し、手足は枝のように細く、あちこち擦り傷を作っている。酷く衰弱しており、立たせようとしたが、ぐんにゃりと掴みどころがない。


「ここは良いですね、先生。静かな夜に微かな物音がしたら気になって眠れないでしょう。ここは五月蠅くって良いですね。ちょっとの音や声は気になりません」


 何を言っている。


 地下はコンクリートに音が吸収され静寂を保っている。男は無残な身体とは裏腹に、幸福な笑みを湛えていた。


「賑やかでいいでしょう。先生、ここは――」


 E医師は、背後を振り返った。


「――沢山居ますから」



 その後の記憶は定かではない。成程、男の言う通りだと納得したような気がするのだが、そこでぷっつりと意識が途切れ、E医者は総合棟の玄関で目を覚ました。早朝に出社した社員に揺り起こされるまで外で熟睡していたらしい。



 E医師の証言通り、男は診療所の地下で保護された。極度に衰弱しており救急搬送され、入院し治療を受けたが、その後は精神病院へ移されたと聞く。


 以後、E医師も幻聴や幻覚に悩まされるようになり、暫くして職を辞した。

 それを機にアジロは診療所を閉め、総合棟に医務室を置くだけになった。診療所の建物は改築され、社員寮として今も使われている。

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