三章

第15話 第三の怪談

「どうして僕まで!」


 米山は不満を隠さずに風見に喰って掛かった。事務所で出くわしたところを風見の一行に加えられたのだ。


「仕方ねェだろ。沢之内は仕事を抜けられないと言うし、弥彦も設備部に呼ばれちまったし。俺とこいつだけじゃ手が足りない」

「秋場さんのところには花丸先輩が居る。僕まで同行しなくても良いでしょう」

「あれは秋場を引き留めるのに忙しいだろ」

「だから僕だって暇じゃないのに……」


 困り果て、米山は「課長も何とか言ってください」と助けを求めたが、当の仮屋は卓上電話の受話器を持ち上げて「もしもし?」と白々しい通話を始めてしまった。


 結局助け舟は出ず、米山は渋々同行する羽目になったのである。


 雨が止む気配はなく、米山が懸念した通り注意報は大雨洪水警報に切り替わった。社員寮への道すがら、米山が「雨の影響が出ていないか先に構内を見回りたい」と言い、一行は迂回して向かうことになった。


「乗り気じゃないからって遠回りの口実じゃねェだろうな、眼鏡」

「違うよ。アジロの辺りは土地が低いからすぐ浸かるんだ。あと、僕は眼鏡じゃなくて米山です」


 南渡はその地形から多くの大雨に見舞われ、古くから水害の土地だった。近年では昭和三十二年の南渡大水害、平成十一年に発生した洲山すやま土砂災害――。


「洲山の土砂崩れじゃここも浸水したらしいな。ンな場所に工場を建てて大丈夫なのか?」

「創立五十年以上、無事だから。うちの建物は全部入口が高くしてあるんだ。排水も計算されているし浸水対策は万全だよ」


 アジロは南渡市の防災に全面協力し、地下に雨水貯留施設を建設した――とこれもホームページに記載があった。

 行く先々の排水口で逆流した水がぼこぼこと音を鳴らしている。白い靄の立ち込める中、聳える鉄の正門が目に入った。麦野はふと思いついて一人守衛所へと近付く。

 守衛所は境界線上に建っており、内外のどちらにも受付がある。警備員が居るかと思ったが、中は暗く、不在のようだ。

 諦めて戻ろうと背を向けたとき、中からあの歌声がした。


   つどえ、つどえェよ

   まよい子よォ……。


 振り向くと守衛所に警備員が立っている。


「こんにちは。お尋ねしたいのですが、馬榎主任がここを通りませんでしたか?」


 警備員は首を振った。


「いやあ。何人か出入りしたけど通っていないと思うな」

「そうですか……」

「採用面接はどうだったんだい」

「それが、色々ありましてまだ試験中と言いますか」と歯切れ悪く答える。


「おや大変だね。この雨で蒸し暑いし、疲れたろう。この中で休んで行ったらどうだい。意外と涼しいよ」


 麦野の心は一瞬、揺れた。

 涼しさに心惹かれたというより、調査から一旦離れてのびのびしたい気持ちに駆られたのだ。知らず知らずの内に疲弊していたらしい。


「ありがとうございます。でも、私戻らないと」

「そう。気を付けてね」


 警備員は心配そうな表情で麦野を見送った。

 歌が聞こえる。


   あわれもうとも戻れはしまい、

   あまの南渡よォ……。




 社員寮は敷地の奥、南側に建つ。

 上り坂の先、木立の合間から建物の一端が見えた。坂の上には同じ外観の建物が数棟並んでおり、それらを横目に通り過ぎる。


「あの建物が社員寮じゃねェの?」

「あれらは新館でね、秋場さんは本館に住んで居る」


 新館の裏に更にもう一棟の古びた建物があった。成程――と直ぐに理解する。本館とは言うが、つまりは旧館だ。それもとびきりの。

 本館は傾斜面に張り付くように建っていた。老朽化しているが立派な木造建築、正面玄関のガラス戸に印字された『社員寮』の字体が時代を感じさせる。


「寮生が多かった時代は本館も新館も満室だったらしいけど、今は自宅通勤者の割合が増えてね。本館に住んでいるのは秋場さんを含めたほんの数名だけなんだ。ええと、秋場さんの部屋は二〇二号室だ」


