第16話 旧診療所

 一同が顔を見合わせた沈黙の中、ぱき、と小気味良い音がした。花丸が二つに割った煎餅の片方を口に放り込む。


「馬榎主任を繋ぎ止めるためって、どうして?」


 そう問われた秋場は己の失言に気付き、決まり悪そうに頭を掻いた。


「まあ……その」

「随分と賑やかだねェ、秋場ァ」


 知らない声が気まずい空気を破った。知らない男性が施錠していなかった玄関から上がり込み、黒い上着のポケットに両手を仕舞ったまま「よォ」と雑に挨拶する。


「ああ、ぶんさん。今日は休みなんでしたっけ」


 男の顔は深く被ったどこぞの野球チームの帽子に覆われ、にやついた口元しか見えない。


「朝っぱらから並んで新台打ってきたが、まあ、駄目なときは駄目だな。さっさと引き上げて来たところよ。秋場ァお前、辞めるんだって? じじいが辞めるのを引き止めてくれるなんて珍しく情に厚い若者達じゃねェか」

「こいつらはそんなんじゃありません。怪談が好きだそうで」

「……怪談? ああ、お前の工場も出るって言ってたモンな。お前ら、お化けが好きなのか。お嬢ちゃんも?」と幼い子供に言うように、麦野に問いかける。


「ここにも沢山あるぞお。聞きてェか?」


 彼が麦野の目線に屈んでかかっと笑うと、酒臭い吐息が目に滲みた。


「自殺者の霊が出る男子便所、監禁された患者の霊が出る洗濯室、開かずの一〇六号室……最近じゃ女の霊を見たって話も――」

「豊さん……」

「――かっか。悪ィな、秋場。小便漏らすなよ」


 弱々しい秋場の呼び声に、豊後は潔く話題を中断した。謝罪なのか茶化しているのかわかりにくい口調である。


「まあ……丁度良いや、豊さん、ちょっとこいつら相手していてくれませんか。自分は部屋を片付けちまいたいんで」

「良いぜェ」


 豊さんと呼ばれた男は二つ返事で承諾する。


「あら、私はここから動かないわよ。秋場さんの気が変わるってこともあるかもしれないから」

「ありませんよ」

「わからないでしょ?」


 頑として動かない花丸を置いて、一行は秋場に部屋を追い出された。


「へえ。お兄ちゃんは弥彦の倅と知り合いなのか」


 廊下に無造作に置かれたパイプ椅子に座り、豊後ぶんごは上機嫌に喋った。彼はアジロに四十年近く勤めており、弥彦設備の社長である弥彦の父とは顔見知りらしい。


「上から有給休暇の取得率が悪ィって言われてもよォ、休んでやるこたェねんだから困ったモンよ。土日ですら時間を持て余してるってのに。まァそういうことだから、怖い話の一つや二つくらい聞かせてやる時間は山程あるのよ」

「そりゃ楽しみだ」


 風見は機嫌良く微笑む。

 ……いよいよ以て、馬榎の捜索から脱線している。


「ここは社員寮本館って名付けられているが、そんな名前は昔は誰も呼ばなかったね。古い社員は〈旧診療所〉で通じるよ」

「診療所? アジロは企業内診療所があったのか」

「診療所だけじゃねェ。何でもあった。保育所もありゃ、販売所も、畑も、遊び場も。大人も子供も生活がここで事足りる……ってのは大袈裟だが、嘘じゃねェ。村を興すように会社を創り、南渡の礎になりたい――ってなァ」

「それは先代のお言葉ですね」

「よく知っているね、お嬢ちゃん」


 弥彦から聞いただけなのだが。上機嫌な豊後はわしゃわしゃと麦野の頭を撫ぜ、話を続けた。


「俺ァ、アジロに勤めて随分経つがね。華の東京で派手に暮らすつもりが、来てみたらばこんなど田舎で、故郷のしみったれた村から別のしみったれた村に引っ越しただけじゃねェかって落胆したモンだけど……存外に良い暮らしだったなァ。巷じゃ大手企業のことを〈疑似家族〉って言ったりするだろ。アジロは大手じゃねェけど、社員は皆家族みたいだったね」


