第13話 仕来たり
あの面接の最中、恐怖が刻み込まれた馬榎の表情を思い出す。
「書き置きの内容を教えてくれないか」
「実は、自分は読んでいないのです。作業着を封印する話が持ち上がったときに
弥彦は溜息交じりに呟いた。
「自殺した部下の霊か。馬榎の気持ちになりゃ間違っても工場にゃ戻って来ねーだろうな。他を当たるしかない」
ますます雨脚は強くなる一方で、この分では外には居られないだろう。建物内を虱潰しに捜すにしても、アジロには隠れ場所はいくらでもある。
「他ねえ……」と風見は頭を掻き、「どこ捜す?」と遊びにでも行くような口振りで麦野に尋ねた。麦野は頬の傷をハンカチで隠し、努めて冷静に答える。
「幽霊から逃げているのなら、安全な場所に隠れているのではないでしょうか」
「安全な場所ってどこだよ」
「えーと……そうだ。神社はどうですか。大きい工場なら、敷地内に祀っていたりしますよね」
「アジロにそんなものあったかねえ」
三人揃って構内図を覗き込んでも、それらしき場所は見当たらない。
「神社なんか見たことないっスよ。先輩は?」
「俺もないな。安全祈願なら近所の神宮に参拝していますしね」
全員が腕組みをして黙りこくったとき、麦野の腹の虫がぐう、と昼飯時を知らせた。部屋の掛け時計は十三時を示している。
「皆さんも休憩されるなら、一緒に社員食堂へ行きませんか」
沢之内の提案で一行は西B工場を出た。
本降りの雨の中、多くの社員が外を行き交っている。アジロには社員食堂が社員寮と総合棟の二ヶ所にあり、寮生は寮に戻り、自宅通勤者は総合棟の食堂へ向かうのだそうだ。
「馬榎主任も社員食堂に居るかもしれませんね」と沢之内が言った。
馬榎は会社近くのアパートから通勤しているらしい。あんな風に逃げ出して呑気に食堂で昼食を摂るとは考えにくいが、馬榎の取り乱し振りを実際に見ていない沢之内と白川は、主任がどこかをほっつき歩いている位の認識でいるようだった。
細い小道ではすれ違いざまに傘と傘がぶつかり合う。その度に、相手が馬榎ではないかと麦野は気が気で無かった。
自傷した頬には絆創膏を貼り、風見達には肌荒れの所為だと誤魔化したが、弥彦だけはどこか腑に落ちない表情を見せた。
ふと、雨と土の匂いに混じって、食べ物の匂いが漂う。折り畳み傘を後ろに傾け、周囲を見渡した。
小路の前方から膳を持った女性社員と、その隣で傘を持つ女性の二人組が歩いて来る。膳には白米に汁物、魚に副菜――と一揃えの食事が乗っていた。彼女達は「お疲れ様です」と口々に挨拶し、麦野は不思議な気持ちで行違った。
「今日の日替わり定食は秋刀魚か――」と弥彦が呟く。「――旬だねェ」
あの食事はどこへ運ばれるのだろう。
彼女達の姿は白煙に消える。
向き直ると風見達はずっと先を歩いており、麦野は早足で追いついた。
「馬榎と陣沼って娘はそういう仲だったのかい」
弥彦が沢之内に尋ねた。
「あの写真、ただの上司と部下にしては親密すぎるように思ってね」
「陣沼さんは主任に好意を寄せていたように見えました」
馬榎の顔を思い浮かべる。丸い輪郭に、細く下がった目。恵比寿を彷彿とさせる風貌は美男子ではないが包容力を感じさせる。
「西B工場は重労働が大半で、新人が直ぐに辞めがちで。だから俺達も新人を厳しく指導するよりは、なるべく優しく接して、長く勤めて欲しいというのが馬榎主任の考えです。元々温厚な馬榎主任だからこそ成り立つ方針ですけど」
それでも人は辞め続けた。遂に手が回らなくなり、これまで男性に限っていた募集を女性可とし、西B工場に初めて入って来た女性が陣沼だったという。
彼女はそれまで主任が担っていた事務作業を請け負うことになり、馬榎が陣沼に業務の指導をする内に、二人の距離は目に見えて近付いていった。
「初めての女性社員ですから主任も相当に気を遣った筈です。その甲斐あってか陣沼さんは早々に主任と打ち解けました。傍目には上手くいっていたように見えたのですけど。いや――」
その陣沼が急に辞めたと知ったのは突然だった。仕事が合わなかったのか、女一人の職場で居心地が悪かったのか、それとも。
「――上手くいきすぎたのかもしれませんね」
「この兄ちゃんに惚れたってか?」と弥彦が首を傾げる。
「いやいや男は見た目じゃないですよ。主任、頭は良いし出世頭だし、何より優しいっスから。結構モテるらしいですよ」
白川はさらりと答えた。さしておかしいことでもない風に答える白川の口ぶりに、馬榎は本当に慕われているのだなと感じた。麦野は今朝、錯乱した馬榎しか知らないのだから印象に差があるのは仕方がない。