 廊下のタイルは所々が割れ、壁の塗装もあちこちが剥がれていた。薄暗い廊下に、扉が開け放たれた部屋の明かりが漏れている。


「あら……皆も来たの?」


 どんな深刻な雰囲気で説得しているのかと思いきや、花丸は部屋の座椅子に腰掛け、缶珈琲を飲みながら煎餅を頬張っていた。


「随分とくつろいでるなあ」

「だって秋場さん、凄く意志が固いんだもの。ねえ?」

「ええ。自分はもう辞めると決めましたから。主任や沢之内には悪いがこんな気味の悪い会社には居られない。ぞろぞろと来たって無駄ですよ」


 秋場が大量の雑誌を紐でてきぱきと縛っていく隣で、花丸が「食べる?」と煎餅を麦野に差し出した。


「まあまあ。俺はあんたを引き留めに来た訳じゃねェからさ。辞めるも辞めないも個人の自由だし」と風見は沢之内に言った言葉をあっさりと翻す。


「あんたの話に興味があるんだ。――人影が見えるんだって?」


 雑誌を束ねる手が止まった。


「俺はそういう話に目がなくてね。せっかく西B工場で生の怪奇現象を拝めると思ったのにとんだ見当違いだったモンだから消化不良なんだよ。俺は本物の怪談を聞きたいんだ」


 風見のにやにや笑いから目を逸らし、秋場は再び積んだ雑誌に手を置いた。


「……あの女ですよ」


 静かな部屋に、秋場の囁き声と、花丸が煎餅を咀嚼する音が響く。


「あいつが来てからおかしくなった」

「あの女?」

「夏までうちの工場に居た派遣の女ですよ」

「陣沼さんのことですね」と麦野が口を挟む。


「名前を出すな!」


 突然の怒声に麦野は手に持った煎餅を取り落とした。秋場は顔を真っ赤にし、肩を上下させる。

 麻紐の玉が床に転がった。

 硬直した麦野の前に出、花丸が宥める。


「秋場さん、落ち着いてよ。うちを受けに来た学生さんなの。余り脅かさないで」


 秋場は「すみません」と呼吸を落ち着けた。


「しかし、それなら尚更言っておかなきゃなりません。うちには入らない方が良い。まだ間に合います」

「はあ……」と麦野は落ちた煎餅に手を伸ばす。


「順を追って話してくれ。最初に変だと感じたのは?」


 声を落とし、風見はいつもよりゆっくりとした調子で秋場に問い掛ける。


「最初? あの女が居たことは確かですが、詳細まで覚えていませんよ。うちは毎日忙しいのに」

「覚えている限りで結構だ」


 拗ねた口調で秋場は答えた。


「……検査部屋で仕事をしていたときです」

「検査部屋?」

「製品を検査課に渡すために行う作業をする部屋のことです。容器に詰めたり、必要書類を用意したり」

「成程。影とやらを見るのはその部屋だけか?」

「あちこちですよ! だから参っているんでしょうが」

「他は」


 風見は根気強く質問を続ける。


「あちこちはあちこちです。いちいち覚えてられませんよ。影が、こう、自分の後ろにいつのまにか立っているのですよ。何する訳じゃないですけど、怖いでしょう、そんな影が居たら。だから辞めたいのです。自分はおかしいことを言っていますか?」

「いや。そんな状況なら俺だって辞めたいだろうな」


 同意に安堵したのか秋場は頬を緩めた。

 ………風見ならば辞めるどころか嬉々として喜ぶだろうに、とは口にしない。


「最初から変な女だと思っていました。主任は若いからすっかり騙されていたけど、自分位の年齢になると直感でわかります」

「わかる? 何が?」


 風見に乗せられ、秋場の話し振りに熱が篭もった。彼が握ったままの麻紐の先端が小刻みに震える。


「危うさですよ。女でも男でも、些細な行動に違和感を覚える人間は居ます。大したことないと思って見過ごすとこっちが痛い目に遭う。貴方もわかるでしょう?」


 人差し指でこめかみを掻き風見は曖昧に頷く。


「わかる――かな?」

「そうでしょう、貴方ならわかってくれるでしょう。貴方は自分の若い頃にそっくりです。良い男は危うい女を惹き付けますから。まあ逆も然りで。磁石みたいなものです」


 話がどんどん脱線してゆく。

 秋場が男女の持論を展開するのを、風見は彼が満足するまで喋らせることに決めたらしかった。


「あの女も何か危ういと思いましたね。自信がない割にはナルシストで」

「ナルシスト?」

「若い奴に多いでしょう、しょっちゅう鏡で身嗜みを整えるようなのが。あの女も気が付くと鏡の前に立っていて、こう、じいっと自分の顔を見つめている訳です。何分も、何分も、こちらが注意をしたら離れますが、気付くとまた鏡の前に居る。頻繁に化粧か髪型を整えている訳です」

「そんな人、女でも男でも珍しくないと思うわよ」


 花丸が言うと、秋場は首を振った。


「それが奇怪しいから怖いんじゃないですか。一度、うちの同僚があの女に直接、『可愛い』と褒めたことがあります。総務に知れたらセクハラだ何だ注意されるかもしれませんが……勿論、下心ない言葉ですよ。余りに謙遜するので、彼が『本当に可愛いのだから自信を持ったら良い』と言うと、『嘘を吐くな。お前だって本心では莫迦にしているのだろう』と凄い剣幕で言い返されまして。こっちはまさか怒られるとは思いませんから呆気に取られて」


 確かに少し繊細過ぎる気もする。


「陣沼さんがそんな人だったなんて全然知らなかったわ。それは主任や沢之内君には言わなかったの?」

「言っても信じなかったでしょう。普段は本当に大人しい、従順な社員でしたから。それに告げ口する程のことでもないし……恨みも買いたくなかったので」

「辞めるときに書き置きがあったんだって?」

「ああ、沢之内から聞いたのですね。主任がそれを見つけたとき、自分もその場に居ました」

「何と書いてあった」

「今思えば……」


 秋場は目蓋を閉じ、ぶるっと身震いした。


「あの女は本当は、鏡に映った自分らを観察していたのではないかと思うのです」


 どうも風見の質問は聞こえていなかったらしい。


「それで退職後も――否、死後も――工場を監視出来るよう影を工場に置いていったに違いありません。なぜって? そりゃ当然、馬榎主任を繋ぎ止めるためでしょう。それがどうしてか自分に――」


 早口で捲し立て、秋場はゆっくりと息を吐いた。

 古雑誌の頁がはらりと捲れる。


「――憑いちまったんだ」

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