第9話 第二の怪談
――その日、白川は作業着を配布する当番だった。
アジロの工場では、各現場で専用の作業着の着用が義務付けられている。出勤して総合棟で制服に着替えた後、また工場で作業着に着替えるのは手間だが仕方ない。
作業着に関する規則は製品の
現場で付着した有機溶剤等の有害物質を工場外に出さないよう、勝手に洗ってもいけない。作業着の洗濯はすべて特殊洗浄を請け負う専門業者に依頼するのだ。
当番というのは、特殊洗浄を終えて納品された作業着を持ち主のロッカーに配布する役目のことだった。
洗浄済みの〈配布用〉の箱からすべての作業着を配布し終えた後、なぜか一着だけが手元に残ってしまった。Tさんというすでに退職した女性社員の作業着である。
「またか――」
同じく当番をしていた先輩社員が言った。
「――これで三回目だよ」
Tは以前まで西B工場で働いていた派遣社員の女性だ。白川と彼女の持ち場は遠く、殆ど面識がないまま辞めてしまった。
「主任に報告しますか?」と白川が訊くと先輩は首を振る。辞めた社員の作業着は廃棄に出すのが通常と決まっているが、先方の手違いで納品されてしまったのだろう。
「いやァ……どうするかな。最近、主任は苛立っているからな。回収に出していない筈の作業着が納品されたなんて知られたら、どこでそうなったかあれこれ調べろと言われそうだしなァ。この前、別の班がこっ酷く叱られたのを知っているだろ? 報告はよしておこうぜ」
先輩の言葉に白川は同意した。ただでさえ目が回りそうな忙しさの中、余計な火種を生むこともない。Tの後任も入社しておらず恒常的に人手不足なのに。
作業着は、放置されたままのTのロッカーに入れた。つまり……問題を先送りにしたのだ。
その後、誰かがそれをロッカーから取り出し、再度廃棄に出したらしい。
問題は更にその後で、またしてもTの作業着が納品されたのだ。何度廃棄しても、なぜか必ず工場に戻って来てしまう。
規則として、汚れた作業着は洗浄専用の回収箱へ、捨てるなら廃棄専用の回収箱へ入れる。二つの箱は業者によって定期的に回収され、数日後に洗浄分が納品される。
廃棄の場合、例え綺麗な状態の作業着であっても一般のごみ箱には入れてはならないと決まっていた。
入社の際に口酸っぱく指導されるのだが、これだけ人間が居れば間違いは起きる。今回も誰かが〈廃棄用〉と〈洗浄用〉の箱を誤っているのかもしれない。そう考えて回収時と納品時の数を確認しても差異はない。確かに自分がTの作業着を廃棄箱に入れた筈だと証言する者もいる。
現場には何の問題もない。
それにも関わらず、Tの作業着は西B工場に舞い戻り続けた。
やがて徹底的に調べてみるべきだという意見も上がったが、我こそがと手を挙げる者はいなかった。
そんな矢先だった。
Tの訃報を耳にしたのは。
話は瞬く間に工場中に広まった。例の作業着が『退職者の備品』から、『遺品』に変わった。
何度捨てても戻って来る作業着――多忙な業務に埋もれていた小さな謎が、一気に存在感を増す。
恐怖が伝搬するのにそう時間は要しなかった。配布当番の社員が「やりたくない」と役目を拒否し、彼に仕事上の借りがあった白川が仕方なく交代する羽目になった。
――俺だってやりたくないのに。
納品された作業着を倉庫へ取りに行く。西Bと書かれた箱を白川は憂鬱な気持ちで運んだ。
正直、開けたくない。
しかしそういう訳にもいかない。作業着がなければ仕事に差し障る。
ロッカー室に到着し、箱と対面した。
恐る恐る蓋を持ち上げ、洗浄され真っ白になった作業着を一枚一枚、捲って確認していく。
最後の一枚。
そこにはTの名前が記された作業着があった。
「……Tの念が籠っているんだろうな」
白川に泣きつかれた先輩は呟いた。ここまで来ると問題を先送りにするのも難しい。
すると他の社員がこんなことを言い出した。
「Tはうちに未練があって、何かを訴えたいのかもしれない……」
それを皮切りに口々に喋り出す。本当は皆、この恐怖を吐き出したくて溜まらなかったのだ。
「たかが一年くらい働いただけの会社だろ。もっと他に出るところがあるんじゃないか」
「誰かを怨んでいるのかもしれない」
「まさか。主任とも上手くやっていて、派遣契約も更新されていたのに?」
「そういや通夜にはうちの会社から誰か参列したのだろうか」
「家族葬だったのではないかな」
「……自宅で首を吊っていたと聞いた」
「遺書があったそうだよ」
「やめろって、その話は!」
白川はてっきり事故か何かで急死したのだとばかり思い込んでいた。誰かが声を漏らす。
「やっぱりこれはTの祟り……」
きいと金属音が鳴った。
Tのロッカーがひとりでに開いたのだ。
閉め方が甘く、留め具が嵌っていなかったのかもしれない。だが気味の悪いタイミングで開いたロッカーは、まるで白川達に何かを伝えたいように思えた。
――Tはこの工場に戻って来たのだろうか。
その場に居た社員数名の判断で、Tの作業着はロッカーに封印することにした。近所の神社から貰った御札を扉の内側に貼った。
原因が何であれ、ロッカーから出さなければ戻って来ることもない。
それで、作業着の怪は終わった――
――と思われた。
*
「思われたってどういうことだ?」
怪談が苦手な弥彦の顔が青ざめている。
「それが、ようやく補充の派遣社員が入るそうなんスよ。そのロッカーが足りなくて……」
歯に衣着せた言い方に、少しばかり考える。
物に魂が宿る怪談は大きく分けて二つの類型がある。物そのものが霊格を持ち所謂付喪神になる場合と、物を〈器〉として外から霊が入ってしまう場合。白川の話は後者だ。だとして、現在ロッカーに居るのは霊であるという話になる。今はTの霊が憑いた作業着をロッカーに封印出来ているが、新人を受け入れるためにはTのロッカーを明け渡さなければならない。そうすると作業着の怪が再発するかもしれない――と恐れているのだろう。
「Tの霊を目撃した人間はいねェの?」
「聞いたことないっスね。でも皆、祟りを怖がっていますよ」
先刻の会議室と同じだ。幽霊を見た人間は居ないが、周囲は心霊現象だと信じ込んでいる。
まるで自分と逆だな……と麦野は思った。自分ははっきり女の姿を見ているが、あれは幻覚だと確信がある。怪異の信憑性は、怪奇現象そのものの内容よりも共通の体験をした人数に比例するのかもしれない。
「風見さんでしたっけ。総務でどうにかしてくれませんか?」
「良いぜ」
二つ返事で快諾する風見を、麦野は驚いて見上げた。
「ありがとうございます!」
白川は会釈し、足取り軽く歩き去った。
「別に、趣味で引き受けた訳じゃないからな」
風見が仏頂面で振り向く。
「そんな風には思っていませんよ」
……内心を読まれたかと思った。
しかし思いがけず馬榎の名が出た以上、白川の話をただの寄り道と判断するには早計かもしれない。
これを見込んでいたのだろうか……と盗み見た風見は、相変わらず澄ました顔をしている。
「言っていなかった気がするから言うが、これが俺の仕事なんだよ」
「仕事? 総務の?」
麦野が聞き返すと、風見は違う違うと金髪頭を振った。
「俺の本業は、心霊マネジメントシステムの事務局だ」
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