第17話 第四の怪談

 ――実家暮らしだったSが本館に入寮することになったのは、父親と口論になったはずみで家を出ると啖呵を切ってしまったためだった。

 後悔先に立たず。心許ない給料から家賃、光熱費、その他諸々の生活費を捻出したら、手元には殆ど残らない。まだ暫くは親の脛に齧り付いておく計画だったのに。すっかり息子を見送るムードになっている両親を前に、宣言を撤回するのも悔しいし、いっそ独り立ちには良いタイミングだと腹を括るしかなかった。


 アジロに出社し朝一番に入寮の希望を伝えたところ、女性の担当者は欠伸混じりに答えた。


「本館なら今日から入れますけど、どうします?」


 内心、Sはがっかりした。本館は狭いし設備も古いし住人も癖が強いと悪評を耳にする。駄目元で「新館に一室くらい空きがありませんか? どんな部屋でも構わないのですが」と食い下がってみる。


「無いです」


 担当者は低血圧なのか、最低限の言葉しか交わしたくない風であった。空きがないのなら仕方がない。Sは了承し、その夜の内に荷物を纏めて本館に入寮した。




 本館は一部の部屋を除いて風呂・トイレがなく、住人は大浴場と共用トイレを利用しているらしい。利用時間は夜二十三時までと決まっており、時間を過ぎたら有料のシャワー室を使用しなければならないという。何と、十分で百円もする。

 当然台所もなく、料理をしたいのなら共同の炊事があるがガスはやはり有料で、こちらは十円で一定時間コンロに着火するが、すぐに消えるため料理中に何度も小銭を投入せねばならない。煮物を作った日には、一体幾らかかるのか……。

 まさかこうまで面倒が多いとは。社員寮はこれが普通なのだろうか? 生まれてこの方実家以外で暮らしたことがないSにとっては、そんな不便は刺激的で、自立への偉大なる第一歩なのだと興奮すら覚えた。

 しかし引っ越しが済んでみると、思いの外、寮生活は順調であった。自分は一人暮らしに向いていたらしい。

 何となくハードボイルドな気分にさせてくれるレトロな設備。設備同様に融通が利かない住人達。時折、音楽がうるさいだの炊事場に生ごみが残っていただのと文句をつけられる他は、上手くやれていた。

 どうだ。俺だって一人で生活くらい出来る。もう二度と親父と暮らすものか。

 すっかり自信をつけたSだったが、一つ気になることがあった。矢鱈と、物音が聞こえるのである。

 元々診療所だったため壁は丈夫で、隣人の生活音は殆ど気にならない。自分にけちをつけてくる住人も居るが嫌がらせだろう。耳に障るのは、ぎい、とか。こん、とか。壁の中から聞こえる断続的な音だ。


 ――古い建物だからあちこち老朽化して軋んでいるのだろう。


 そういうことを考えているときに限ってどん、と音が鳴る。何ら変哲もない物音である。実家もよく家鳴りしていたから音そのものは気にならない。

 問題は、その音がなる頃合いだ。

 部屋に同僚を呼んだりして他に誰かが居るときには鳴らない。必ずSが一人のとき、それも静かな頃合いを狙って、鳴る。

 テレビを消した直後。湯船に浸かっている間。消灯し、布団に横たわって毛布を引っ張ったとき。帰宅して靴を脱いで、直ぐ。

 見えない誰かがSを怖がらせようと悪意を持って鳴らしているように思えてならなかった。


 物音に怯えながら暮らす日々が続き、Sは精神をすり減らした。新生活にはしゃいだ気分は霧散し、今は一刻も早くこの部屋を引っ越したい。再び総務へ出向き、新館への転居を希望申請を出したがなかなか空きが出ない。かと言って未だ父とは険悪で、実家に帰る訳にもいかない。

 休日の度に神社や寺へ参拝するようになった。評判を聞けば車を数時間運転してでも遠出する。どんな怪しいまじないや厄除けも信じ、それに纏わる道具や小物が増えていく。一度招いた同僚がSの部屋の惨状に驚いて逃げ帰った位だ。

 現象は治まるどころか悪化する一方。

 初めは部屋だけで聞こえていた音が、仕事場や出先でも聞こえるようになり、部屋に女の影が出るようにもなった。いや女とはわからない――人影だ。

 しかし「女に違いない」とSは確信していた。あの女が、何らかの理由で俺に嫌がらせをしているのだ。



 本館に入居して半年が経つ頃、Sが無断欠勤をし、心配した同僚が部屋を訪ねてみると施錠もせずに出掛けていた。Sは見つからず、終業後に同僚数名が近所を捜索し、実家に連絡したがSの足取りは掴めなかった。