「陣沼はこの辺が地元の人間なのか?」
「さあ……そう言えば、彼女、退職のときに総合棟の更衣室に私物を置きっ放しだったな。総務に預けたけれど、まあ派遣会社に送っているのでしょうね」
「それだけ急な退職だったんだなあ」
「仕事も恋も順調だったのなら、陣沼さんはどうして死を選んでしまわれたのでしょう?」
麦野の問いに、沢之内は「順調かどうかは……」と複雑な表情を浮かべる。
「だってほら、皆さんはご存知だと思いますけど、馬榎主任は総務の花丸さんと付き合っているじゃないですか」
麦野と弥彦は互いに「えっ?」と声を揃えた。
「そうなんスか。知らなかった」と白川も驚く。
「周りには隠しているんだろうね。これは俺の勝手な推測ですが、主任の優しさを勘違いした陣沼さんが一方的に想いを募らせ、主任がきっぱり断ったために関係が拗れたのではないでしょうか。陣沼さんは少し神経質というか……融通が利かないところもあったので」
陣沼は円満な契約終了ではなく馬榎との間で何らかの――恐らくは男女のトラブルがあったことを一部の社員達は薄々察していたのだ。だから陣沼の訃報に驚き、彼女の霊魂を恐れた。
死してなお馬榎に執着し、後ろ髪を引かれた陣沼の魂が、作業着に残っているのでは――と。
総合棟に到着し、五人はエレベーターに乗り込んだ。二階で開いた扉の前で待っていたのは、花丸と米山だ。
「あら、お疲れ様」
会釈をする麦野の後ろで沢之内と白川が気まずそうに奥へ引っ込んだのがわかった。エレベーターが六階に到着すると二人はそそくさと場を離れた。
「沢之内君達と一緒に居たということは、貴方達は西B工場に行っていたのね」
風見は真剣に食堂のメニューを眺めている。
「そうです。でも馬榎主任の行先はどなたもご存じありませんでした」と麦野が代わりに答えた。
「青ヶ幾さんはどうしている?」
花丸の質問は無視した癖に、風見が会話に割り込む。
「お部屋で休んでいらっしゃるわ」
「爺さんは人に指示しておいて呑気なモンだね」
「何言っているの。もうずっと具合が芳しくないのよ。九十近いのに毎日体に鞭打って出社されているのだから」
花丸が大きな瞳で睨んだ。二人が言い合うのを横目に、弥彦がこそっと耳打ちした。
「……気丈だと思わないかい」
「え?」
「花丸ちゃんだよ。恋人が錯乱して行方知れずなんだぜ。内心は仕事どころじゃないだろうに」
風見と花丸が先に食堂へ入って行くのを見て、麦野も頷いた。
「知ったら複雑ですよね。会議室の噂の根源が自分の恋人に思いを寄せていた女性で、しかも自殺している……なんて」
「社内恋愛で三角関係とはややこしいなァ。これだけ社員数が多けりゃそういうこともあるのか。……ようし、やっぱり気分は秋刀魚だ」
麦野が手帳を取り出す間に、弥彦は足取り軽く歩いて行く。
会議室と西B工場の怪談はどちらも陣沼の自殺を切掛けに広まった噂だったが、人為的な原因で説明が付いた。しかしロビーの鏡に現れた血文字の説明は付かない。
馬榎はどこに隠れているのだろう。
「麦野さん、ランチ食べないの?」
「行きます!」
慌てて手帳を仕舞い、麦野は米山と並んで食堂に向かった。
「あ、待って」と米山が呼び止める。
「ここで手洗いとうがいをしっかりしてからね」
焦って手洗い場の前を通り過ぎようとしたことが恥ずかしかった。まるで小学校の先生と児童だ。他の社員も手を洗っている。当然と言えばそうなのだが、誰一人として通り過ぎないのは衛生観念がしっかりしているというか、社員教育の賜物だろう。
「洗ったら、そこで軽く拝むんだ」
「拝む……? あの神棚ですか?」
「うん。僕の真似をしてね」
米山が手洗い場の隣にある神棚に向かって手を合わせた。
「ひらきませんように」
どういう意味だろう。
「決まりだから」と米山は苦笑した。
神棚の前に箸が縦横に組み積まれ、米山が上から一組を手に取った。麦野も倣って手に取る。崩さぬよう慎重になった余り、指先から箸が滑り落ち、からからと床を転がった。
慌てて手を伸ばした先に、誰かが屈んで箸を拾い上げた。
「すみません」
男性社員は「新しい箸を貰うと良いですよ」と微笑む。
「篠下さん、どうかしましたか?」
「いえ。それじゃあ」
……この会社は変な仕来たりが多い。
まあ郷に入っては郷に従えと言うし、疑問を持ち過ぎないのが吉だな――と麦野は自分を納得させた。
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