第12話 死者の衣
正午を過ぎて白川と共に五、六名の社員がロッカー室に入った。その後もぱらぱらと続き、狭い空間に十五名の社員が集合する。予想していた以上の人数だ。最後に入室した沢之内が扉を閉めると、外の機械音が遠くなり、部屋の空気が張り詰めた。
「まずあんた達の認識を確認しておきたい――」
風見はがんがんと陣沼のロッカーを叩いた。鈍い金属音。全員が肩を竦める。
「――このロッカーの中身は何だ?」
不意の質問に、沈黙が返って来る。
「中に何が入っているか把握している者は?」
風見が言い方を変えると全員が挙手をした。
「陣沼さんの作業着っス」
ようやく白川が答える。
風見は頷き、「全員、その認識でいいか」と場を見渡した。それぞれが頷き、否定する者はいない。
「まずそれが正しいか確認しよう。弥彦」
「はいよ」
弥彦がカッターの刃先でぴったり貼られたガムテープの切れ目を持ち上げ、そのまま剥がそうとする。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
白川が叫んだ。
「開けちゃうんですか?」
「ああ。あと調べていないのはこのロッカーだけだからな」
「でも」
「もうすぐ新人がこのロッカーを使うんだろ?」
「そうなんスけど……」
白川はまったく納得していない。先刻は白川自身はどの程度霊の祟りを信じているのか量れなかったけれど、この様子では。
「本当に大丈夫なんだよな?」と弥彦は風見の顔を窺う。
「ああ、開けろ」
「……頼むぜ」
白川の制止を無視し、弥彦が一枚目のガムテープを剝がす。そのまま続けようとする弥彦の手を、今度は沢之内が掴んだ。
「何だよ、さっきから。中には作業着が入っているだけなんだろ?」
「わ、悪いものが出てきたらどうするんですか」
悪いもの?
「それはつまり?」
「陣沼は何らかの未練を残して死んだのです。この作業着だって……彼女の自殺と無関係とは思えません」
他の者も頷いて同調し、風見を非難がましく睨む。彼らは心の底から陣沼の祟りを信じているのだ。
「風見さんは原因がわかったのでしょう? ロッカーを開ける前に説明してくださってもよろしいのでは」
「わかった、わかったよ」
根負けし、風見は弥彦に目配せする。弥彦がロッカーから離れると沢之内達はあからさまに安堵の表情を浮かべた。
「まず話を整理すると、陣沼が着用していた作業着だけが、何度捨てても戻って来ると……そうだな?」
「ええ。まあ、正確に言うなら、業者に廃棄を依頼したのに何度も納品されて戻ってくるのです。床に置いてあるのがその回収箱ですよ」
沢之内が二つ箱を指した。青色の箱には〈洗浄用〉、赤色の箱には〈廃棄用〉、と記されている。
「納品後一度も着用していないのだし、そのままごみ箱に捨てても構わないんじゃないか?」
「いいえ。特例を認めるわけにはいきません。誰かが誤って汚染された作業着を一般のごみ箱に捨ててしまった場合に、周囲もミスに気付けないと有害物質が外に出るリスクがありますから。実際、新人が大勢入った時期に、汚れた作業着を廃棄箱ではなく一般ごみに捨ててしまうというミスが頻繁したのです。そのときは俺も何度か、ごみ箱から洗浄箱に入れ直しましたよ」
「どうも、ややこしいな。それは洗浄箱? 捨てるつもりの物なら廃棄箱じゃないか?」
「ほら。他人の物を廃棄して、後々トラブルになったら面倒でしょう? 洗浄箱に入れておけば納品時にかならず持ち主の手元に戻りますからね。そりゃあ、本当なら、その場で持ち主に確認するのが一番良いのですけれど……うちの工場は広いし捜す時間も惜しくて」
「ふうん。しかし、いくら人的ミス防止のためとは言ってもそうやって業者に依頼するのもタダじゃないだろ。ちらりと耳にしたところじゃ生産現場の費用の見直しが命じられているそうじゃないか」
