第10話 心霊マネジメントシステム
心霊マネジメントシステムとは、何だ?
風見の険しい顔にたじろぎ、麦野は質問を呑み込んだ。
「しかしまあ杜撰な工場だぜ」
どうも麦野に怒っているのではないらしい。西B工場は杜撰と一刀両断される程、劣悪な環境だろうか? 建物は古いが工場内ははよく清掃されていて、整理整頓も行き届いているように思えるが。
「PDCAサイクルが碌に回っていない」
「P……何ですか?」
「知らねェのか。大学の学費をドブに捨ててンな」
厳しい厭味に、笑顔を心掛けていた麦野の頬が痙攣する。
「勉強不足ですみません」
「本当に。……PDCAってのは、計画の『Plan』、実行の『Do』、評価の『Check』、改善の『Act』のそれぞれの頭文字を取ってつけられた名称だ。
とある目標に対して、達成に向けた計画を立てるのが『Plan』。その計画に基づいた活動を実行するのが『Do』。その活動状況が計画に沿っているかを確認し評価するのが『Check』。計画通りでない部分があれば改善方法を考え、次の計画に繋げるのが『Act』。
このPlan→Do→Check→Actの4段階を1サイクルとして」と風見は宙に円を描き、「一周したら、最後のActを次のPlanにつなげる」とそのまま次の円を描いた。
「そのサイクルを続けていけばどんどんレベルが向上して」
風見がぐるぐると指を回し、螺旋になる。
「PDCAサイクルをスパイラルアップさせることで継続的な改善を続ける。これを一般的に『PDCAを回す』と言う――」
風見はそこで言葉を止め、「――わかるか?」と訊いた。
麦野は手帳に書き入れながら頷いた。
「事業活動の改善において基本的な思考だよ。マネジメントシステムの基本だから頭に入れておけ」
「はい」と素直に返事をする。
通路で立ち話をしている三人に目もくれず、工場内の社員らは一心不乱に作業に没頭していた。
どこかで電話の着信音が鳴る。
「白川君を庇う訳じゃないけどさ、PDCAを回して分析する時間的な余裕がないんじゃないの。人手不足で大変らしいじゃん」
弥彦が駆けて来る社員のために道を譲りながら言った。着信音が途切れ、代わりに平謝りする声が廊下に響く。
「だからって原因も調べずに怪談にするなんて思考停止も甚だしいぜ。たかが作業着一枚にしても法令が絡んでいるのに」
「そりゃそうなんだけどね」
弥彦が肩を竦める。どちらの言い分もわかる、と言いたげな顔だ。
「しかし……安請け合いしちまって良かったのか? この工場に関して何も知らない癖に、どう手を着けるんだよ」
「ちょっと調べりゃどうにかなるだろ」と風見は自信たっぷりに答え、「ところで、あんたはどう思う」と麦野に尋ねた。
「私ですか?」
「一応これはあんたの二次試験でもあるし、見解を聞いておきたい」
麦野はごくりと唾を呑んだ。彼は試験監督も兼ねているに違いない。麦野の評価を、後で青ヶ幾や仮屋に報告するのだろう。堅実に回答しておきたい気持ちは山々だが、急に問われてもさっぱり見当も付かない。
「ええと。Tさんの遺した作業着が捨てても戻って来る――つまり遺品に死者の魂が宿るという型の怪談ですよね」
「続けて」
「日本には遺品供養の習慣もありますし、Tさんの遺品に彼女の魂あるいは遺志のようなものが籠っていると西B工場の皆さんが考えるのは自然な発想だと思います。宗教的思想と言い換えても良いかもしれません。それをどうするか……」
本当に魂が宿るかどうかは別として、遺品供養は遺族の気持ちの整理をつけるために必要なのだ。
――そうだ。
必ずしも原因を突き止めなくても良いのではないだろうか?
