第11話 社歌

「か、火事ですか?」


 麦野は慌ててロッカー室から飛び出した。焦げ臭くはない。取り乱す麦野の後から弥彦がのんびりと歩いて来る。


「違う、違う。アジロは始業と終業の他に、この時間にもサイレンが鳴るのさ。俺達も事務室に行こう」


 弥彦の言った通り、三階の事務室には多くの社員が集っていた。作業道具を持ったままの者、顔に汚れが付着している者など、それぞれ作業を中断して来たらしい。そこには風見の姿もある。


 一体何が始まるのだろう。


 誰かが仕切る雰囲気もなく、約二十名の社員が事務机を避けて歪な円になる。奥の印刷機がぎぎぎと機械音を軋ませる位で、誰も喋らない。

 ぴんぽんぱんぽん……と天井のスピーカーからアナウンスを告げる軽快な音が鳴った。


「社員の皆さん、お仕事お疲れ様です。時間になりましたので、社歌の斉唱をお願いいたします」


 花丸だ。録音かもしれないが確かに彼女の声だ。

 少しの間があった後、雑音混じりの古びたメロディが流れる。呆気に取られている麦野を余所に、社員達が一斉に歌い始めた。



   あわれ、あわれなおさな子よ

   どちらで迷ったけもの道



 ――これは。

 守衛所にて警備員が口ずさんでいた歌だ。アジロの社歌だったのか。

 男声でぼそぼそと歌われるせいだろうか。いやに陰鬱な旋律に聞こえる。もしアジロに入社したら――現時点で可能性は低そうだが――暗唱しなければなるまい。一度聞けば覚えられそうな単調なメロディ。麦野は低い歌声に耳を澄ませ、歌詞を聞き取ろうと構えた。



   遠きにそびゆるお山にゆくのか

   たぎいたぎい

   たぎいたぎい

   いくらさわげど帰れはしまい

   あまの南渡よ


   つどえ、つどえよ、まよい子よ

   そちらで造ったぼろいかだ

   しらぬい燃ゆるうなもに漕ぎだし

   こおろこおろ

   こおろこおろ

   あわれもうとも戻れはしまい

   あまの南渡よ


   さわげ、さわげよかわい子よ

   こちらでしましょうおとむらい

   しらぬい消ゆる日の出に焼かれ

   もゆらもゆら

   もゆらもゆら

   今日はつどえよ、とわのしじまに

   あまの南渡よ



 麦野が真剣にメモを取りながら社歌を覚えようとする間、風見は何やら弥彦に耳打ちをした。

 それにしても、社員の士気が上がるどころか下がりそうな歌である。社員達が当然のように受け入れているらしいことも不気味というか、洗脳の近しさを感じるが、会社とはどこも多かれ少なかれ洗脳下に置かれるものなのかもしれない。

 おとむらい。

 麦野はペン先でその部分に線を引いた。弔いとは死者の霊を鎮めること。……社歌には相応しくない言葉だ。

 弔い。死者の弔い。

 或いは供養。

 元々は『供給資養きょうきゅうしよう』の略で、サンスクリット語で尊敬を意味する『プージャー』が語源だ。古来では僧侶に敬意を払ってお香や花、灯明、飲食などを捧げる行為を表す言葉だったらしい。それが現代では故人の冥福を祈ることや、その行為自体を指す言葉に変わったという。

 あの作業着が封印されたロッカーもある側面では供養と言えなくもない。会議室の幽霊だって、風見が暴かずあのまま怪談が信じられていたらどうなっていたのか。こんな風に供養されていたかもしれない。……誰でもない死者のことを。



 まばらに社員達が解散する。誰かの「雨が降ってきたな」という言葉で目を向けると、雨粒がぽつぽつと窓を叩いていた。

 直ぐに窓から目を背けた。外が暗くなればガラスに自分の顔が映ってしまう。


「馬榎主任の居場所はわかりましたか?」


 尋ねたのは、最初に話し掛けた沢之内だった。相変わらずパソコンの前に陣取り、忙しなく指を動かし、時折苛立った様子で文字を消しては打ち直している。


「いや。だが、どうして逃げたのかはわかった」

「逃げた?」


 訝しんだ声で訊き返す。それでもキーボードを叩く手は止まらない。風見は事務机に積まれた書類を流し見、一枚の紙を摘まみ上げた。


陣沼つらぬま香苗かなえ


 キーボードの音がぴたりと止む。

 初めて、沢之内が風見と目を合わせた。

 風見が手にしたのは過去の勤務表で、陣沼香苗という名が記された欄は途中から斜線で消されている。


「陣沼のロッカーの鍵を貸して欲しい」

「君達は馬榎主任を捜しているのかと思いましたが」


 明らかに狼狽し、沢之内は腰を浮かす。


「沢之内先輩、俺が話したんス。総務の人達が陣沼の作業着の件を調べてくれるらしいんで」と白川が会話に割り込み、「あれ。俺、陣沼の名前言いましたっけ?」と首を傾げた。


「そういうことでしたか。ロッカーの合い鍵は金庫に保管しています」


 事務室の卓上の隅、小さな金庫の中に鍵束が剝き出しで置かれていた。白川が束を確かめ、一本の鍵を外す。


「陣沼のロッカーは、この番号の鍵ですね。まさか……開けるんスか?」

「そのために俺に依頼したんだろ?」

「それはそうなんスけど……」

「作業着の謎も大体がわかったし、詳しくはロッカー室で話すことにしよう。そうそう、興味のある奴が居れば呼んでも構わねェぜ」


 風見は一人で原因の見当を付けてしまったらしい。麦野はまたしても蚊帳の外だ。


「じゃあ昼休憩まで待って貰えませんか。原因があるなら知りたい奴は大勢居ると思うんスよ」

「了解、じゃあ十二時にロッカー室だ」


 白川は現場に戻り、沢之内は変わらず事務作業に没頭している。

 ……遺品に故人の魂が宿る。現実にそんなことが起こり得るのだろうか。




 風見が「そろそろ行くか」と言ったのを合図に麦野と弥彦も倣って立ち上がった。

 出て行きざま、一人残った沢之内の視線に気付いてふりむくと、彼は「後で俺も行きますよ。馬榎主任の不在時は、俺が主任代理なので」と言った。

 麦野に向けた言葉というよりは、自分に言い聞かせるような口振りだった。

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