「風見さん。この費用はさすがに必要経費ですよ。法令遵守は無視できません」
風見は持っていた書類を沢之内に渡した。『工場内ルールの見直し案』と題された資料には、箇条書きで文章が書かれている。
「ああ、これは知っています。馬榎主任が上に命じられて頭を悩ませていた件ですね。どんなに小さな節約でもいいから一つでも多く案を出せと」
原材料の在庫量の見直し……品質エラーを前年度比で一割減する……製品を破棄した場合の再発防止……。
沢之内は資料を捲る。
工場内の節電の徹底……コピー枚数の軽減……そして。
文字を追う目が、ぴたりと止まった。
「作業着廃棄ルールの変更……? 何ですか、これ」
「主任以上の社員が認めた場合に限り、作業着を一般ごみで廃棄して良いと記されている。この変更を把握していたのは?」
誰も手を挙げない。挙手をしたのはただ一人、風見の隣にいた西B工場の平均年齢よりやや上の男性社員――
「主任から聞いていますよ。たしか陣沼さんは有害物を取り扱う工程には入っていなかったから、彼女の作業着は一般ごみ扱いで良いと……そう言っていたと思うけど。次の会議までに実例がある方がいいから、まず彼女の分は一般ごみで捨てるって。部内には時間があるときに正式に周知するからと、主任は仰っていました」
沢之内は書類に目を落とし、金を見、それから天井を仰いだ。
「待て……待ってください……じゃあ……」
「彼は馬榎の指示で、陣沼の作業着をごみ箱に捨てていた。ごみ箱に作業着が捨てられているところに通りがった誰かが、ご丁寧に洗浄箱に入れ直していた訳だ。当然、陣沼の作業着は洗浄が済んだ後に納品される。つまり、これが延々と繰り返されていただけの話だな」
「そんな莫迦な。だって金さんもおかしいと思わなかったんですか? 同じ作業着が何度も戻って来て」
「そりゃ思ったよ。思ったけどさ、沢之内君も皆も、なんか陣沼さんのことは話したがらないから、異動したばかりの俺がわざわざ蒸し返すのも悪いかなって。まさか怪談になっているなんてこの風見さんから聞くまで思いもよらなかったよ!」
金は気まずそうに、へへ、と笑った。対照的に、沢之内達の顔からは表情が消える。
「互いに確認しておけば防げた筈のことだな。ルール変更時の伝達漏れと、トラブルの分析不足が重なって引き起こされていた。つまり――」
風見が沢之内に言い放つ。
「――改善の余地あり」
沢之内は呆気に取られ、何の言葉も出ない様子だ。
「な、何だあ。ただの伝達漏れってことっスかあ」
「そんなとこだな。ここの工場にもルール変更時の周知手順はあるだろ? それを主任自ら省いてちゃ示しがつかねェな。今回の件、後出しで構わないから手順に則って文書を出すべきだ。それと、廃棄したい作業着を誤って一般ごみに捨ててしまうケース……これは発生した都度、全体に再教育すべきだと思うぜ。教育されると思えばミスの抑止力にもなるし、教育記録が残っていれば対策のしようもある」
「わかりました。参考にして、再発防止に努めます」
彼は生真面目に答える。
「いやあ~。思い込みって怖いっスね。俺らでちゃんと情報を共有していれば簡単にわかった筈なのに、陣沼さんの話題を避けていた所為で、こんな」
「まあ集団の心理ってのは理屈じゃ解けねェしな」
白川は「陣沼さんはとばっちりっスねえ。悪霊みたいに怖がられて」と苦笑した。
自分も怖がっていたのは棚に上げている。
「その……陣沼さんという方は、生前はどんな女性だったんですか?」
今まで黙っていた麦野に突然話し掛けられ、怯んだ様子で沢之内は数秒置いた後に答えた。
「普通の人でしたよ。どちらかと言えば地味な印象の。うちじゃ女性社員は一人だけだったけれど問題なく馴染んでいました」
「主任にも気に入られていたのにな。急に辞めちまうなんて何が不満だったのか」
「言われてみれば、辞める前は体調悪そうにしていましたね」