「Tさんの作業着をお焚き上げするというのはどうでしょう?」
「お焚き上げェ?」と弥彦が素っ頓狂な声を上げる。
「はい。会議室でしたように、また風見さんが拝む真似をしてみるとか、どうです?」
麦野の提案に、風見は軽快に笑った。
「確かにそれらしい儀式をすりゃ、あいつらは安心するし、焼いちまえば作業着の処分も解決するな」
風見の笑顔につられて頬が緩んだ直後、風見が続けた。
「却下だ」
がくっと落胆してしまう。提案を捻り出してみたけれど、やはり駄目か。無闇に背伸びをするものじゃない。
「そんなことをする位なら放っておいた方がマシだぜ。心霊マネジメントシステムのやり方にまったく適っていない」
自分は降霊術の茶番をしておいて何が違うのだろう。
……と思ったが、口を噤んだ。
「お訊きしたかったのですが、その心霊マネジメントシステムって何なのですか?」
「……今更か。マネジメントシステムはわかるか?」
麦野は首を振る。
「何にも知らねェな。マネジメントシステムっていうのは簡単に言や、企業経営を維持し、発展させるための仕組みのことだ」
無言で眉間に皺を寄せた麦野を見て、「……簡単に言いすぎたか。つまりだな――」と風見は面倒臭さを隠さずに頭を掻く。
「――もう少し具体的に説明すると、企業ってのは経営者が立てた方針や目標に対して活動計画を立てるだろ。その計画はどのように役割分担し、進行し、管理するのか。目標を達成し、その後より良くするにはどうするか、逆に達成できそうにないときはどうするのか、そもそも目標は適切か――という風にPDCAを用いながら管理していく。企業活動に問題が見つかれば原因分析し、再発防止策を講じて改善に努める。これがマネジメントシステム。頭に『品質』と付けば品質管理に関するもの、『環境』と付ければ環境保護に関するもの……って訳だ」
風見はにこりと笑った。無言で「さすがにわかるよな?」と圧力を掛けている。
彼なりに噛み砕いて説明してくれたのは伝わるのだが、残念ながら麦野はいまいち呑み込めずにいた。
それが顔に出ていたのだろう。風見の顔からみるみる表情が消え、真顔になる。
「……わからないのか?」
たった一言で、莫迦にされたと伝わる。麦野は愛想笑いを浮かべたつもりだったが表情の筋肉は素直で、引き攣った苦笑いになった。
風見の綺麗な顔立ちで呆れられると天上から見下されている気分になる。
「まあまあ。俺も最近理解したから気にすることねェって」と弥彦が割って入った。
「工場や店先で『ISO――取得』という看板を目にしたことはないかい」
「それなら……あります」
「そのISOってのがマネジメントシステムに則った国際規格のことで、ああいう看板は『うちは国際規格の認証を受けた優良企業ですよ』とアピールしている訳だな。
で、その国際規格はテーマ別にマネジメントシステムを用いるための具体的なルールを定めている。テーマ――目標と言っても良いけど――『品質マネジメントシステム』の目標は、売り物の品質を保証してお客さんの満足のために頑張ること。『環境マネジメントシステム』は会社周りや地球の環境を保護し、また公害被害を出さないように法律を守ること。『労働安全衛生マネジメントシステム』は安全且つ健やかに働ける職場づくりに努めること……と、他にもあるけど、ざっとこんなとこだね」
弥彦の言うままを手帳に書き入れ、「わかりやすいです」とお礼を言うと聞こえよがしに舌打ちが聞こえた。
「この話の流れだと、心霊マネジメントシステムにも何か目標があるのですか?」
「当たり前だ」
風見が荒っぽい声で答えた。
「超自然的なリスクの最小化、だ。わかりやすいだろうが」
「な、成程……?」
全然わからない。
ぽかんとした麦野の表情が癪に触ったのか、風見はわしゃわしゃと自分の金髪頭を掻き毟り、すう、と息を吸った。
「いいか。どのマネジメントシステムも結局は目標達成云々よりもリスク管理が最も重要なんだよ。環境保護のために電力使用量を何パーセント減らしましたと言っている一方で、有害物質を工場外に垂れ流していたら元も子もないだろ。大体、前者ばかりに気を取られた運用をしているからマネジメントシステム不要論が強くなるんだ。リスク管理を兼ねた目標管理にすれば実務と掛け離れた運用になる筈がないのに」
風見がぺらぺらと語っている最中に、彼の電話が鳴った。風見は弥彦に「子守を頼む」と言い残し、どこかへ行ってしまった。
講釈からようやく解放され、麦野は息を吐く。風見の勢いに圧され、呼吸を忘れていた。
「俺達はどうする?」
「出来れば頭を休めたいです……」
「賛成。そうだ、例のロッカーでも見てみようか」
麦野と弥彦は通り過がりの社員にロッカー室の場所を尋ねた。
西B工場には男性用のロッカー室しかないためTのロッカーもそこにある。工場唯一の女性であった彼女とは、着替えの時間帯をずらすことで対応していたらしい。
ロッカー室は総合棟の更衣室よりずっと狭く、床に敷き詰められたカーペットは全体的に薄汚れていた。『着装基準厳守』、『身だしなみの乱れは心の乱れ』など古びた貼り紙が画鋲で止めてあり、空調の風にぱたぱたと揺れる。
彼女のロッカーは一目でわかった。曰く付きであることを隠そうともせず上から下まで僅かな隙間も残さずガムテープで塞がれたロッカーは異様であった。テープの端が捲れないよう十字で厳重に貼られている。勝手に開いたというたった一回の出来事がどれだけ西川達に恐怖心を植え付けたのかが見て取れた。
「想像以上だな……」
弥彦は恐ろしい物を見る目で数歩後退る。先刻、風見が麦野の提案を却下した理由がわかる気がした。
「もし作業着にTさんの魂が宿っているとしたら、自死してなおロッカーに閉じ込められているなんて可哀想ですね」
弥彦は「そりゃそうだけど――」と顔を歪める。
「――もし悪意が宿っているのなら、閉じ込めて正解じゃないか?」
白川達もそれを恐れたからここまでして封印したのだろう。しかし幾ら何でも大袈裟に怯えすぎじゃないだろうか。
――何かがおかしい。
このロッカーの放つ禍々しさと、そこで人手不足に喘ぎながら働く社員達。
「怪談はリスク管理の不十分によって発生する……か……」
風見の言葉を繰り返した麦野の呟きは、けたたましいサイレンに遮られた。
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