 昔を懐かしんでいるのか、豊後は目を細めて遠くを見る。


「幾つかの奇妙な風習さえ受け入れちまえば天国よ。まァ今となっちゃ……」

「風習……と言いますと、歌を歌ったりとか、食堂に神棚があったりとか。あと、食事をどこかへ運んでいるのも見かけましたが、あれもですか?」

「色々と面倒があるのは仕方ねェのよ、お嬢ちゃん。嘘か誠か、この土地は神域って話で。食事はここいらの神様に捧げてンのさ」


 神域。

 これまで見聞きした仕来たりが異質な信仰の下に由来するのだと思うと、ぞわりと鳥肌が立った。ぎゅっと腕を握る。神様か……。


「お兄ちゃんもこの辺の出身か」

「こんな辺鄙な土地の出じゃねェよ」

「お嬢ちゃんは?」

「私は地方の田舎から出てきました。今は都内で一人暮らしです」

「そうか、俺とおんなじだな。そっちの坊ちゃんは?」


 少し離れた場所に居た米山は、「僕も違います」と答えた。


 ふと、今朝迷ったときに見掛けた石碑が浮かんだ。あれは社訓の碑ではなく祠や地蔵の類だったのかもしれない。民話は好んで集めるが、そういう中に時折混じる、やや過剰な、濃密民間信仰の類には不気味さを覚えた。

 が、同時に強く惹かれるのも事実。


「外で古びた石碑を見かたのですけれど、あれも神様なのですか?」

「おお、そうよ」

「工場に? 一体、何の?」

「さァ。知らねェが神域の上に建っているのだから丁重に扱わにゃならん。お粗末にして祟るなんてことがあれば、それこそ怪談にありがちな顛末だ。信心に基づいた善行を働いた者だけが恩恵に授かれる。アジロは信心あっての経営なのさァ」

「だから怪談が流行る」


 風見が横槍を入れた。


「碌に信心もない人間が言われるがままに神仏を拝む。信心を欠いた霊的なものだけを肯定する歪な社員がわらわらと生まれる。経典の意味も理解せず形だけ拝んだって、神様も仏様も呆れるだけだぜ」

「言うねェ兄ちゃん。しかし呆れはしねェさ。どこの誰か知らんが、腐っても神さんだもの。そんな人間は――」


 豊後は大口を開けてかっかっと笑った。


「――見捨てるだけだろ」


 思いがけず冷たい声にぎょっとする。

 野球帽に隠された目元が笑っているのかどうか、麦野にはわからなかった。

 風見を見れば、こちらも予想に反して楽しそうに笑っているではないか。今の会話のどこで笑えるのだろう。オカルト愛好家の考えることを理解しようとするなんて、土台無理なのかもしれない。


「ただ怪談を語るんじゃつまらねェ。せっかくここまで来たんだから、現地を案内してやるよ。その方が臨場感あって楽しいだろ?」


 その言葉に風見の表情が輝く。この豊後という男、発想が風見と似通っているらしい。

 米山は「僕はここに残るよ」と顔を曇らせた。


「莫迦。社員寮は総務の管理場所なんだぜ。もし何か問題があれば対処するのはあんたなんだから同行するのが筋だろ」

「たかが怪談を聞くのに、総務が介入するような問題なんて……」と反論しかけ、言葉は途切れた。会議室の一件を思い出したのだろう。




 豊後は風見、麦野、そして渋々ついて歩く米山を引き連れて一階へ下りた。階段は一段一段軋むし、廊下も一歩一歩沈む。暮らしている豊後は慣れているのかもしれないが、いつ倒壊するかわからない不安が付き纏う建物だ。


「とっくのとうに診療所は閉まっちまって、今は総合棟に医務室があるだけだ。それで診療棟の建物を建て増して社員寮に流用したのが、この本館よ」


 豊後が足を止めた扉には男子便所、と古めかしい筆書きで記されていた。引き戸を開けて入るとつんと鼻をつく、アンモニア臭。


「ここで男が一人、首を吊った」


 薄い木枠の窓が、外の雨風で心許なくがたがたと揺れる。

 豊後は野球帽を被り直し、三人が自分に注目しているのを確認してから口を開いた。


「これァ昔、同僚から聞いた話だ――」

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