「あれ体調が悪かったのかあ。俺はてっきりダイエットかと……」
「少し、人とずれたところはあったよな」
「ああ、発言がちょっとな。でもうちみたいな男所帯の工場は合っていたと思うね」
社員が口々に陣沼について述べ、麦野はそれも手帳に書いた。やや地味で、少し周囲から浮いていた女性。どこか共感を覚えてしまう。
「陣沼さんの祟りだなんて、濡れ衣を着せてしまって申し訳なかった。風見さん達も、ありがとうございます。俺達の不手際に付き合わせてご迷惑をお掛けしました」
弥彦がロッカーのガムテープを引き剥がした。今度は誰も止めなかった。
中には陣沼の作業着がぽつんと置かれている。風見が沢之内に差し出すと、彼は暫く作業着を凝視した後、両手でそれを受け取った。
沢之内が作業着を開き、そしてまた畳んでごみ箱に入れた。畳まれていた際は見えなかったが、作業着の襟の内側に何やら文字が書かれているのに気付いた。掠れているが目に入ったのは片仮名のム……〈仏〉と読めた気がする。
西B工場の面々は昼休憩で散り散りになり、ロッカー室には麦野と風見、弥彦、そして沢之内と白川だけが残った。
作業着の解決で拍子抜けしたために気が緩んでいたのだと思う。
陣沼のロッカーの内側に付いていた丸い手鏡を見てしまった。鏡に髪の毛がだらりと付着していた。窓から覗き込んだような女の顔が半分。ぐっと喉を咄嗟に締めて堪える。
ここで麦野が悲鳴を上げたら、白川達は「幽霊はやはり居たのだ」と思ってしまう。陣沼の怪談が再燃する。せっかくの風見の推理も台無しになる。
でも怖い。どうしてあの女は自分に憑いているのだ。
声が漏れそうになる頬に爪を立てる。麦野は強く、強く、強く、痛い程に目蓋を閉じる。
「麦野ちゃん、どうしたの?」
弥彦の声を勝手に合図にし、ゆっくりと目を開ける。
三、二、一……。
手鏡の中は空だった。
「汗がすごいよ」
「あ、う、う……すみません」とハンカチで顔を拭う。こういうとき化粧をしていないと面倒がなくて良い。ハンカチに血が付着する。
ロッカーの奥に何かがあるのが目に入ったのに反応し、不注意で手鏡を見てしまったのだ。
――幻覚症状が悪化しているような。
「麦野ちゃん、頬に切り傷が」
「だ、大丈夫です」
「いや、でも」
何か言いたそうな弥彦を無視し、麦野は鏡を見ないようにしてロッカーに近付いた。
目に入ったのは男女のツーショット写真だ。撮影現場はどこかの居酒屋。男は馬榎で、一緒に写るのは――
「それが陣沼さんです」
――沢之内が言い、風見が麦野の手からさっと写真を取り上げた。
焦げ茶色のロングヘアで、ぱっちりとした目、優しい顔立ちのふっくらとした女性。赤ら顔の馬榎に肩を組まれ、穏やかにカメラ目線で微笑んでいる。日付からするとアジロに派遣されて少し経った頃らしい。この約一年後に、彼女は命を絶った。
「あれ? ないな……」
空のロッカーを覗き込んだ沢之内が呟いた。
「先輩。何のことっスか?」
「皆を怖がらせると思って言わなかったんだ……」と沢之内は答えてから、風見に顔を向けた。
「ロッカーに、彼女の遺書を入れていた筈なんです」
「遺書?」
「正確には退職時の書き置きなのですが……」
書き置き。
風見は腕を組む。
「成程。道理でおかしいと思った。たかが作業着一枚にしちゃあの封印は大袈裟すぎる。あんた本当は、その書き置きを封じたかったんだろ」
「まあ、両方ですね。……確かに入れたのになあ」
「馬榎は書き置きの存在を知っていたのか?」
「当然です。だって主任の席に置かれていたんですから」
麦野と弥彦は目配せする。
風見も同じ結論に居たったらしく、声に活気が宿った。
「ふん。これで馬榎が逃げた理由がはっきりしたな。奴はあのとき、会議室に陣沼香苗の霊が現れたと思い込んで逃げ出したんだ」
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