 翌朝、Sが本館の男子便所で首を吊っているのが清掃員によって発見された。

 その足元に遺書なのかも定かでない手紙が一通、残されていたそうだ。

「ここにいます」――と。



   *



 ……可哀想にな、と語り終えた豊後は呟いた。


「その一件があって便所の床天井は張り替えられたし、ロープを掛けられるような天井の配管はきっちり覆われたが、Sが色んな奴らに『女が見える』って相談していたもんだから、噂はあっという間に広がっちまってなァ。以来、水は流れるわ物音はするわで。それで怨霊に憑かれたSの霊の仕業――という訳だ」


 風見が個室に入り、「こりゃ古い型式だな。何年物だよ」と呟く。


「アンティークって奴だなァ」

「タンク内の部品が劣化してンだろ。それが原因で勝手に水が流れるのはよくあることだ」

「便器だけじゃなく手洗い場の水道もだよ。俺も出くわしたことがあるがそンときゃ右の水道だったなァ。一度替えられて、そう古かねェと思うが……」


 蛇口を観察し、風見は「ふうん」と頷いた。


「因みに、Sの自殺は事実なのか?」

「ああ、違ェねえ。……俺の知人だかンな。丁度その個室で吊ったんだよ」


 こう、と豊後は首が伸びる仕草をした。

 麦野はペンを手にしたまま後退る。……つい生々しい遺体を想像してしまった。風見はまじまじと天井を見上げ、何か考え込んで身じろぎもしない。


「米山さん、大丈夫ですか?」

「う、うん」


 米山は怯えているのか眼鏡の奥で目が泳いでいる。


「眼鏡、旧診療所に怪談があることを知っていたんじゃないか? だから来たくなかったんだろ」と風見が意地悪く笑った。


「ち、違う。君達に付き合わされたくなかっただけだよ」


 米山はそう言い残し、外へ出ようとした。


「おいおい。これからだってのに中座するな」


 腕を掴まれ、米山は嫌そうな顔を浮かべながらも厭々足を止める。


「ここは会議室や西B工場の怪談と違って、原因とされる出来事が先にあった訳だ。勝手に水が流れる……物音がする……という結果は、『何かに憑かれていた人間が自殺したのだから、その霊も祟るに違いない』と信じた社員達による後付けの解釈だろう」


 風見は、麦野に向けて喋った。まるで講義をしているみたいだ。


「へえ。お兄ちゃん、どうしてそう思う?」

「現象が余りに凡庸すぎるだろ。この水道は、下げ吐水だな」

「何ですか、それ?」

「最近の水道は、こうレバーを上げると水が出るだろ。昔は逆で下げると水が出る、下げ吐水と呼ばれる構造が主流だった。この構造の蛇口は経年でレバーが老朽化すると重みで勝手に下がってきてしまう。それで水が流れっ放しになってしまうケースが多発し、現在は廃止されている」


 ということは、これも心霊現象ではなく設備の劣化による現象。

 豊後は感心した声をあげた。


「しかし物音はどう説明する」

「見てみないとわからねェが大方、配管だろう。配管ってのは音を立てやすいから、不可解な物音がしたときは真っ先に疑うべきだ。特にこんな古い建物じゃな。劣化して金具が外れかかっていたり、配管自体が錆ちまっていたりすると音を鳴らす。それが反響して思いもよらない場所から聞こえたりもする」


 豊後は「へえ」と笑った。


「――改善の余地あり」


 風見は、米山に向けて言った。


「便器を新しくして、蛇口も最近の上げ吐水式に変えれば解決する。余力がありゃ壁の中の配管もな。米山、設備に依頼をしておけ」

「は、はい……」

「それと、社員寮や共有設備の点検の頻度を明文化しておくことだな。じゃ、次」


 一同が背を向けたときだった。

 蛇口が勢いよく開き、跳ねた水が床にぴちゃぴちゃと落ちた。

 ……ただの蛇口の劣化とわかっても、まるで引き留めるようなタイミングでの現象。やや気味が悪い。麦野は鏡を見ないよう気を付けながら、恐る恐る蛇口を閉めた。




 次は、監禁された患者の霊が彷徨う洗濯室だ。


「一応聞くが、監禁なんて物騒な事実は?」

「ないと思うがねェ」


 豊後は無精髭の生えた顎を撫ぜる。


「昔々は精神病患者を幽閉した座敷牢まがいの病棟も存在したそうだが、さすがに会社の診療所でそこまではやらないだろうよ」


 薄暗い廊下を歩く。雨に加えて風も強くなり、窓ががたがたと揺れる。


「眉唾な話だが、聞くかい?」


 風見は頷いた。


「まだ、ここが診療所だった時代の話さァ――」

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